小説2 夏休みと逮捕

7月21日、私の高校最後の夏休みは始まろうとしていた。受験生の私にとって今年の夏休みは忙しくなる。家近くの かなり緩い進学校に通い、テスト前だけ勉強してきた私はこの春から心を入れ替えて猛勉強していた。その甲斐あって成 績は恐ろしいほど順調に伸び夏休みに志望校を見学して、どの科を受けるか決めていく予定を建てた。もちろん、しばらくは猛勉強となる。
二期制の高校のため夏休み直前の日も午前中の授業があった。 その後、家に帰ると母が玄関の土間に立って私を待っていた。
「お兄ちゃんが逮捕された」
と母は他人事のように言った。そして夫が警察のとても偉い位の母の従兄弟の雅さんに懇願するのが当然のように電話し た。
その時、私が聞かされたことは私服警官四人が突然家にきて兄を連れて行ったこと。(私は今でもよく同じ夢を見る。 夢の中で私は開いた玄関の外に立って家の中を見ている。夢の中の私が見ているのは私服警官の一人が真夏なのにモスグ リーンの分厚いセーターを着て玄関の土間から部屋に上がろうとしている背中。そこでいつも目が覚める) 兄が車の部品 の窃盗をしたと母は話した。
次の日の新聞には自動車窃盗グループ24人を一斉に逮捕したことが地方版の下の方に小さく載っていた。あと2ヶ月程で20歳の兄の名前は未成年のため載っていなかった。当時19歳は未成年と見なされていた。
私の夏休みは表面的にはその後も何事もなく進んだ。志望大学が同じ愛ちゃんとその大学1年の高校での先輩に大学案内をしてもらうのが最大の夏休みイベント。大学は地元の国立三重大学。今のようにオープンキャンパスはなく大学を 見学したければ個人で先輩に頼むのが少なくとも私たちの中では一般的だった。 主に先輩との連絡は私が電話、手紙でとっていた。それは私がそうしたかったから。先輩は同じ部活でその部活に入っ たのも私が彼に一目惚れをしたからだった。高校生活ではただ憧れていただけで何も恋愛に繋がるような出来事はなかった。ただ同じ大学に入ることができたら告白して付き合って好きになってもらえたらいいなと思っていた。
先輩が卒業間近な頃、私は先輩から彼が受験勉強に使った世界史のノートを借りるのに成功していた。借りる際に、私 は彼に三重大学に行きたいと言ったのだった。でも私は彼が進学する地元の大学ではなく遠く自分のことをだれも知らな い場所へ行きたかった気持ちがあった。同時に同じキャンパスで3年間過ごしたい気持ちもあった。どの大学・学部にす るか決められない気持ち、迷いが沢山あるのに加え兄の逮捕もあり私は不安と焦りの中、ミッド・ナイト・イン・パリの映画ポスターの中にくにゃくにゃ吸い込まれて行くみたいだった。
そんな中ぼんやりと私はサイや鯨みたいに大きくて存在感があるのに静かで声をあまり出さない生き物と一緒にいる未 来を想像していた。鯨の胃袋の中で数人が輪になって、ポツポツと一人ずつ話していく。そんな生活がしたいと思ってい た。ピノキオみたいに。
そして現実では三重大教育学部一筋の愛ちゃんと二人だけで大学見学に行く気分にはなれなかった。きっと私は迷いの ない愛ちゃんが羨ましかったのだと思う。こっそり一人で行くのは愛ちゃんに悪い。それで私は大学進学を諦めている同 じ部活の友達四人を誘った。みんな大学見学を、ただただ喜んで付いて来てくれた。
そして先輩との電話連絡はこんな感じだった。その日、家族は兄に面会するため少年鑑別所へ行っていて私一人取り残 されていた。日時間を決めた後、先輩が「何人で来るの?」と訊いた。
私 は思わず「車?」と訊いた。先輩は、 「おお! 親戚のおじさんの車を譲ってもらって乗っている」 と驚いた声で言った。
私は「六人だからバスで行きます」
と伝えた。本当は愛ちゃんと二人で行くはずだったのに先輩の車に乗れるはずだったのに残念すぎたと思った。
8月の初め、雨が降るのか降らないのかどっちだよと言いたくなる一石日和の日が夏休みの最大イベントの大学見学の日だった。 私は黄緑の水玉模様のブラウスに白のフレアスカートを着ておめかしをした。他の五人と比べると私は浮いていたかも知 れない。みんなは白いブラウスに紺のスカートなどと落ち着いた服装だった。
電車とバスを乗り継ぎ、バスが大学に入りバス停が見えた。バス停のベンチで先輩は待ちくたびれたのか居眠りしていた ようだった。先輩はスカイブルーのTシャツにジーンズを着ていた。
みんなでよろしくお願いしますと挨拶をして大学案内が始まった。先輩を先頭に私たちは後をついて歩いた。女子高校生 六人を連れ案内している先輩は本当の先生のようだった。私は何度も彼を「先生」と呼んでしまったくらいだ。彼は知り合いや友達らとすれ違うと照れて顔を真っ赤にしていた。それを見て先輩が1年前と変わっていない気がして嬉しくなっ た。
校舎の中、その周りを案内して貰い丁度12時になり大学の食堂で食事をすることになった。初めての学食。先輩がA ランチを頼むとみんなもAランチにした。Aランチは唐揚げ3コ、白身の魚のフライ、ポテトサラダ、白米、たくあん、 味噌汁。私だけ、冷やし中華にした。小食の私にはAランチは全部食べられそうにない。先輩が食べ終わる頃みんなは残 した。食べるのが遅い私は慌てて食べ何とか完食した。外は早い夕立のように雨が降り出した。私たちは、そのまま食堂 で少し雑談してから生協の中を見てまわり大学見学を終了した。私にとっては、これが先輩との初デート。
そして私の日常は、また家に籠もり勉強生活になった。時間は私を無視して勝手に過ぎていく。進路は何も決められな い。脳の中の薔薇色の未来を考える部分が全部、すっぽり奪われて空っぽになってしまったみたいだ。勉強に集中するの は困難で成績も低迷。ただ先輩に会うことはやめようと思い始めていた。優しくて非が全くない平和な彼と私はあまりにもかけ離れていると感じた。
そして毎晩ベッドで体が麻痺されて恐怖を感じなくなるまで泣き疲れ眠りにつくという生活に突入した。きっと薬に手を出して嫌なことを忘れるのはこんな感じだと思った。癖のようになってしまった。Addiction この頃、私は精神的におかしくなっている自覚があった。独り部屋にいるとき初めはイライラしてきて、その後、頭にいつも同じ人物が浮かぶ。その人物の彼には顔の中身がない。黄金糖キャンデーの形をした顔の輪郭に薄い髪の毛がのっていて多分耳はあったけれど、目も鼻も口もない。当然何も話さない。そんな彼がゆっくり私に近づこうとする。でも触れることはない。
そして夏休み最後の日、雅さんの警察官の夫に頼んだ甲斐あってか少年院には入らず兄は丸坊主になって帰ってきた。 兄のいない間、父と母は雅さんの夫の指示に従い兄が盗みに入ったお宅に詫びに行っていた。通っていたコンピュータ関 係の専門学校へも何事もなく通えるようだ。本当に何もなかったように。兄からの謝りの言葉もなくて。逮捕以前から我 が家では父と兄と祖父間の会話はない。母も口数が少ない。母の口から出るのは人の噂ばかり。話すのはいつもお喋りな 私だったのに、その頃から次第に私も無口になり沈黙の家となっていった。

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