【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第12話
第12話 ラッパには上手い下手がある
パァパパパァ♪ パァパパパァ♪ パァ~パァ~パパパァ~~~♪
時計を見ると、8:30になるところです。 お弁当をつくりながら夫に朝ごはんを食べさせ、夫を見送るために窓から手を振り、洗濯機の電源を入れたあと、ほっと一息ついてインスタントコーヒーにお湯を注ぎ、食パンをトースターにちょうど入れたところでした。
そんな主婦の私は、かすかに聞こえてくるラッパの音に耳を澄ませます。 「パ、パァパパパァ~♪ パァ♪ パァ~パパァ♪」
ときいちゃんが真似します。子供だからか、たどたどしく、それがかわいいのですよ。
「あはは。きいちゃん、うまいねぇ」
「でしょでしょ、みかちゃ。パァ~パパパァ♪ パァ♪ パァ~パパァ~~♪」
きいちゃんは得意げに何回も繰り返します。
缶車に住んでいますと、朝昼晩と駐屯地の方からかすかにラッパの音が聞こえてきます。学校でいえばチャイム、劇場で言えば1ベル2ベルという感じでしょうか。今では私もこのように日常を送っていますが、初めて生ラッパを聞いた時には違和感を感じまくりでした。
あれはーー、結婚してすぐにこの土地に引越してきた翌日、夫はさっそく駐屯地へ行ってしまい、私は1人で段ボール箱をひとつ、またひとつと開けていました。すると、その時でした。
パァパパパァ♪ パァパパパァ♪ パァ~パァ~パパパァ~~~♪
思わず手を止めました。その時私の左右の手が掴んでいたのは、段ボールから引っ張り出そうとしていた黄緑色の水切りかごでした。
今まで聞いたことがあるラッパの音(吹奏楽ではなく)といえば、テレビに映し出される過去の映像の音声や、映画やドラマだと効果音なので、特に注目したこともなかった。だけど、やっぱり生音は違う……、と感じたのでした。
そういえば昨夜、夫がおかしそうに話していたのですが、夫の部下に二十歳の人がいて、その人は高校時代に吹奏楽部だったそうなんです。
「その吹奏楽部、笑ってるんだよね。どうした? って聞いたら、ラッパが下手だから、つい笑っちゃったらしい」
「へえ~。今日のラッパが?」
「今日のは下手だったらしい。人によるからね」
「だんだんうまくなるんじゃない?」
「うん、たぶん」
その時です。
「パ、パァパパパァ~♪ パァ♪ パァ~パパァ♪ パァパァ♪」
と、きいちゃんが得意げにラッパの真似をしたのです。きいちゃんの好きなようにやるから、メロディは毎回違っているんですけどね。
夫はあっけにとられた顔をしましたが、次の瞬間はじけたような笑顔に変わりました。嬉しそうな目じりの皺。皺は私達の年齢では嫌なもののひとつかもしれませんが、私は夫の笑顔を優しいものに見せるその皺がけっこう好きです。
昨夜はその話のあとも、あれこれどうでもいい話をしてあっという間に22:30になってしまいました。夫の寝る時間です。早寝早起きの人なのです。演劇人だった私は夜更かしが染みついていて、まだ遅めの夕方という感覚の時間なのですが…… 。私は、夫が起きている間はなるべく話をするようにしています。コミュニケーションは大事ですから。子供のいない2人きりの夫婦(日本では夫婦は2人に決まっていますが)ですから、〝仲良く〟いたいと思うのです。あ。もちろん、きいちゃんのことも忘れてませんよ。 夫におやすみを言い、台所であれこれ片付けて、すべての家事を終えてから、私はのんびりとお風呂に入ります。
湯舟に体を沈めていきます。じわじわぁ~っと体が温まってきて、私は大きく長く息を吐きます。その時です。網戸のない小さな窓から、かすかにラッパの音が流れ込んできたのです。それは、眠るような夜の町に、昼間よりずっとずっとよく響き……
パァ~~パパパァ~~♪ パァ~~♪ パァ~パパァ~~~~♪
あれ? いつもより、音が伸びてる? 肺活量の多い人なのか、上手い人なのかもしれないな……。目を瞑って余韻に浸ります。…自分がラッパの音に慣れてきているのを感じつつ……
お風呂からあがると、ダイニングテーブルの上のきいちゃんは何も言いませんでした。ガラス玉のようなきいちゃんの目をじっと見てみます。動けないぬいぐるみのきいちゃんにも眠りがあるようなのです。
こんな感じがずっと続くといいな。濡れた髪にタオルを当てながら私はそう思いました。
皆さん、おやすみなさい。
<補記> 筑後川美花は気づいていないようなのです。缶車で聞こえるラッパの音がかすかなものなので、違いが分かりづらいのか? と思われますが。ラッパには起床、食事、課業開始、課業終了、消灯など(駐屯地によって異なります)があります。起床にはこのメロディ、食事にはあのメロディと、すべて異なっているのです。 筑後川敦
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