争いの原因は正義だった
今日の話題には私自身の信念が込められていますので、あえて濁さず、断定的な口調でお話しします。まず結論から申し上げます。
正義感『~であるべき』を崩す相手を罰したくなる。
これがすべての争いの始まりです。
この「正義感」というものは一見すると素晴らしい響きですが、実は恐ろしい物であるということだと気づきました。
善悪の概念
人は死後に地獄に行かぬよう、善人であろうとします。善人であるための証明として悪を潰そうとします。ひどい場合は人為的に悪を創り出してまで善人という肩書きを得ようとすることも。
たとえば、
• 「規則を守らなければならない」
• 「人を傷つけたり奪ったりしてはいけない」
• 「他人に迷惑をかけるべきではない」
これらが破られるとき、人は恐れを感じ、相手を「悪」とみなし罰したいという感情が生まれるのです。日常の些細な口論・イジメ・ハラスメントを始め、規模を拡大すればミサイルを放つ某国や宗教間の戦争も、根底にあるのは「自分の正義」を押し通そうとする動機であり、その暴挙は相手を屈服させない限り終わりません。そう、規則が違反者を生むように「正義」が「悪」を生み出すのです。
私はこの、悲しく重く、非生産的で不幸な連鎖を終わらせたいと願っています。たった一人の民間人として、小さな存在ではありますが、この声が誰かの心に届き、争いの無意味さに気づく人が増えることを信じてこの記事を書きました。
人が人を裁くことについて考える
私は、人が人を裁くことに対して「本当にそれでいいのか」と疑問を抱いてきました。裁判は、誰かの善悪を決める場所のように見えますが、実際には「都合と都合をすり合わせて落としどころを見つける場」でしかないように思います。一人の人間が、他人の善悪を決める権利を持つこと、またその社会構造に違和感を感じるのです。
善悪は本当に存在するのか?
大多数の人々が「嫌だ」と思うから普遍的な「悪」という名前を利用し採用しているだけで、本当の意味での「悪」は存在しないのではないでしょうか。スカートしか履かない女性にスラックスをプレゼントして「こんなズボンは嫌!」と言われたら、プレゼントを私た人は悪なのでしょうか?そこにあるのは需要と供給のミスマッチだけです。男性上司にかたをポンと叩かれて「明日も頑張ろうね」と言われたらセクハラという悪行なのでしょうか?そこにあるのは超絶個人的な勘違いだけです。ただ嫌な気持ちになっただけのことを正義感によって相手に「悪者」というレッテルを貼り自分たちの都合を守ろうとする。これが争いを生み出している構造です。例えば、赤と青のどちらが正しいのかを、互いが自己都合を通すためだけに相手を悪に仕立てて抹消しようとする、このような正義感が、相手のみならず自分自身をも苦しめているのではないかと考えています。本当に善悪は存在するのでしょうか?
正義感と集合意識が生む争い
日常生活の中にも、正義感や集合意識が争いを生む場面があります。例えば、誰かがお酒を飲んで暴れていたら、「お酒は人を狂わせる」という認識が採用されてしまうことで全ての飲酒が悪になる。実際にはたった1人がお酒に呑まれ相手が嫌な思いをしただけのことです。この個人的な事実1つが、簡単に世の中の普遍的な「悪」として定着すると上手にお酒を嗜む人でさえも「悪人」になります。
私たちはこういう暴力的な善悪の概念に縛られています。そしてこれが規模の大小とわず諸悪の根源だと私は思えてなりません。
昔の魔女狩りや大量虐殺も全く同じ原理です。
ヒーローアニメが与えた影響
幼少期に見たヒーローアニメには、「正義が悪を討伐する」という構図が描かれています。当時は何の疑問も持たずに見ていましたが、大人になった今、こうした作品が争いを正当化する一因になっているのではないかと感じることがあります。
ただ、誤解しないでほしいのは、ヒーローアニメが最初から争いを促したり助長する目的で制作されているわけではなく、善悪という概念が生まれた数千年前から蓄積された普遍的な洗脳により勧善懲悪が美徳となったがゆえの娯楽文化の一部に過ぎないということです。簡単にいうと、善悪の存在意義が正当化されている限りしょうがないのです。制作者たちが伝えたいのは、「守るべきものを守る」信念や、「愛を持って生き抜く」強さだと思いたいです。
争いを生まないために
人間関係のトラブルや争いの根源を見つめ直すとき、私たち自身の「正義感」が善悪というおぞましい概念から生み出されていることと、善悪が普遍化されていることにより短絡的かつ暴力的に掲げられていることに気づくことが大切です。赤と青がどちらがいいかを決める必要はないはずなのです。大切なのは調和であって終わりのない自己主張は必要ないのです。嫌なことをされたら相手を悪だと決めつければその瞬間から正義の名のもと攻撃命令の許可が出てしまうのです。
私たちが善悪というカテゴライズをやめて愛に基づいた行動を選べるようになれば、世界はもっと平和で幸せな場所になるのではないでしょうか。この話はまだまだ続きがあるのでまた別記事で書こうと思っています。
この記事が誰かの心に届き、気づきや変化をもたらすことを願っています。
参考
東郷潤さんの価値観がドンピシャだったのでご紹介します。