【フィールドノート/大阪】島之内という、つかみどころのない街(その2)
背割り下水の痕跡
さらに歩いていくと、このブロックの中央に至る。船場でも島之内でも、東西の通りから次の通りへの距離は、ざっくりいうと約80mになる。その中程、40mほどの地点に町の境目があることになる。僕はいつも歩測しているのだが、歩幅約70cmの自分が50数歩歩くと、町境となる。
町境には、多くの場合、いまでも建物と建物の間にすき間が残っている。これがかつて溝(背割り下水)が流れていた痕跡だ。江戸時代の溝の幅は、通常は1mあるかないかと狭い。近代になって下水道が整備されていくと、これらの溝は公的な下水ではなくなったが、実態としては現在でも水が流れていることが多い。その証拠にマンホールが設置されており、水流の音が聞こえるところもある。
いま僕がいる地点は、大宝寺町と清水町の境目で、ここにもビル間にすき間があることが分かる。このようなすき間は、島之内のみならず、大阪市街の中心部では至るところで観察できる。
ガレリア・アッカ
次の角を西へ。ここは清水町通だが、道路の左右にはホテルが出来ている。特に北側はホテルヒラリーズという大きな建物だ。写真を撮っていると、南側のホテルコードから欧米の旅行者と思しき夫妻が出てきて、西の方へ歩いていった。大阪はアジアからのインバウンドが多いが、今日歩いていると島之内では欧米系の人もそれなりに見掛ける。
また次の角を南へ。しばらく行くと、コンクリート打ち放しの外壁のビルが見えた。Galleria Akka(ガレリア・アッカ)。以前、この現代建築を見た覚えがある。
僕は随分長い間、建築史を専門とする同僚S君と一緒に建物めぐりをしていた。20年ばかりやっていたので、大阪市内はもとより関西を隈なく見て回ったが、島之内にも来たことがある。たぶん20年以上前のことだっただろう。そのとき、彼がこの建築を紹介してくれ、二人でなかへ入っていった。薄暗い建物内は地下から上階まで細長い吹抜けになっており、それに沿って狭い階段が付いている、実に特徴的なビルだった。そのことを思い出して、久しぶりに入ってみた。昔と余り変わっていないのだろう、狭い階段を3階まで上ると、吹抜けから地下が見下ろせた。
誰の設計なのか思い出せなかったので、あとから調べると、安藤忠雄の設計で昭和63年(1988)竣工だと分かった。自分にとっては少し懐かしい記憶が蘇った瞬間だった。
町境の路地
実は、このガレリア・アッカの敷地北側は、かつて清水町と畳屋町の境目だった。かつて、というのは、いまこの一帯は東心斎橋という無味乾燥な町名になっており、江戸時代以来の古い町名をしのぶことはできない。ガレリアの住所も、中央区東心斎橋1丁目となっている。
ぐるっと回って、ワンブロック東の笠屋町筋を見てみると、町境がよく分かる。街路東側の建物の間に路地状の通路があり、東へ延びている。この路地は、さらに南に屈曲する鉤型の路地になっている。ここはこれまで何度も通ったので、今日は歩かない。
ただ、この路地がなぜ鉤型に90度曲がっているのかは、押えておく必要がある。実はここで、町境が東西方向から南北方向に切り替わっているからだ。清水町は東西に延びる町、笠屋町は南北に延びる町。つまりここは、横長の町と縦長の町が交わる丁字形のエリアなのだった。この縦長の町が先ほど述べた畳屋町、笠屋町、玉屋町、千年町になる。鉤型の路地は、横方向が清水町と笠屋町の境界であり、縦方向が笠屋町と玉屋町の境界になる。
浪花会館とツバメヤ
再び街に戻ると、いま笠屋町と周防町筋の交差点にいる。その北側に浪花会館という3階建のビルがある。数軒の飲み屋が入っているビルだが、この辺りの会館ビルといえば日宝系のものが多く、こういう独立系(?)は貴重かも知れない。さらに興味深いのは、ビルの左手に路地があって、その奥に民家が見えることだ。誰が住んでいるのか知る由もないが、都会の奥にひっそりと潜む仕舞屋は謎めいた雰囲気を持つ。
浪花会館の北側は空き地で、その2、3軒隣りに古びたビルがある。写真のツバメヤ。写真スタジオだったようだ。だった、というのは、すでに扉は閉ざされて営業している様子はない。3階建で、外壁はタイル張り。1階にはショウウィンドウがあり、摺りガラスに書かれた「PHOTO TSUBAMEYA」の文字はアールヌーヴォー(?)ぽくも見える。
しかし何よりも、ウィンドウに掛けられた笑顔の女性の写真が目を引く。茶色の巻き髪に、花柄の刺繍がされた黒いノースリーブを着ている。写真の端に「宝塚歌劇団 雪組 澪うらら」と記されている。タカラヅカか。すでに僕が知らないぐらい昔の人のように思えた。この建物もいつまであるのだろうか。次に通ったときには、もう空き地になっているかも知れない。
会館とマンション
再び歩き出し、南小学校の南側を通って東進する。清水町会館というビルがある。渋いけれど、なかからおじさんが出てきたので、じっくりとは見られない。その脇に路地があり、「吉春会館 →」と看板がある。誘われて入って行くが、右手に住戸はあるものの、会館はない。不思議に思いながら引き返す。
南警察という、ドラマに出てきそうな名前の警察署の前を曲がり、さらに曲がって長堀橋筋に出る。この街路は堺筋とも言うが、旧長堀橋より南であるこの辺りでは長堀橋筋と呼ぶのが似つかわしい。時計の針はすでに午後4時を回っており、1時間半ほど歩いている。そろそろかな、という時間だ。
少し北に戻って、大宝町通りを歩くと(今日何度通るのか、という感じだが)、角地に見上げるばかりの超高層マンションが建っている。アルグラッド・ザ・タワー。いったい何階建なのか、100メートルぐらいはありそうな気がする。
そのあと、一つ二つの路地を確かめ、玉屋町筋を歩くと、一戸建の住宅があり、不思議な感に包まれた。この商業エリアに、ごく普通の二階屋で表札も掛けてある。昔は、こんな家がもう少しあったのかも知れない。
再び清水町会館の前に戻った。南側の入口には「清水町会舘」と青い切り文字。築60年ぐらいは優に経っていそうだ。そして、その隣に吉春会館があった。先ほどの路地からでなくても、表通りに入口があり入れるのだ。茶色いタイルを張った3階建のビルで、1階には青果店が戸を開いている。「2階ご案内」と書かれた内照式看板を見ると、6、7軒のバーやスナックの名前がある。「すなっく」という平仮名もご愛敬だ。時刻は4時20分を過ぎた。もう終わらないといけない。
つかみどころのない街
歩き終え、こうしてノートを書いてみると、島之内という街でいろいろなものを見、感じ取ったようにみえる。けれども、実際に歩いている最中の感覚はといえば、“この街で、いったい何をどう見ればよいのだろう?”という戸惑いの連続だった。
島之内は雑居ビルが多い。それもスナックやバーをはじめとする飲食店が多数を占める。ビル内の区画は小割りになり、街路に突き出した看板には数多の店名が記される。それだけで、十分に幻惑される。島之内でも、今日は歩かなかった宗右衛門町の方まで行けばホストクラブの巨大看板が増え、むしろ「目の付けどころ」がはっきりする。しかし、北の方では、単調なビルと店舗が連続し、変化がない。どこに注目すればよいのか分からないのだ。それを表現する言葉として「つかみどころのない街」と言ってみた。
ところが意外だったのは、歩き終わって文章にしてみると、思いのほか筆が進むということだった。これはいったいどういう現象なのだろう?
書くということは、取捨選択することでもある。この文章の最初は、鰻谷ビルに入っていく一人の男性を見掛けた場面であり、そのあと向かい側にあった路地へ入っていくシーンになる。歩き始めてからそこまで、およそ3、4分、コの字形に歩いているが、そのことは書いていない。いや、その部分は捉えどころがなくて書けなかったといえるだろう。文章にするためには、何らかの特徴(他と異なる突出した点)がなければいけないのに違いない。
もっとも、自分の願望としては、文章を書く前、路上に立っている時点から何かをつかんでいたい、というものなのだが。