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アートと共に生きている。

子どもの頃から、絵画に惹かれていた。


美術館には、できれば混まない時期に1人で行く。同行者がいる場合、大変長く待たせることになるからだ。1枚の絵画と延々向き合っていることが多い。
鳥瞰するように作品の中に入り込んでしまう。作品の名を一応確認するのは、題名も作品の一部であるかもしれないため。秒で忘れてしまうけど。
小さな頃から、絵画の見方は変わっていない。空を流れる雲を飽かず眺める子どもと同じだ。
わたしの考える「アート」は人の考えるそれより広がり過ぎている。キャンベルスープ缶の模倣が、4分33秒の無音の曲がアートに思えるくらい。好きか嫌いかは別として、だ。

じっと佇んで見つめているのは、絵画だけではない。好んでそれをするのは、植物に対して。何かの結晶に対して。
花見の季節には桜の花びらのひとつひとつを突っ立って見つめる。なんならスマホのカメラで拡大してじっと観る。露出を変えてじっと観る。
ビスマスの結晶も見つめる。ルーペを手に子どもたちがするより長い時間、角度を変え照明を変えひたすら観る。
ビスマスの結晶は抽象画のよう。

見つめていると、何かが湧き上がる感覚を覚える。そしてそれはわたしの中に入ってくる。観る対象へ向けた心の塊はわたしに還り、それがまた観るものへ、わたしへ…次々と増幅されるのだ。そうしてその塊はついに目に見える形になる。涙という形に。あるいは、笑みという形に。姿勢や動きの変化という形にも。


音楽という見えないアートを追いかけた。


音楽。それはわたしの場合、自身の感情の昇華に必要不可欠のものだ。ネガティブな想念を取り除くためには、いちど表出させる必要がある。その役割を音楽が担っている。一方でポジティブな感情を呼び起こすのもまた音楽である。
「音楽を聴く」ということは、作り手の感情を自身ですべて受けとめることだと思っている。更にコンサート・ライブにおいては、作り手の感情と演奏者の感情を合わせて観客は受けとめる。更に、演奏し歌う側もまた、観客達の感情のうねりを受けとめる。互いにぶつけ合い、受けとめる。想像するだけで熱くなるではないか。いちどその味を知ってしまったなら、知る前には戻れない。
そしてわたしは、音楽という見えないアートを追い求める。今この瞬間も。

わたしの愛するアート


絵画と音楽そして文学。
これらをアートという視点で考えたとき、自身の中でそれぞれに境界線が存在していない。内面に入り込めば文学には音も情景もある。絵画の世界にも音はありそれを表す言葉は文学的である。音楽にも情景があり詩が存在する。

美術館で癒されたり音楽に癒されたりすることを求めてはいない。
求めるのは強く揺さぶられること。それによる心の変化、自由、解放。
作品に触れれば作者の想いを嫌でも受けとめることになる。そしてそれが心の変化、自身の心との対話へとつながってゆく。
アートはきっと、自分自身にある。


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極夜
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