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【フィールドノート/大阪】天下茶屋・聖天山を改めて歩いて見えてきたもの

 天下茶屋駅から東へ

 先日、西成区の天下茶屋駅から阿倍野区にかけて歩いた。この先2度ほど街歩きイベントをするための下準備だったが、確実を期すため、もう一度歩いてみることにした。今回は、そのなかで気づいたことに絞って記してみたい。

 朝から好天だった。11月というのに、帽子が必要な日差し。午前9時すぎ、天下茶屋駅に降り立ち、東に延びる商店街を行く。アーケード街だがひなびていて、紀州街道を越えた先はさらなる裏寂しさが滲み出ている。

天下茶屋の商店街

 

 聖天さんの石標

 再び、聖天山にある聖天さん(正圓寺)を訪ねた。上り口には石鳥居が立っており、左脇に「大聖歓喜天」と刻んだ石標がある。

聖天さんと石標

 寺の入口のだから、こういうものが立っていて当然だ。右面には浮彫りの仏像と「正圓寺」の名が刻まれ、裏面には3人の奉納者名がある。

「慶応二寅年林鐘吉祥日/天満屋七兵衛/天満 大和屋可助/小島屋半兵衛」

 慶応2年は1866年、「林鐘」は六月のことで、六月吉日という意味になる。3人とも大坂の商人だろう。

 ちょっとした問題は、左面にあった。次のように刻まれている。「是より左へ三丁」。“これより左へ3丁”。うーん。「丁」(ちょう)は距離の単位で、1丁=109mほど。3丁だと330m程度になる。

「是より左へ三丁」


 そう、これは元は道標であって、違う場所に立っていたのだ。すぐ思い付くのは、紀州街道との分岐点に立っていたのではないか? ということ。手元の1万分の1地図で測ってみると、だいたい紀州街道まで300mぐらいある。どうやら、それでよさそうだ。改めて帰宅後に測ってみたら、約340mだった。間違いない。

 「左へ」ということだから、北、つまり大坂方面から来た人が見て左(東)へ曲がっていく設定なのだろう。すると、道路に向けて「大聖歓喜天」の文字も見えていて、ちょうどよい。この石標は、幕末の道しるべだったのだ。紀州街道からの分岐点は分かりにくいから、信者だった天満屋七兵衛らがお金を出し合って建てたのだろう。何気なく眺めていると見過ごしてしまう石造物も、注意を払って観察していくと発見がある。

 松虫通と松虫塚

 聖天山の南には、松虫通が通っている。この道路は戦後拡げられた都市計画道路だが、かつては旧道が屈曲しながらこの場所を通っていた。今回のコースからは外れるけれど、その痕跡を見に行ってみた。

 東へ進む道は上り坂になっている。これは上町台地を上っているのだ。天下茶屋駅あたりは海抜約2mだが、台地上は15mほどにもなる。かなりの傾斜だ。途中、松虫通から北へ分岐する小道があり、松虫通に沿ってずっと東へ伸びている。これが旧道だ。実際に歩くと、幅員の広い新松虫通と、生活道路の旧松虫通が並行して走っており、変わった風景だ。そして、路傍には道の名の由来になった松虫塚がある。いまはもう塚はないが(昔も高さ2尺=約60㎝程度だったそうだが)、何本もの石碑が建てられており、後鳥羽上皇時代の女性・松虫、鈴虫の伝説、あるいは松虫が鳴く名所の話、また謡曲「松虫」の故地といった、いにしえの説話の数々が蘇ってくる。

 さらに東に進むと、阪堺電軌上町線の踏切に至る。北を見ると、あべのハルカスが聳え立っていた。

松虫駅付近からハルカスが見えた

 丘の上の池

 もとに戻って、聖天山の南を歩く。ここには小丘があり、町名は橋本町という。明治中期の地形図を見ると、丘上に池があることが分かる。

 丘はU字形の高まりで、北から真ん中にかけて谷が入り込んでおり、谷の上部に池があった。大正期から昭和初期になると、丘上にはお屋敷が建ち始める。前回紹介した朝陽館はその代表格だ。ところが、いま池はない。住宅地だから、戦後埋め立てられたのだろう。

 前回の訪問時は、お屋敷に目を奪われて、池の跡をはっきり確認していなかった。今回分かったことは、池の跡地の北側と南側が急坂になっていて、住宅も石垣を築いて平面を保っていることだ。現地を見た感じでは70m四方ぐらいが窪地になっていて、明瞭に池跡だと分かる(地図では南北が少し縦長に描かれている)。このような例は、大阪市内だと大正中期に埋め立てられた味原池の跡(天王寺区、鶴橋駅の西方)にも見られる。それでも、ここは丘上にあった池で、そこが窪地になっているという珍しい例に思えた。

池の跡は窪んでいる

 丘の名は?

 ところで、この丘の名前は何というのだろうか? また、池の名は? 疑問に思ったが、地図には載っていないので文献に当ってみた。『天王寺村誌』(1925年)、『阿倍野区史』(1956年)、『東成郡誌』(1922年)などを参照すると、次のようになる。

 明治25~26年(1892~93)頃、天王寺警察署長であった野田正教が地元の橋本尚四郎や道野源七らと諮って、この丘の開発を手掛けた。丘の名前は「植木山」と称した。丘上にあった池は「鯨池」、あるいは道路ができて分断されたので「上鯨谷池」「下鯨谷池」ともいった。これは、丘の真ん中に走っていた谷を「鯨谷」と呼んだからだろう(付近の字名は「上鯨谷」「下鯨谷」)。

 彼らは、この池を中心に天下茶屋遊園地という園地を造り、料亭なども建てて、風光明媚で高燥な土地を宣伝した。そのおかげで評判が上がり、高級住宅地としても認識されるようになったという。

 土地の所有者は、『天王寺村誌』では道野源七の先代(第3代天王寺村長・道野源七)だとする。改めて明治末の地籍図で調べてみたところ、道野に加え、多くの土地を原田十次郎が所有している。原田十次郎は、大阪の海運業者で原田商行、原田汽船会社などを経営し、日清・日露戦争、第一次世界大戦などで事業を拡大した(1916年没)。もともとは道野の所有だったものを原田に譲渡したのかも知れないが、資料では分からない。

 ということで、丘の名前は植木山だった。これは、天下茶屋辺りは植木栽培が盛んだったから、この丘もそういう土地利用がされていたことを示すのだろう。

 そして、池の名は鯨池、または鯨谷池(上鯨谷池・下鯨谷池)といった。なぜクジラかといえば、『地名用語語源辞典』(東京堂出版)によると、クジラは「クジ・ラ」であり、「クジ」はクジルであって、抉る(えぐる)という意味から、崖などの“崩壊地形”を示すという。当地は谷・崖なので、この説が当てはまると思う。全国には、このような「鯨」が付く地名が多数あるそうだ。ちなみに、この先にある相生通から阿倍野筋に至る長い谷は「口谷」ということが分かった。これも「クチ」が「朽ち」に通じることから、崩壊地形を示す可能性がある。

 そして、橋本町という町名は開発者の橋本氏に由来する。この橋本氏は尚四郎と久五郎の兄弟で、もとは大和の与力だったといい、大坂に出て天下茶屋の薬舗・是斎(ぜさい)の跡を襲った人である。

 マンホール

 今回2か所で古いマンホールを見かけた(写真は橋本町で出会ったもの)。フタには同心円状にドットがあり、中心に「みおつくし」のマーク(大阪市章)がある。フタの周りを8枚の花崗岩で固めているのも昔風だ。

 僕はマンホールの編年には詳しくないので、いつ頃のものか知っている人がいたら教えてほしい。

古風なマンホール

 相生通のアパートと商店

 丘を下っていくと、相生通に出る。通りに沿った長屋の商店は、時間の経過が作り出したいい雰囲気を醸し出しており、裏のアパートは年季が入っていて絵の中の風景のようだ。

 それが今回変化していた。商店棟には前にコーンが置かれ、黄色い「立入禁止」のテープが張られていた。裏側のアパートに回ってみると、通路へ入れないようにトタン板の仮塀が造られている。つまり、ここはもう廃屋ということで住人はいないのだろう。そして、次に訪れたときには跡形もなく消えているかも知れない。

相生通の商店棟

 治安や安全のためには老朽化した建築を厳格に管理しないといけないが、古いものが失われていくのは心が痛む。街は変化すると一言で済ませることもできるが、街の記憶を物理的な形でとどめておくことも、私たちが生きていくうえで大切なことではないだろうか。

 複雑に街路が入り組み、土地が凹凸する天下茶屋・聖天山周辺。歩いても歩いても新たな発見があり、興味は尽きない。

このアパートも次にはなくなっているかも知れない

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