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『鍋を』

 鍋をやらねばならぬ。
 ひとりで。誰の手も借りずに。絶望。それ以外の感情。どろどろとしたなにか。それらを煮こごりにしたなにか。そう、なにかをやらねばならぬ。
 憎しみしかない。
 だが、まずは鍋だ。
 いや、それよりも妻だ。
 つい二ヶ月前に四十回目の結婚記念日を祝ったというのに。いや、祝い忘れたというのに、妻がいない。今はもう夜の十時を過ぎている。夕飯などとっくに終わっている時間だ。にも関わらず妻はいない。いつも夕飯をつくっている妻がいない。俺が定年を迎え、その後警備員の職についてからは、いつも午後七時には夕飯の支度を終えている妻がいない。家のどこにもいない。なぜか。
 単調直入に言って、家を出て行ったからだ。
 そう言えば、単刀直入を略して単直と言う新人のことが憎くて仕方がない。単直では意味が通じぬと言っても、イミフとあざ笑われ殺意すらおぼえた。それはいい。話を戻そう。
 妻は家を出て行った。おそらく買い物でもなく、友だちと観劇でもなく、ヨガ教室でもない。俺という存在に、夫に、男に、人間に、愛想をつかして出て行ったからだ。
 なぜか。それはわからぬ。妻の問題だからだ。そうでも思わなければ俺の自尊心に傷がつく。医者からはなるべく心臓に負担をかけないよう言われている。自尊心は心臓だ。胎児の頃は心臓に穴が空いているという。へその緒を介して心臓へと母親の血液が流れ込み、それによって酸素が供給されるのだ。かつて俺の自尊心は母親と繋がっていた。クロワッサンが好きな母親だった。家のフローリングの板と板の隙間には、今でも母の食べこぼしたクロワッサンのパリパリの皮のかけらがつまっており、俺の自尊心には妻によって空いた穴がふさがらないでいる。どうするべきか。
 鍋をやらねばならぬ。当然だ。腹が減っているからだ。心臓の穴よりもまずは胃の空隙を埋めねばならぬ。
 しかし俺は鍋のやり方を知らぬ。不器用な人生だった。しかし後悔する暇も反省する時間も今はない。
 だからと鍋のもとを買ってきた。中に液体が入っている。パックの裏面には親切なことに鍋のやり方が書いてある。それにしたがって材料も購入してきた。
 だが、ひとりの分量は書かれていない。仕方なく記載通り三から四人分の食材を買った。重かった。自転車の揺れるハンドルを押さえつけながら寒風吹きすさぶ街中をよたよたと走らせていると、なんとも言えない寂しさを感じた。
 憤怒。
 ひとり者は鍋をやるなとでも言うのか。
 妻に家を出ていかれた男は鍋をやる資格がないのか。
 そんな傲慢さを感じる。くそ。メルド。消費者を舐めきった態度の企業体質を糺さなければならぬ。苦情の電話をかけねばならぬ。
 そう言えば、電話をかけることを電凸と言う新人が許せぬ。
 俺は包丁を持っている。
 明日まで持っている。
 明後日までも持っているだろう。
 わかるか。
 それは妻が帰ってくるまで続くのだ。

 
 了

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