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【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第22話

第22話 敬礼の仕方って

 私と夫はその時夕飯を食べていました。ごはんに味噌汁、母レシピの麻婆豆腐に鉄砲漬け(落花生県N田の名物。母が送ってくれました。「鉄砲」とつくからといって、防A省の妻達に代々伝わるレシピではありません)という夕食で、いつものようにテレビをつけていました。特に見たい番組がないので、適当にドラマを流していました。
 それは刑事物でした。画面の中の俳優たちは誰もマスクをつけていません。
「ドラマの中はコロナもインフルエンザも花粉症もなくていいね」
 と私が言いますと、夫はクスリと笑います。これを題材にして、あとで短歌を一首詠んでしまいましたよ。
 食べ終わってお茶を入れていると、テレビドラマがクライマックスになりました。
 画面にはスーツ姿の先輩刑事とカジュアルな私服の若い刑事が立っています。先輩刑事の方は、熱血な演技で有名な俳優なので、表情が大げさです。顔を皺だらけにし頬の筋肉をフルフルと震えさせ、感無量という感じで唇を嚙みしめています。それから、右手をぶるぶると震わせつつ、もったいをつけるほどゆっくりと敬礼をしました。
「現実で、あんな顔する人いないばい」と夫は少々呆れ顔です。
「演技だからさ」と俳優を庇う私。
 ファンの人達に怒られちゃうかな?
 しかし、どんな映画の、どんなテレビドラマの、どんな芝居の名演技の名シーンだとしても、俳優が演じている〝演技〟である、と感じてしまう(そうとしか脳が認識しない)悲しい性の元演劇人。もう2度と、私は純粋にそれらを楽しむことはできないのです……
 画面の中では、先輩の敬礼に刺激されたのか、若い方の刑事も大きな瞳を潤ませスマートに敬礼します。その指先は汚れ仕事など1度もしたことがないように細く美しく、まるでネイルサロン帰りのよう(あくまでも比喩です)なのです。人気のイケメンなので、全国の女子を画面に釘付けにしていることでしょう。
 その時、夫がポツリと言ったんです。
「敬礼は帽子を被ってる時する」
「え、そうなの?」
「うん」
「へえ~。あっちゃんの職場ではってこと?」
「あーそうそう。だから、いいのかもしれない。警察は知らない。それから他の軍隊も知らない」
 要約しますと(しなくても、わかりますよね)、防A省・自A隊では、制服の帽子やヘルメットを被っている時に敬礼をするということです。無帽、ヘルメットなしの時はしないらしいのです。
 夫は防A省の技官ですから制服は着ません。スーツか作業服(自前)です。だから、敬礼はしないということです。
 日本の警察や他の国の軍隊ではどうなのか、夫は知らないそうです。興味のある方は調べてみると面白いかもしれないですね。(←手抜きですみません)
 因みに夫が言うには、K上自A隊の場合は敬礼の肘の角度が狭いらしいです。それは、船の中は狭いからという理由だそうです。なるほどぉ。考えてみたこともなかった。
 これが、昨夜のことでした。
 今朝、夫を見送った後、私はスマートフォンを手に取りました。毎朝母に「おはよう」のL〇NEを送っているのです。母が喜ぶのでスタンプを選ぶわけなんですが、おや? と思いました。かわいらしい二頭身のクマのキャラクターが、「了解」という文字の下で敬礼のポーズをとっているではありませんか! もちろん帽子もヘルメットも被っていません。
 あれあれ、これはもしかして…と思って、他のスタンプも見てみると、可愛らしい動物や人間の女の子のキャラクターが同じように無帽で敬礼しています。まぁそもそもが、架空のキャラクターですし架空の世界観ですから、どんなポーズをどうとろうが決まりなんかないですよね。それがいいところです。
 私はテレビの世界のことを知りませんが、元演劇人として想像がつくのは……
 例えば、現実世界でウイルスが蔓延して、ほぼすべての人がマスクをつけて生活しているとしても、テレビドラマの中の刑事たち、犯人、その他登場人物は誰もマスクをつけていないかもしれません。それは演出上のことでしょう。
 また、もし現実の警察では帽子を被っているときに敬礼をするとしても、テレビドラマでは、演出上、無帽でも敬礼をさせてしまうのは、刑事らしい姿というイメージの効果を狙っているのでしょう。
 私がスマートフォンの画面を見て、あれ? とか、そっかそっか、などと言っているので、テーブルの上にぬいぐるみの体を置かれていたきいちゃんが、
「みかちゃ、なになに?」
 と騒ぎ出します。私はきいちゃんのぬいぐるみの右の翼をそっと摘まみ、きいちゃんの顔の横へ折り返してみます。そして、一度言ってみたかった言葉を台詞のように言ってみました。
「敬礼!」
 きいちゃんはちょっとびっくりしたのか、
「なになに?」
 とガラス玉のような目をランランとさせます。
「きいちゃん、敬礼!」
 と言いながら、私は姿見鏡の前まできいちゃんを抱っこして行きます。そして、再び、きいちゃんのぬいぐるみの体の右の翼を摘まみ、きいちゃんの顔の横へ折り返しました。
「敬礼だよ、きいちゃん」
「ケイレイッ。キャ、キャキャ」
 きいちゃんは鏡のなかの自分の姿を見て嬉しそうです。自分では翼を動かすことができないきいちゃん。私の手は何度も何度もきいちゃんに敬礼のポーズを取らせました。
 夫のあっちゃんが仕事から帰ってくると、きいちゃんは、
「きいちゃん、ケイレイできるの」
 と言うものですから、私はきいちゃんの右の翼を摘まみ敬礼をさせます。夫は目じりに優しい皺をつくって笑い、こう言いました。
「きいちゃんに帽子を買ってあげるばい」

 ※おまけ
 私が詠んだ一首です。
 マスクせず捜査会議はたけなわだテレビの刑事デカはコロナを知らず


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