見出し画像

【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第31話

第31話 網戸のない缶車の窓から虫が

「きゃああああ、いやああああ」
 きいちゃんの叫び声が聞こえました。
 私は短歌と悪戦苦闘しているところでしたが、ボールペンを捨てるように机に転がし、きいちゃんのもとへダッシュします。
「きいちゃん⁈」
「いやあああ、やめてっやめてっ、あっちいてぇ~」
 テーブルの上のきいちゃんの、ぬいぐるみの体の嘴のさきっぽの赤いところに、何かが付いています。目の悪い私はグイッと顔を近づけます。なんと、羽ある虫がちょこんととまっています。模様からすると蠅ではなくて蜂のようです。
「みかちゃ、とってとってぇ」
 体を振ったり、翼で嘴の先を払ったりできないきいちゃんですから、「とってとって」と大騒ぎするのもしかたありません。その時、とまっていた蜂がちょっとだけ飛んで、今度はきいちゃんの目のすぐそばにとまります。
「いやあああああああああああ」
 缶車中にきいちゃんの叫び声が響きます。私は慌てて手をパタパタとして蜂を追い払いました。
 缶車の窓には網戸がない箇所があります。トイレ、洗面所、お風呂場は内倒し窓で網戸がありません。当然よく虫が入ってきます。蠅、今日のように蜂、夏には蚊が自由に入ってきてたいへんです。一度カナブンが入ってきたこともありました。それから、G(わかりますよね? みんなが苦手な黒い奴です)……は、窓じゃないのかな? 
 公務員とその家族には網戸は必要ないということ? いえいえ、今の時代、リアルで昆虫と触れ合い体験ができると思えば、得した気分になれるかも? 
 気を取り直してーーー
 私は夫が職場から持ち帰った業界紙『修〇』を手に取り、ラケットのように振り回し、蜂を追いかけます。ガラス窓を開け、なんとかそちらの方へ蜂を追いやろうとするのですが、縞々模様のそいつはまったく意図を悟ってくれません。(殺虫剤は苦手なんです)
「もう! せっかく逃がそうとしてるのに」と業界紙を振り回す私。
「きゃはっ、きゃははは」ときいちゃんは私と蜂の追いかけっこを見て笑います。
 今泣いたカラスがもう笑った。子供のころ幼馴染達と言い合ったこの言葉を思い出します。
 缶車中を飛び回った蜂は疲れたのか、台所へ向かうとハチミツの瓶にとまりました。蜂がハチミツの瓶に!
「きいちゃん、見て蜂さんがハチミツの瓶にとまっちゃった」と私は声をひそめて言いました。
「なになにぃ?」といつもと変わらない元気なかわいらしい声のきいちゃん。
「しっ。蜂さんに聞かれちゃう」私は人差し指を唇の前に立てて見せます。
「しいっ」ときいちゃんは声だけ真似しました。
 きいちゃんのぬいぐるみの体が置かれた場所からでは見えないので、状況がつかめないのでしょう。私は抜き足差し足で台所から居間のテーブルへ(わずか1.5mほどですが)移動し、きいちゃんをそっと持ち上げ抱っこしました。それからまた抜き足差し足で台所へ戻ります。「ほら、見て」と私は囁いて……
 調理台の前で私ときいちゃんはハチミツの瓶にとまっている蜂をじっと見つめました。きいちゃんのガラス玉のような目はランランと光っています。初めて間近で見る蜂に興味津々なのでしょう。
「しましま」ときいちゃんはひそひそ声で言います。(なかなかよく観察していて、よいですね)
「うん、しましまだね」と私。
「ハネ? ある」とトキのぬいぐるみ。
「うん。翅あるね」と人間の成人女性。
「ハチさん、とぶ?」と興味津々の男の子。
「うん、飛ぶよ」と弥生人似の女。
 私は思いました。蜂の奴、せっかくおとなしくとまっているんだから、このチャンスを逃す手はないのでは? 私は調理台の上がきれいなのを目で確認してから、そっと、きいちゃんのぬいぐるみの体をそこへ置きました。
「ううう」きいちゃんはちょっと怯えた声を出します。だけどちゃんと小声です。えらいぞ。
「ちょっと見てて」私は囁きます。
 それから、ストックしてあるところからスーパーのビニール袋の小さいのを引っ張り出し、そおっと広げました。大きく開いた口の方を下へ向け、そろそろと蜂とハチミツの瓶に近づけます。
 蜂はまだハチミツの瓶にとまっています。
 次の瞬間、ない運動神経とない反射神経を最大マックス駆使し、私はビニール袋を下方向へ被せます。蜂をハチミツの瓶ごと捕まえたのです。
「きゃあっ」ときいちゃんがショックの声をあげます。
 しかし、一番びっくりしたのは蜂です。
 ブンブンブンブンブンブン
 ガサガサガササッ
 ブンブンブンブンブンブン
 ガサガサガササッ
 蜂はビニール袋に激しくぶつかりまくっています。
 きっと私の顔は引きつっていることでしょう。ビニールを下方向へ押さえたまま両手は固まってしまい、動かすことができません。
「き、きいちゃん、どおしよぉ~」
「ううう~、ハチさん、ブンブンブンブン、とぶとぶ、とびたい」
「飛びたい、わかってるよぉ~」
 私ときいちゃんはパニック状態ですが、蜂はもっともっとパニック状態です。
 ブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブン
 あああ、こんな時夫が家にいてくれたら、きっときっと……、いえ、最初から夫に任せたことでしょう。いや、2人で蜂を追い立てたかな? ああ、もう、このままでは埒があきません。私は顔を背けたまま、横目でビニール袋を被せたハチミツの瓶と蜂を見て、ソロリソロリと手を動かします。
「刺すなよぉ、刺すなよぉ、逃がしてあげるんだからねぇ」
 と蜂に話しかけながら(日本語通じるの⁈)、おや? 奇跡的に日本語が通じたみたいで、蜂はおとなしくなりました。
「ハチさんおねむ?」
 ときいちゃんが言います。
 今だ! と私は思い、ハチミツの瓶を少しだけ持ち上げ、瓶底へビニール袋を滑り込ませました。うまく瓶全体をビニール袋で包んだら、それを持って居間を通ってベランダのある方へと移動(わずか2mほどですが)し、瓶を持ったまま窓を開けます。
「みかちゃ、なになに?」
「蜂さんをね、ベランダに出すの」
「ベランダァ~。みたいみたい」
 きいちゃんが騒ぎ出します。そりゃあそうですよね。きいちゃんは自分で体の向きが変えられないのですから。
 私はその場にしゃがみ込み、ハチミツの瓶をそっとベランダに置きました。外は晴れていて明るく、ハチミツの瓶にも光がさしーーー。すると、再び蜂は……
 ブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブンブン
「ハチさん、ブンブン」ときいちゃん。
「わかったって、わかったから」
 言いながら私は慎重に瓶底のビニール袋を引っ張り、瓶から3cmほど隙間をつくりました。けれども蜂は興奮しているのか、瓶の上の方でブンブンして外へ脱出できる隙間に気づきません。
 ブブブンッ
 蜂が瓶の上でビニール袋に猛アタックします。
「きゃっ」
 と私は思わず窓を閉めます。ガラス越しに見ると、蜂はビニール袋に何度も何度もアタックを繰り返します。私は台所に置かれたままになっているきいちゃんを抱っこして連れてきて、一緒にガラス越しにその様子を見ました。
「ハチさん、した、した」ときいちゃん。
「下だよぉ、出口は」と私。
 やはり日本語が通じないのでしょうか。これが、童話だったら同じ巣の蜂達が助けにきたりするのかな? 
 あ。
 次の瞬間、蜂は見事ビニール袋から脱出し、よろよろと飛びだしたのです。私ときいちゃんは小さくなっていく蜂を……、いえいえ、もともと蜂は小さいのであっという間に見えなくなってしまいました。
「ハチさん、バイバーイ……」
 きいちゃんの呟きは、ちょっぴりさみしそうでした。
 私は……、もう2度と缶車の網戸のない窓から蜂が入ってこないことを祈るばかりです。(蚊も嫌、蠅も嫌ですが、蜂が最も嫌だと思う出来事でした)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?