【体験談】訴訟という天罰
「天罰」と向き合うことで始まった私の新しい人生
自分の人生を生きると決めて親の敷いたレールを降り、これまで自分を縛ってきたものをどんどん外してきた。しかし、その先で待っていたのは恐怖と不安。私は行動を起こす代わりに知識ばかり蓄え、「動かない理由」を探していた。そんな自分への「罰」が下ったのは、2024年9月のことだった。
手元に届いたのは訴状。訴えられたのだ。法律上、詳細については触れられないが、この出来事は間違いなく私が自分自身に引き起こした「強制終了」だった。私は長い間、葛藤に真正面から向き合わず、現実逃避を続けてきた。「自分の人生を生きたい」と決意し、代わりに「家族を養う」と宣言したのにもかかわらず、実際はその道を逸れる言い訳ばかり探し、旦那の稼ぎに甘えて逃げていた。
そんな自分が情けなく、恥ずかしかった。親に勘当されても敷かれたレールを脱線し、そこから大怪我をしても後戻りせず歩み続けてきた。それなのに、一歩を踏み出す勇気がどうしても持てなかった。怖かった。怖くて仕方がなかった。
一時は、「自分なんてもうクソだ。このまま死ぬまで堕落し続けよう」と開き直ったこともあった。それでも本当は嫌だった。この葛藤が苦しかった。だから、心のどこかで「こんな自分を罰したい」という思いを抱えていた。ただ叱られるだけでは足りない。自分を本気で揺さぶる「100万ボルトの雷」を望んでいた。
しかし、自分の弱さや苦しみを誰にも見せず隠していた私は、誰かにその気持ちを理解してもらうことなどできなかった。誰にも助けを求めないくせに孤独を感じ、堕落の限りを尽くした。力尽くでも本当に生きたい人生を選ばざるを得ない状況にでもなればいい、と天罰を望んでいたのだ。
そして、その天罰が現実の形をとって私のもとに降りかかってきた。訴状を手にした瞬間、血の気が引き、心の中で思った。「本当に願いが叶ってしまった」と。あの瞬間の感情は、まさに100万ボルトの落雷そのものだった。
訴状の内容は無差別的で理不尽なもので、私でなくてもよい標的を探した結果が私だった。偶然が重なり私が格好の標的となったのだ。私は恐怖、不安、怒りを一気に感じたが、同時に「これはただの偶然ではない」という直感があった。この出来事には意味があるのではないか、と。
自分に向き合う覚悟
私がブログを始めたのは、この天罰を学びとして捉えることで、「いよいよ自分から逃げずに生きる時が来た」と感じたからだ。この出来事は、逃避を続けてきた私の願いそのものだったのではないか。強制終了がかけられ、逃げられない状況に追い込まれたことで、私はようやく「自分と向き合う覚悟」を持つことができた。
訴訟をただの不運として捉えていたら、私は原告を逆恨みし、反訴や復讐を考え、闇への片道切符を手にしていたかもしれない。しかし、幸いにも私の中には堕落している最中でも叫び続ける「本音」があった。そして、自分の葛藤を記録してきた膨大なメモも手元にあった。
これまで逃げ続けた自分と、ようやく向き合おうと思った。自分で自分を罰したくて、望んで天罰を現実化させたのだと知った。
天罰は自分が下すものだった
誰かに雇われる人生を嫌い、自分の価値を社会に貢献するために使うと決めた私は、それでも恐怖と不安に負け続けてきた。そして今、民事裁判の最中にいる。毎日が不安で、怖くて、落ち着かない。それでもこの天罰は私に大きな気づきをもたらしてくれた。
今の私はこの気づきに感謝している。もしこのくらいの破壊力がなければ、私は変わることができなかっただろう。だからこそ、自分の生き様と気づきをブログで発信し、誰かの気づきにつながることを願っている。
過去の自分の記録を振り返り、点と点が線につながる瞬間を見つけ、それをまたメモに記す日々。これが私の新しい人生の歩み方だ。