もんてすキュッと⑲
長谷寺に日常が戻っていた。庭は、寺の花を〈拝観〉しにきた観光客で賑わっていた。あれだけ転がっていたタニシの死骸も、きれいさっぱりなくなっていた。心なしか、寺中を流れる水が、いつもより澄んでいる気がする。タニシには、水をきれいにする力があるということを聞いたことがある。タニシは存在したのか、しなかったのか。なんだか、夢みたいだ。――私は「夢」という言葉が嫌いだった。夢――私は夢を見たことがなかった。多分、見たくなかったからだ――私の目の前は常に現実だった。しかしタニシは――
「ミレイちゃん、次はどこに行く?」田中さんが珍しく自分から人語を喋った。私は、この珍奇性に、一種の違和感を覚えた。違和感――そういえばさっき、田中さんは、ふわふわな身体で私を助けながら「私が作者なんだよ」と言った。作者なのか? 田中さんが? その疑問は、長らく土ぼこりを被ったまま放置されていた問い「田中さんとは何か?」を掘り起こした。私はしばらく考えた――田中さんは、のほほんとした表情で私を見つめていた。私は答えた。
「田中さんって、美少女だよね」
「え!?」田中さんが驚いた。同時に、つむじからタケノコが生えた。
「――なるほど」と、サリ。「何の脈絡もなく、突然、人を褒めると説得力が増すんだね」
「もお――、そうだよ、ミレイちゃん、照れるよ~」田中さんは市営バスを喰っていた。乗っていた乗客は、ワアワアと言いながら、ドアを蹴破って外に出、逃げた。運転手は、天に向かって祈っていた。「ああ――上司になんて言えばいいのだろう」彼は、なるほど、上司にバスを高校生の女の子に喰われたと報告する羽目になったようだ。
――人生は、無常の連続だ。虚しさのマントをたなびかせて、私たちは現世を揺蕩うしかないのだ。大通りを歩いているとよく分かる。幅の狭い歩道の上を、人とすれ違わなければいけないときは特にそうだ。右によければいいのか、あるいは左によければいいのか。結局、私はまっすぐ歩いた。向かってくる男も、同様の選択をしたのだろう。私たちは激突した。
「痛い!」私は叫んだ。世間では、残念ながら男と女が激突した時には、圧倒的確率で女が勝利する。男が謝った。
「ごめんなさい!」
「いいわよ、その代わり――」私は、条件を提示した。「神奈川知事選挙では私に投票するのよ?」
「ミレイ、それ、公職選挙法違反だよ」サリは選挙管理委員会みたいな物言いをした。田中さんは、既にその男の鞄を食べていた。男は一文無しになった。私は仕方がないので、千円札を恵んでやった。男は喜んだ。そして、その金で、〈拝観料〉を払った。残金は、六百円になったに違いない。
「で、ミレイ、次はどこに行く?」サリが言った。
「さっきそれ、田中さんが言っていたわよ。聞いてなかったのかしら?」
「君が答えないから、また聞いたんだよ!」怒った。
「分かった分かった――まったく。サリは甘えん坊なんだから……」
「……」
「ミレイちゃん、次はどこに行くの?」田中さんが聞いた。
「あなたたちは、どこに行くつもり? それ次第かな」
「え? 何その質問?」サリはこめかみに手を当てて聞いた。
「何って――「あなたたちは、どこに行くつもり? それ次第かな」以上でも、以下でもないけれど……」私は丁寧に解説した。
「ああもう! 分かった! 私が決める! ってか、最初からそうすればよかったんだ!」サリは言った。「ミレイがいくらここら辺のことに詳しいって言っても、そもそもミレイは人間の出来事に全く詳しくないんだから役に立つわけがなかったんだ!」
「なんですって!? もしやあなた、神奈川県知事選挙に出馬する気!? そうはさせないわよ!」
私はサリに飛びかかった。胸ぐらをつかもうと手を伸ばしたら、即座にかわされてしまった。運動神経は、圧倒的に彼女の方が上だった。サリはティッシュに、スプレータイプの香水をシュッシュッとかけて濡らし、私の口の中に突っ込んできた。あまりに高速な手さばきで、私はもろにそれを食らってしまった。鼻や目や、喉の奥に、〈ラベンダー〉の強烈な匂いが侵食してくる。私はすぐさまそれを引き抜いた。――が、もう遅い。上唇にこびりついたラベンダーは、瞬間的に腐って、生ごみの匂いへと変貌した。――と、田中さんが、ティッシュを抜き取った。
「間接――キスになっちゃうね」田中さんはそれを食べた。その姿は紛れもなく美少女だった。私は、聖母田中を拝んだ。通行人も、それに倣ってお布施を投げた。私は目ざとく、そのお金を拾った。十万二千五百一円――今日の麻雀の賭け金にしよう。
「ねえねえ、この近くに、ゆっくりできるカフェがあるみたいなんだけど、行ってみない?」サリが言った。
「ああ、そこ。この通りをまっすぐ行って、二つ目のブロックを右に曲がって、しばらく進むと左手に見えるわ。家族経営でのんびりとしていて、中では自作の手ぬぐいを売っているの。縁側に用意されたテーブルに座れば、風鈴の音を聞きながら、ゆったりと海を眺められる、最高のカフェよ」
「……」サリはなぜか黙ってしまった。
「行きたい!」田中さんははしゃいだ。「ね、サリちゃん、行こうよ! 絶対いいとこだよ!」
「行くことには賛成なんだけど……なんか……釈然としないなあ」
「わがままね……」
「ちょっと待ってね、行きたいところがあるから」
サリはそう言うと、ローソンの中に入っていった。外から、中を覗くと、彼女は準アダルト雑誌を購入していた。お金を払い終わった後、店内に設置されたごみ箱の前に立って、深呼吸をする。――突然、それを破いた! 真っ二つに! 破いた! はらはらと、真っ二つになった女の身体が、店内にばら撒かれた。更に彼女は、ページを粉々に破き始めた。女の首がチョンパされていた。――しばらく破いた後、彼女は店員に話しかけて、箒とちりとりを受け取り、床を掃いて女の身体の断片をかき集めた。集め終わった後、一気にそれをゴミ箱にぶち込んだ。彼女は、ホッとため息をついた。そして――ケロリとした顔で、自動ドアから出てきた。
「お待たせ! じゃあ行こっか!」
「サリ――」私は、恐怖の念からつい、聞かずにはいられなかった。「あなたって……怪力なのね……」
「で、どこだって行ったっけ。連れてってよミレイ」
「この通りをまっすぐ行って、二つ目のブロックを右に曲がって、しばらく進むと左手に見えるわ。家族経営でのんびりとしていて、中では自作の手ぬぐいを」「君は、ことばのジュークボックスか!!」
――と、田中さんがいつのまにか前に歩み出て、二つ目のブロックを右に曲がろうとしていた。私たちは慌てて、彼女の後を追った。またいなくなられたら困る。しかし、そういえば――田中さんはどうして、攫われたんだろう。やっぱり、美少女だから? ――てか、私たち、田中さんをどうやって取り返したんだっけ……。
「ミレイちゃん! こっちで合ってる?」田中さんが振り返って聞いてきた。
「合ってるわよ」
「え!?」サリが、突然驚いたような声を上げた。「なんで!? なんで答えられたの!?」
サリは、スケジュール帳を取りだして、再び観念的な言葉を縦に横に並べ始めた。彼女の哲学的思索は留まることを知らない。――しばらくすると、一定の結論が出せたようだ。
「なるほど――田中さんと私との形相的差異の実在……」
「なにやってんの、行くよ、サリ」
「う、うん!」サリは笑顔になって答えた。
私たちは裏路地を歩いていた。通りは、少し狭くなっていて、太陽の日が十分に届かないのか、少し暗かった。しかし、この暗さはむしろ、私の気分を高揚させた。こういう場所にあるカフェというのは、必ず――いい場所だと相場が決まっているからだ。
しばらく歩くと、私たちはカフェの目の前に辿り着いた。カフェは、こじんまりとした一軒家風で、門の中の階段を上がった場所にあった。
屋号の下にかかっていた、”OPEN”の札に、つい私はホッとする。開いててよかったわ――私は、門の扉を開けた。扉についていた鈴が、チリリンと鳴り、閑静な通りに響いた。