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【フィールドノート/大阪】島之内という、つかみどころのない街(その1)
島之内というエリア
島之内。そう聞いて分かるのは、地元大阪の人だけかも知れない。観光客でにぎわう道頓堀の川を隔てた北側。インバウンド客が多い心斎橋筋などを含むエリアで、一般には「ミナミ」の一画と言った方が通りがよい。
僕にとって、島之内(しまのうち)という地名はこの上なく上品で、しっとりとしたものに感じられる。もともとは東横堀、道頓堀、西横堀、長堀という4つの堀川に囲まれた区域で、あたかも島のように浮かび上がっていたのだろうか、などと想像させたりする。北にある船場(せんば)に比べると開発が遅れたが、それでも400年ほども前の話である。江戸時代の島之内を歩いたことはもちろんないが、商家や花街を含みながらも、町家が櫛比する落ち着いた町並みだったのだろう。
炎暑のなかを歩く
彼岸に入ったにもかかわらず、気温35℃を記録した日。島之内を歩く。ここ1年ほど、しばしば訪れてはこの街を歩いているので、通りの名だとか主なビルとか路地の場所とかはおよそ分かっている。そのなかで改めて歩くけれど、いったいどういうふうに歩けばいいのだろうか? 前夜も考えたが、まったく分からなかった。それで、とりあえず現地に行ってみて、考えることにした。
午後2時半すぎ。地下鉄心斎橋駅の地上で、地図やカメラを用意する。今回はゼンリンの住宅地図も参照する。歩いたルートは下の地図の通りで、おおむね北から南、西から東へ進んだ。
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島之内の北端は長堀通だが、その1本南の通りは現在、鰻谷(うなぎだに)北通と呼ばれている。次の角まで進んで南に折れると、鰻谷南通になる。ここから、歴史的には東西に延びる両側町となり、鰻谷は東から、東之町、中之町、西之町とつづいていた。明治中期の実測図では、中之町の西側は新中之町になっていて、そこがいま僕が立っている場所だ。
北側に小さめのビルが4棟建っている。そのうちの1棟に男性が入っていった。表札をみると「鰻谷ビル」と書いてある。なかなかいい名前だ。中央に入口があって左右に部屋を振り分けているのだろうが、高度経済成長期に建ったような印象を与える。
路地を行く
鰻谷ビルの向かい側に路地があった。入ってみると、幅1メートルぐらい、下に水たまりがあり、上からぽとぽとと水が滴り落ちてくる。東南アジアの街に迷い込んだような印象だが、ずっと奥に進むと、一人の男性がしゃがんでスマホを見ている。こういう風景は驚きを与えるのだが、実は島之内の路地を歩いているとよく出会う光景だ。つまり、ビルで働いている人が休憩しているのである。煙草を吸ったりスマホをいじったり、格好の居場所なのだろう。
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路地は鉤形に屈曲しており、南側の部分は幅員も3メートル近くもありそうな明るい道で、横方向に3枚の石畳が敷かれている。イタリア料理店だろうか、一人の客が出てきて店の人に見送られていた。そのビルを見ると「田毎プラザ」という看板が上がっていて相応に古そうだが、店は小ぎれいな印象を受ける。
この路地は、南側から入って突き当たりになってもよいようなものだが、少し左に曲げて北側に抜けられるようにしている。京都風に言うなら、抜け路地(ぬけろうじ)というところか。そして、この路地のさらに東にもう1本の路地があって、歩けはしないかも知れないが、この路地とつながっている。つまり、h形の路地が形成されているわけだ。
島之内の路地を見ていくと、2つの種類があることが分かる。ひとつは、江戸時代に利用されていた溝(背割り下水などと呼ぶ)の跡に造られたもの。この溝は各戸の裏に掘られていたから、現在のブロック(四角の街区)の真ん中を貫いている。もうひとつは、建物と建物の間に造られたもので、これはいろいろな場所に任意に通されている。
いま歩いてきた路地は、後者になる。この辺りの町通り(鰻谷南通のような街路)は東西に通っていて、溝もその方向に造られていたから、南北の路地は溝とは関係ない。h形というのも、いかにも意に任せて造られた通路という感じがする。
コロンブスを発見 ?!
次の角を越え、さらに東へ進んでいく。この先には、中華料理店の大成閣がある。かなり昔、職場の懇親会で来た覚えがある。当時なぜか、しきりに中華料理に行きたがる先輩がいたのだ(笑) この辺りは、昔から東西の街路がメインだから、いまでも大ぶりの商業ビルが多く、賑やかな雰囲気がある。
右手に大きな雑居ビルがあるので観察してみることにした。看板を見ると、望遠鏡を覗く男性の絵がある。背後にアメリカ大陸が描かれている。ビルの名は、ニューコロンブス。最近は音楽シーンでも話題になったコロンブスだが、ここでは未だに偉大なる新大陸の発見者として、ビル名に採用されたのだろうか? それとも、夜の街で新たな出会いを発見してほしいという隠喩なのだろうか? 各フロアに10軒ずつほどの店が入っているようだ。
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奇妙な描法の案内地図
ニューコロンブスの脇に、付近の住宅案内図が掲示されていた。大阪や京都では昔からよく見る簡易な地図だが、ここにニューコロンブスも書いてある。おもしろいのは、モータープール(駐車場のこと)やカラオケ店は普通の記載法だが、コロンブスだけビルが立体的に描かれている。平面的な位置を示しつつ、ビル内の各フロアの店舗も要領よく示している。平面と立面を取り混ぜた地図は、なかなかの工夫で楽しい。
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南小学校の記念碑
先に進むと信号機がある交差点になり、南小学校がある。ワンブロックの大部分を占める土地利用は、島之内では珍しい。ここには、大阪市内でよく見かける「旧町名継承碑」が設置されていて、ここがかつて大宝寺町中之丁であったことを示している。
それと並ぶように、古い記念碑が4本まとめて建てられている。碑面は、下が埋もれているものものあるが、「東久邇宮稔彦王殿下台臨記念」「明治天皇駐輦記念之碑」「伏見宮故博義王妃朝子殿下台臨」「李王殿下台臨記念」と刻まれ、それぞれの来校を示している。戦前では、天皇・皇后や皇太子らの行幸啓や皇族の台臨(たいりん)などは名誉あることだったから、このような碑がよく建てられていた。
昔の記憶で印象に残っていることがある。昭和の初め、大阪の日東町というところに改良住宅(鉄筋アパートである)が建てられたのだが、それを視察に秩父宮がやってきて、その後、アパートの中庭に台臨記念碑が建てられたのだ。もう四半世紀も前、それを見たことが記憶に残っている。ちなみに、その住宅は取り壊されて現在はない。
街を歩いていると、よく記念碑に出会う。多くは神社や学校などの公の場所に建てられている。これを見ると、過去の人たちが何を「記憶すべきこと」「後世に伝えるべきこと」だと考えていたかが分かる。近年では自然災害が多く、その記念碑も各地に建てられているが、大阪市内であれば室戸台風(1934年)の記念碑などが数多く残されている。
通りの呼び名
南小学校の前で引き返して、先ほどの交差点に戻って南へ行く。街路は笠屋町筋である――と書いて、少し待てよと思う。この南北の街路を何と呼ぶのか?
いつも島之内を歩くとき、南北街路を覚えやすいように西から、御堂筋・心斎橋筋・畳屋町筋・笠屋町筋・玉屋町筋・千年町筋・長堀橋筋(堺筋)という順で記憶している。これは島之内南部の旧町名に準拠した覚え方だ。そう、これはあくまで島之内の南部で通用する呼び方で、北部にはふさわしくない気がする。ここ大宝寺町辺りでは笠屋町筋と言うべきではないのだろう。では、何と呼ぶのか? 答えはたぶん三休橋筋だと思う。
この街路は、心斎橋筋の2本東を通る。かつて長堀川があった頃、そこに三休橋(さんきゅうばし)が架かっていた。その橋名から付いた通り名である。概念的な“橋筋”にあたるといえる。大阪では、このような橋名を冠した街路が多い。心斎橋筋もそのひとつ(長堀川に心斎橋が架かっていた)。おもしろいのは堺筋で、長堀川より南を長堀橋筋、道頓堀川よりも南を日本橋筋と通称する。それぞれ、堀川に架かる橋の名にちなんで通り名を変えていく。昔の大阪の人たちが、橋を目印として地理を頭に入れていた名残りだろう。(その2につづく)
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