【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第36話
第36話 新しい生活(in 東京)
皆さん、お久しぶりです。美花です。
引越しをして、4月1日に(急にひそひそ声で)〝東京〟に着きました。そして、4月が終わり、5月になって、その5月も終わろうとしています。時の流れって早いですよねぇ……
「みかちゃ、おねぼうさん、おきたの?」
「こ、こらっ、きいちゃん、なに皆さんの前で言ってるのぉ」
「きいちゃん、みかちゃ、おきる、まってた」
はぁ~。お恥ずかしい。引越しと諸々で少々疲れてしまって……
いえね、私達今、(急にひそひそ声で)〝東京〟某所の缶車に住んでいるじゃないですか。
「とーきょー、とーきょー、みかちゃ、ちいさいこえ、なぜなぜ?」
「きいちゃん、あのね、(急にひそひそ声で)〝東京〟っていうのはそういうもんなの」
「なになに?」
「うんとね、きいちゃん、ちょっと見てみよか」
私はきいちゃんのぬいぐるみの体をだっこして、窓のところに行きました。
「ほら、きいちゃん、見て」
「うわあ~。いえ、いっぱいいっぱいいっぱい」
「でしょ、いっぱいの家にはね、たくさん人が住んでいるんだよ」
ん? きいちゃんは黙ってしまいました。考えてるのかな? 私は別の方向を指差します。
「きいちゃん、あっちにはほら、高いビルがいっぱい見えるよ」
「どれれ?」
「牛乳パックみたいなのがいっぱい立っているでしょ。遠いからぼんやりしちゃってるけどさ」
遠くに灰色をしたビルの集合体がぼんやりと見えています。あれは、渋谷でしょうか? 新宿でしょうか? それとも……。私、ひどい方向音痴なもので……
「きいちゃん、ビル、みたいみたい、ビル、いく」
「わかった、わかったってば、きいちゃん。今度行こうね」
「うん!」
「人がめちゃくちゃ多いから、きいちゃんびっくりするぞぉ」
きいちゃんのガラス玉のような目がキラキラッとします。
おそらくあの辺なら行って帰ってこれるだろう。と私は思いました。と言うのはですね、皆さん聞いてくださいよーー。
夫は職場で「2時間待機」っていうのになってしまったんです。どういうことかといいますと、文字通りなんですが、もし職場から呼ばれたら、2時間以内に職場に到着しなければいけない、というものなんです。これ、皆さんどう思いますか?
特殊な仕事なんだから、そういうこともあるんじゃない? と思うかもしれませんね。だけど、それが365日続き(当番制とかシフトとかでなく)、無給です。つまり、そのための手当てがつくことはありません。その辺に買い物とか、ちょっと近場に行く位ならもちろんできます。2時間以内に、缶車に戻って着替えて身分証や必要な仕事道具を持ち、職場に着ける範囲の場所までなら……
「え、ちょっと待って」
と、私は思わず言っていました。すると、夫がつっこみを入れてきます。
「何を待つ?」
「違うよ、その『待って』じゃないの。この標準語がわからないかなぁ…」
「標準語の問題じゃなか。美花ちゃんの言い方がおかしかぁ」
「そんなことないんだってば。こういう言い方するの。関東の女子は」
夫はやれやれという顔をします。
「あのね、あたしが言いたかったのはね、高尾山に登れないんじゃないか、ってこと」
「ああ、無理ばい」
「やっぱりぃ~、はあぁ~…」
私は転勤先が東京とわかったときから、引っ越して落ち着いたら絶対に高尾山に登ろうと楽しみにしていたのです。
この『ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ』の冒頭の方でお話したように、私と夫はリモート登山で知り合いました。実はその山は高尾山だったのです。だから、2人でリアル高尾山に登ってみたかったのに……
「もし山頂で連絡が入ったら、どんなに早く下山しても間に合わんばい」
「だよねぇ……」
高尾山の標高は599メートルらしく、低いのですが、それでも無理ですね。(因みに連絡に使うスマホは私物です。連絡が取れない場所にはいけないということになりますか)
がっかりですが、しかたないですね……
それにしても、うちはともかく、単身赴任中の人はもし自分の家が2時間以上かかる(実際には出勤の準備がありますから、1時間半とか1時間45分とかですよね)場所だったら、妻子にも会えないのでしょうか? ローンを組んで買った自分の家にも帰れない? 遠方の実家の親にも会えない? どうしても会いたい場合は、逆に妻子や親に近場まで会いにきてもらうしかないのでしょうか……
「いったいいつまでそうなの?」
私は夫に迫ります。
夫が言うには、少なくとも今の職場ではそうだということです。ということは、次の転勤にかけるしかありません。通常は3年。運よく短いとしても2年あります。
「はあぁ~。ひっどくない?」
そのあとの言葉が続きませんでした。これではまるで、片足に2時間という紐を結ばれた鳥のようではありませんか! 缶車から飛び立っても、限られた紐の長さまでしか飛んでいけないのです。(夫に、その鳥の話はもちろんしませんでした)
夫がこんな話を始めました。夫の職場で、やはり2時間待機になった人が、休みの日に歌舞伎のチケットを買ったそうなんです。
へえ、防A省の人でも歌舞伎観るんだ。と、私は嬉しくなりました。そりゃあ、いろいろな趣味の人がいますよね。私の方が偏見を持っていたと反省。(まったく…。どういう偏見⁈)
ところが、その2時間待機の人が歌舞伎座の中に入って、スマホを見たら電波がなかったので、歌舞伎を観ないでそのまま外へ出てきたというのです。
「えええ⁈ 信じらんないーー」
驚きのあまり私が大声を出したので、きいちゃんが興味津々に……
「みかちゃ、なになに?」
だけど、私はなんだか、ぐるぐるぐる…、ぐるぐるぐるぐるぅ~……
「あれれ? みかちゃ? みかちゃあ~」
「きいちゃん、美花ちゃんは今、世界に行ってるからそっとするばい」
「せかい⁈ なになに?」
きいちゃんと夫が何やら喋っているようですが、断片的に聞こえてきても、頭の中を素通りしていき……
私は夫の話があまりにも衝撃的で、頭の中でスイッチが入ってしまったのか……
無駄になったチケットの持ち主、2時間待機の人が、その歌舞伎を観れなかったことで人生の豊かさが減ってしまったことについて……。もしその歌舞伎が満席で、チケットを買えなかった人がいたとしたら、その人が観られなかったことで人生の豊かさが減ってしまったことについて……。そして、歌舞伎役者およびスタッフ達のがっかり度の大きさについて……
それらがぐるぐるぐるぐるぐる……と……。いつの間にか、私はかつて劇作だけでなく制作の仕事もしていたので、チケットの管理、販売もしていて……、当時の膨大な仕事、トラブル、喜びの声を受け取ったときの感動などが走馬灯のようにぐるぐるぐるぐるぅ~……
はっとすると、夫がきいちゃんのぬいぐるみの体をだっこして、窓から外を見ているのが目に入りました。
「きいちゃん、ビルいく」
静まりかえった缶車内に、きいちゃんのかわいらしい声が響きました。
「あの辺だっから、余裕で2時間以内に帰ってこれるばい」
「やったぁ~、ビル、ビル、ビルビルゥ」
振り返った夫が優しい顔をしていたので、なんだかほっとします。私の好きな目尻の笑い皺もちゃんとありまして……
「美花ちゃん、土曜日に行こう」
「うん、そうだね、行こう」
「わーいわーい」
こうして、私は例の演劇のぐるぐるから抜け出すことができたのです。
それにしても、2時間待機の夫ときいちゃんと、(急にひそひそ声で)〝東京〟での生活。どんな風になるのでしょう。まったく予想がつかないけれど、なるべく楽しく過ごしたいな、と思います。
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