【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第33話
第33話 トキのきいちゃんはフードコートに行きたい
とうとう2月の末になってしまいました。夫の内示はまだ出ません。今の職場の勤務が3年目なので、今回絶対転勤があるらしいのですが……。1日でも早く、引越し業者を決めなければならないのに、引越し先がまだわからないと言うと、あっさりと断られてしまいます。
ネットで引越し業者を調べていると、「引越し難民」と言う言葉が頻繁に出てきました。最近は人手不足のせいなのでしょうか。日本の引越しがピークとなる3月末から4月頭の引越しを予定し、引越し業者に問い合わせをしても断られてしまうケースが多数発生。ここ数年、そのような状況が続いているそうなのです。
「きいちゃん、引越し難民だってぇ」
「なになに?」
「あたし達引越しできなくなっちゃうかも。そしたらどうしよう?」
「よかったね」
「え? よくないよ、きいちゃん」
「きいちゃん、ひっこし、やだ」
「どうして? あっちゃん、転勤あるから引っ越しは絶対なんだよ」
「やだやだやだ、ひっこしやだ」
どうしたのでしょう。きいちゃんがこんなに引越しを嫌がるなんて……
「どうしたの? きいちゃん…」
「きいちゃん、フードコートいく」
「フードコート?」
「みかちゃ、くるま、フードコートいく」
引越しの話から、どうして急にフードコートの話になったのでしょう? 私はきいちゃんのガラス玉のような瞳を覗き込みます。すると、うるうるとしているように見えて……。私は、きいちゃんを一度だけフードコートに連れて行ったことを思い出しました。あの時って……
その時です。きいちゃんがこう言ったのです。
「きいちゃんはひっこしするのつぅむぎちゃんフードコートはわかれのはるだ」
え? ええ⁈ こ、これは……
きいちゃんは
引越しするの
紬ちゃん
フードコートは
別れの春だ
57577になっている。(※「っ」は一文字と数えます)こ、こここ、これは、短歌ではないですか!
(※ほんとうは短歌は改行せずに1行で書きます。ほとんどが縦書きです)
「き、きいちゃん……」
私は……、涙を禁じ得ませんでした……
フードコートに来ています。私は、きいちゃんを肩からかけたトートバッグに入れて、さっきからうろうろとしています。きいちゃんは小さな赤い顔をひょっこっと出して、
♪つぅむぎちゃん つぅむむむ~
きいちゃんだよぉ つぅむむむ~♪
と自分でつくった「紬ちゃんの歌」をご機嫌で歌っています。さっきは短歌をつくって私を驚かせたのに、今度は歌、ソング。まったく……
前回きいちゃんを連れてきたのは何曜日の何時頃だったのか? 私は100均で買った薄い手帳でチェックしました。すると運よく、今日は前回と同じ水曜日だったのです。確か午後に行ったと思い出し、同じ頃を目指して車を走らせてきました。
「きいちゃん、もうちょっと小さい声ね」
「うん、わかった」
「あんまり大きな声出しちゃダメだよ。こっそり教えてね」
「うんうん」
きいちゃんは調子よく返事します。うーん、大丈夫かなぁ? ぬいぐるみが喋る。なんてわかったら、大人はびっくりしてしまいます。なるべく目立ちたくない私達ですが、紬ちゃんの顔をうろ覚えの私は、きいちゃんに任せるしかなくて……
フードコートの一角にカラフルな背の低いテーブルや椅子に囲まれた場所があます。プレイエリアっていうんでしょうか? 子供達を遊ばせるんですね。私はそこを何度もチャックしていますが、残念ながら誰もいません。
「きいちゃん、ちょっと待ってみようか」
「うん」
私は紙コップのホットコーヒーを買いプレイエリアが見える場所を選んで座りました。隣の椅子にトートバッグを置き、きいちゃんのぬいぐるみの体の向きを変えて、プレイエリアが見えるようにします。
「きいちゃん、見ててね」
「うん!」
♪つぅむぎちゃん つぅむむむ~
きいちゃんだよぉ つぅむむむ~♪
きいちゃんは、かわいらしい声で歌い始めます。私には子供もペットもいません。ですが、こんなにかわいいぬいぐるみ(?)のトキがいるんですから。人生ってわからないものですね。
私達の横を、シルバーカーを押しながらおばあさんが通ります。おばあさんは一歩一歩がとてもゆっくりなので、通り過ぎるのもとてもゆっくりです。だから、きいちゃんの歌う声をしっかりと聞いてしまったようで……
「なあ、その人形が歌ってる?」
と話しかけられてしまいました。
「はい。そうなんですよ。うるさかったですかね? すみません……」
と私がごまかして謝ると、おばあさんはシルバーカーを止めて笑顔になります。
「孫の声に似てたもんだからぁ。かわいいねぇ」
ひょいっと、曲がったままの指できいちゃんの頭を撫でてから、おばあさんは再び歩き始めます。
その時です。
「つぅむぎぃちゃあぁーーーんん!」
フードコートいっぱいに響くほど大きな声できいちゃんが紬ちゃんを呼んだのです。
小さな子供を連れた若いママ達が連れ立ってやってきます。その中に紬ちゃんがいるのを、きいちゃんは目ざとく見つけたんですね。私よりずっと視力が良いみたいです。
一斉に子供達とママ達がこちらを見ます。いえいえ、それ以上にフードコート中の人がこちらを見ているように感じます。(平日の午後なので人が少ないのですが)それでも、気の弱い私はドキドキドキ……
「きいちゃーんん!」
小さな女の子が駆け寄ってきます。見覚えがありました。紬ちゃんです。
「つぅむぎちゃーんん!」
「きいちゃーんん」
もしも、きいちゃんのぬいぐるみの体が動くことができたなら……。トートバックをとび出し、小さな翼を広げ紬ちゃんのもとへ飛んでいくことでしょう。それができないきいちゃんのことを、私は不憫だと感じました。
紬ちゃんは、ちっちゃな手を伸ばし、トートバックから出ているきいちゃんの頭をなでなでします。キャッキャと喜ぶきいちゃん。
私はたまらなくなって、きいちゃんのぬいぐるみの体をトートバックから取り出し、紬ちゃんの方へ差し出します。紬ちゃんはきいちゃんを抱っこしてくれました。
「ふあああぁぁ〜」
きいちゃんは、今まで聞いたことがないような、へんてこりんな声を上げます。
若いママさんが小走りでやってきて、すみませーんって言ってくれます。紬ちゃんのお母さんですね。なんだか眩しくて、私はうんうんと頷きます。
紬ちゃんはきいちゃんを抱っこしたまま、ママさんを見てにっこりとします。ママさんはきいちゃんを覗きこみながら。
「鶴のぬいぐるみですか?」
「いえ、朱鷺なんです」
と私が答えますと、ママさんは目を丸くして。
「へえ、トキ? あの天然記念物の朱鷺ですか? 朱鷺のぬいぐるみなんて珍しいですねぇ」
別のママ達と子供達も集まってきて、きいちゃんを覗き込みます。
「わあ、レア〜」
「かわいい~」
「喋るのって、もしかしてAI?」
「あっ、AIかぁ。すっご〜い」
一斉に喋り出して、あっという間に賑やかになります。AIについては、あははと笑ってごまかす私なのでした。
その後、子供達はプレイエリアで遊び始めます。
私は生まれて初めて、子育て世帯向けの低いテーブルと椅子セットの椅子に座りました。テーブルの上のきいちゃんは紬ちゃん達を見て、キャッキャと嬉しそうです。本当は元気に飛び回りたいんじゃないかな? 紬ちゃんは走ってきては、きいちゃんのことをかまっていきます。
「きいちゃんね、ひっこすの」
お別れの時には、きいちゃんはちゃんとこう言えました。
「バイバイ」
「バイバイバーイ」
「またね~」
「うん、またね~」
初めてのお友達とお別れができてよかった……
きいちゃんを助手席に座らせ、私はハンドルを握ります。ちらちらと視界の端に白いものが見え、梅の花が咲き始めたのに気づきます。しかし、じっくり見ることもできずに、車を走らせ缶車へと戻りました。
その日、夫が仕事から帰るとまじめな顔をしてこう言いました。
「人事に言われた」
「え! どこ?」
「○×」
「○×って、東京の?」
「うん」
「えええーー!! 東京に戻れるの?」
「うん、そういうことになるばい。辞令は4月1日だから、変わる可能性はゼロじゃないけど。ほぼ決まりばい」
おかしなものです。私の故郷は落花生県です。なのに、「東京」と聞いて、戻れると感じてしまう……
ううう。これでやっと引越し業者に見積もりに来てもらえます。こんなにギリギリでちゃんと申し込みができるのでしょうか? かなり不安ですが……
私がお風呂から出ると、いつもはすぐ寝るきいちゃんが、テーブルの上でしくしくしくと泣いていて……。たまらなくなった私は、その夜だけ枕の横にきいちゃんのぬいぐるみの体を寝かせて電気を消しました。
世界中に蔓延したウィルスのせいで巣ごもり生活が続いていました。そのため、私はこの土地で親しい友人が出来ませんでした。だから別れがない。これは、幸いということなのでしょうか? 本当は寂しいことなのではないか?
頭の中できいちゃんが詠んだ短歌を反芻します。
きいちゃんは引越しするの紬ちゃんフードコートは別れの春だ
うん、なかなかいい短歌だと思います。きいちゃんはまだ子供ですし、短歌を詠んだのは(本人に自覚があるのかな?)2回目なので、皆さんも褒めてあげてください。きっと元気になると思います。宜しくお願いします。
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