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彼女は一体何者だったのか。

この春に私を熱狂させたアンメットの二人が出演している映画『市子』が、U-NEXTで配信されたので、早速視聴した。
恋人の長谷川(若葉竜也さん)にプロポーズされた市子(杉咲花さん)は、翌日に姿を消してしまう。長谷川は市子の行方を探しながら彼女の半生を辿って行く。というストーリーで、だんだんと彼女の壮絶な半生が顕になっていくのだが、結局彼女が何者なのか、どんな人物なのか分からないまま物語は終わる。総じてなんとも不気味な映画だった。

にしてもアンメットでも思ったけど、この二人が並んだ時のフィット感は言い表せないものがある。お似合いという言葉は陳腐だとすら感じる、魂的なものが共鳴している感じ。その相乗効果がこの作品でも存分に発揮されていて、二人のシーンはヘビーな物語の中で光であり癒しであり、宝物みたいにキラキラしていた。まさに市子にとって、長谷川くんとの日々がそうだったみたいに。お互いがお互いの存在を際立たせている稀有なコンビだな、と改めて。私が二人のファンであることも大きいけど、個で存在しているより魅力的に見えるって凄いことだと思う。二人とも役に対しての愛情がとても深くて、それと同じくらい相手に対しても優しさや温かさを持つことがとても自然で見ていて心地が良い。特にこの花ちゃんの役、辛いことが沢山訪れる役だったから若葉くんがいたことが心強かっただろうし、二人のシーンはより幸せを感じただろうな。

そんな二人の日常を淡々と描くだけでも、見応えがありそうな感じなのに、ストーリーがあまりにもヘビーで、正直これを手放しで面白いと言って良いのは分からないかった。けど、とにかく引き込まれた作品だった。役者の演技でも展開でも吸引力があった。
長谷川と一緒に彼女について一つ一つ知って行くたびに、悲しくなったし、誰も手を差し伸べられなかったのか、どうしてこうなってしまったのかと考えていたのに、最後は彼女に突き放された気分になったところも不思議な感覚だった。なんていうか、2時間かけて見たのに振り出しに戻った感じで呆然としてしまったのだ。映画を見てこんな感覚になったのは初めてだった。

結局今までもこれからも「川辺市子」という人物は存在しなくて、存在していたとしたらそれは『月子』であり、車の中にいた『女性の遺体』であり、そしてこれからは『冬子』である。でもそれは実体というだけで、本当の意味での『市子』は長谷川くんのそばにしかいなかった。
それが市子と長谷川くんのラブストーリーだと言うにはあまりにも残酷すぎて、出会いのシーンを最後に持ってきたこともとてつもなく寂しく感じてしまった。市子は一緒に焼きそばを食べた日からずっとこうなることも考えていたのだろうな。個人的には新しい戸籍を手にしたラストシーンの市子は、長谷川くんの元には向かっていないように見えた。

そして最後まで、彼女は得体の知れないままだった。長谷川くんと出会って、些細な日常に幸せを噛み締める平凡な彼女も、友達と一緒にケーキ屋を開くことを夢見る彼女も、妹の呼吸器を外してじっと生き絶える姿を見つめる彼女も、小泉に向かってままならない感情を叫ぶ彼女も、すべて嘘のない感情で、『市子』であることは分かった。人間は誰しも相反する感情を抱えているもので『衝動』も『諦め』も『純粋さ』も『狡さ』も両立するものだということも理解できる。それが市子の中にも存在していることも。
だけど、彼女の最後の選択が全てを分からなくさせるのだ。
全て彼女がどうにもできない運命を受け入れた受動的な出来事だと思っていたのに、車を用意させ二人を海に連れてきたことで全て彼女の選択で起こっていたことなのかと急に冷や水を被せられた気分になってゾッとする。
今までの彼女は何だったのか、どこまでが本当で、どこまでが『悲劇』になるのだろう、と。確かにいくら何でも人の命を奪うことは、受動的でも出来ないよな、とそこで初めてごく当たり前のことに気付かされるのだ。『可哀想』のベールで包まれていた『市子』が急にとんでもない意思を持ち始める。無意識に被害者バイアスをかけていた自分に気づいてこの感覚がものすごく怖かった。市子は紛れもなく『加害者』なのに。
そう考えると私はきっと彼女と同じ立場に置かれたら『市子』になってしまう人間なのかも知れない。環境や状況を利用して自分を赦してしまうのかも知れない。そうならないように視野を広げようと思ったし、この怖いと思った感覚を忘れないでおこうとも思った。

こうして見進めていくとだんだん彼女に対して同情する気持ちとか、人として何かが欠けていると怖くなる部分とか、相反する色々な感情が湧いてきて、彼女をどう思っているのか分からなくなってくる。感情のまとまらなさに『心地悪さ』を感じてしまう。
最後まで見て、それは正解の感情なのだと知る。『分からない』と思うことこそ『市子』という存在なのだと。『無戸籍』とはそういうことだと突き付けられる。長谷川くんから貰った婚姻届にすら名前が書けないのだから。だって『市子』だと証明できるものが何一つない。文字通り『正体不明』なのだ。彼女の不気味さは、ヤドカリのように実体を移して誰かに成りすまして生きてきたことによる『アイデンティティーの喪失』に直結している。
市子自身が自分の心の居場所を感じていないのだから、私が分からなくなるのも当たり前だ。そう思うと腑に落ちる部分が多かった。
『自分が存在していると証明するもの』がないまま生きて『自分が何者か自分を探すこと』が出来ないまま、また他の誰かになる。
彼女が彼女だと証明できるのは、その時その時で一緒に生きてきた誰かだ。その『誰か』が彼女を形作り、彼女が存在してきたことを証明できる。
そんな曖昧な『他人の記憶』でしか彼女は生きられない。だからその人によって印象が変わるし、その人だけの『市子』が出来上がる。
その曖昧さが、最後の最後まで彼女にまとわり続けていたように感じた。

でも一つだけ分かることがあった。
それは『市子』は生への感情が強いことだ。生きていたいという欲望が人一倍強い。
彼女から漲るその『生命力』の強さに、惹かれていく人たちがたくさんいたのだと思う。どこかでその強さを羨んだり、頼ったりしてしまう。奇しくもそれが彼女の魅力になっているところもまた何とも言えない気持ちにさせた。
だって彼女のその『生命力』はこれもまた『無戸籍』からくるアイデンティティーの渇望だと思うから。自分を証明できないからこそ、生きているぞここにいるぞという人間そのものの存在感が強くなる。それでしか自分がいるということを証明できないといいう切羽詰まった感情。そういった一生懸命生きる姿こそまた、市子の魅力だったと思うから。

そんな彼女の半生を通して、何を伝えたかったのか。もちろん謎解きのようなミステリーを楽しむ要素もあっただろうけど、市子がしたことそのものよりも、市子をそうさせた環境と事情に多くフォーカスしていた印象を持った。
『無戸籍児』や『きょうだい児』『ヤングケアラー』などの「見えない子ども」の現実を市子を通して容赦なく描いていたな、と。
彼女だけの半生にひたすらフォーカスして、必要以上に被害者を描かなかったことには、そこに集中して欲しい意図があったのだと思った。
視点を絞ることで、より問題が浮き彫りになっていた。市子を取り巻く環境は、決して市子が望んだわけではないし、あくまでも外的要因から起こっている。それさえ取り除ければ、母親の「幸せなときもあったんよ」の時間が続いたんだろうから。

だからといって殺して良い理由にはならないとか、市子と同じでも真っ当に生きてる人もいるとかそういう正論や数の理論はまず置いといて、外部からの視点ではない『当事者意識』が必要だなと思った。善悪を考える前に、まず知らない事が多すぎる。悪者が誰かとかじゃなくて、自分だったらどうだったか、戸籍を届ける方法はなかったのか、ケア体制を整えられなかったのか、離婚後300日問題は改善の余地はないのか、そう考えて見ることで意味の成す作品だったのだと感じた。

まあそんなことを考えなくても、杉咲花ちゃんと若葉竜也くんの演技力を堪能するために見ても良いくらいの上質な映画ではあるんですけど。アンメットを見てることでより二人に対して感じることが強くあったな。この市子を二人で乗り越えた絆で臨んだからこその、アンメットの安定感だったんだなーと思うと、より感慨深く感じてしまいます。市子を見た後で見るアンメットも、また違った視点で見れそうなので、三度くらい美味しい気持ち。
どこまでも深くミヤビ先生を理解して寄り添ってくれる三瓶先生に、長谷川くんとして一緒に過ごした若葉竜也くんを重ねた杉咲花ちゃんの感性がやっぱり好きだなーと思いました。
確かにこれを見たら、理由がわかる。あの強く市子を「助けたい」と願って行動していた長谷川くんに、三瓶先生を重ねてしまう。長谷川くんはそれを叶えられなかったかもしれないけど、まわりまわって三瓶先生が叶えてくれたような、作品を超えた繋がりを感じてしまいました。
アンメットを見た方には、また違った刺さり方をするのかもと思うので是非見て欲しいです。

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