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【フィールドノート/大阪】城東・東成の住宅街を歩き、神社の石造物に出会う

 

 京橋から寝屋川を越えて

 休日の午後。14時から玉造でNPO法人の会合がある。京橋駅に降り立ったとき、およそ1時間の余裕があることに気付いた。早めに行って昼食をとるとしても、少し早すぎる。街を歩いて、時間をつぶすことにした。

 JR京橋駅の北改札から東へ向かう。古くに埋立てられた鯰江川(なまずえがわ)の堤防は街道筋になっていた。その北側には、かつて井路(いじ。水路のこと)が流れており、戦後になるとそこが埋立てられて道路になった。ここが現在、京橋の立呑みストリートとして安い立呑み屋の激戦区になっているエリアだ。休日とはいえ、13時すぎ、まだ開いている店は少ない。道端の角地の建物が取り壊されている。何のビルだっただろう、と思い出しながら歩を進める。東野田抽水所の脇を曲がれば、かつて蒲生橋が架かっていた鯰江川の跡に至る。

 そこを南下すれば、JR片町線(学研都市線)の踏切がある。ここはよく来る場所だが、京橋駅のホームがすぐそこに見え、踏切を待っていると発車する車両がやってきて、何度見てもあきない鉄道風景がある。それでも、東側にあった煉瓦塀の旧工場はすでに更地になり、クレーンが立てられて何か建設されようとしている。変化が緩やかな京橋駅周辺でも、徐々に街は変わっていく。

 踏切に差し掛かると、放出(はなてん)方面へ行く電車のために遮断機が下りた。これをやりすごす間、電車を見るのがいい。 

京橋の立呑み屋街

 地図にない路地と地蔵と

 鴫野橋を渡る。川は寝屋川で、がっちりとコンクリートで護岸されている。流れを感じさせない、大阪らしい川の姿がある。下流側はJR大阪環状線の鉄橋があり、素朴な鉄道風景を見せている。

 橋を渡り、コンビニの角を左に曲がる。道の左にはサンドイッチ店があった。右側にはTという家庭的な呑み屋があり、以前から気になっていた。一度行けないものかと考えていたこともあったが、行くことがないまま今となった。今日はシャッターが閉まっており、張り紙がされている。見ると、5月末に閉店したという。近いうちにカフェになると書いてあるが、そのような気配もない。

 Tのすぐ東側に、路地ともいえないような建物間の狭い隙間があった。入って行くと、2階建のアパートが立っており、ドアが並んでいる。このアパートは、この隙間の通路を通らないと出入できないのだ。反対側の隙間を通って、南へ抜けると、また街が広がっている。

 このあたりは鴫野(しぎの)西という地域だ。細い街路が入り組み、住宅が櫛比している。電柱や家の壁に「不審者に注意!」という張り紙が貼ってある。ニヤリと笑う真っ黒な不審者のシルエット。窃盗が多いのだろうか。それを見ながら、自分のようなブラブラ歩いている人間も、おそらく不審者に入るのだろうなと思うと、妙な気分だった。

不審者に注意!


 そんな気持ちは脇に置きつつ、また道の奥にお地蔵さんが見えたので行ってみた。「愛宕地蔵」と書いてある。愛宕(あたご)さんは、元々は京都の愛宕山に祀られており、火防(ひぶせ)の神さまとして知られ、かつては大阪からも参詣者があった(そんな落語もある)。神社だからお地蔵さんではないと思うのだが、ここでは地蔵菩薩になっている。

 元の道に戻ると、呉服店があった。この店にも張り紙があり、祖父の代から90数年つづけてきた店を畳むことになった、と書かれている。静かな住宅街にも小さな歴史が刻まれていて、気づかないところで時代は移っていく。

 城見通を越えると、とたんにマンションが増え、銀行の寮などもある。第二寝屋川に近付くと、工場も建っている。同じ鴫野西でも、先ほどの一丁目とここ二丁目、四丁目ではずいぶん雰囲気が違う。

 城見橋の橋上からは、得体の知れぬ円形ビルが見え、目を驚かす。あとで調べると、下水処理場の建物だった。 

中浜下水処理場

 白山神社の石造物

 川を渡ると、中浜下水処理場がある。処理場は広く、ここは円形建物があった西方の敷地になる。このあたりは以前、一度歩いた記憶がある。

 歩を進めると、大きなビルが建設中だ。マンションでもないなと思いながら「建築計画のお知らせ」を見ると、そうか、大阪公立大学の森之宮学舎が建築中なのだった。キャンパスの入口は大阪城公園側になるのだろうが、裏は中浜という至って庶民的な環境だ。マンションはあるものの、大学の立地として好適とも思えない。

 さらに行くと、「白山神社御祭禮」と染め抜かれた幟(のぼり)が立っている。この先に白山(しらやま)神社があるのだ。この神社も前に一度行ったことがある。平野川に架かる衛門橋という風流な名前の橋を渡り、中浜の街に入って行く。地域の張り紙を見ると、今週は秋祭りがあり、次の週末には地車(だんじり)も出るようだ。そういえば、一昨日フィールドワークしていて、やたらと地車や布団太鼓に遭遇した。シーズン真っ盛りなのである。

白山神社の祭礼のぼり

 道路沿いには、白山神社の石垣、玉垣がある。よく見ると、これを整備した当時の銘が刻まれている。大正4年(1915)9月に末廣市松ら3人の寄付により築かれたらしい。大正4年の秋といえば、大正天皇の即位礼が行われた時期だ。その記念として築造されたのだろう。鳥居をくぐり、境内に入る。
振り返って鳥居を見ると「昭和三年十一月」と刻んであり、これは昭和天皇即位礼の年月だ。逆側にはちゃんと「御大典記念」と書いてあった。境内の由緒書は詳しく書かれていて、本殿は大正4年の改築、幣殿や拝殿などは昭和2年の改築となっている。どうやら、大正の即位礼と昭和の即位礼に合わせて、2度の境内整備が行われたらしい。そのことは、拝殿前にある一対の狛犬からも分かる。吽形の狛犬には「昭和三年二月吉日」と刻まれており、阿形の狛犬には「拝殿改築記念」と記してある。昭和2年に拝殿を建て、そのすぐあとに狛犬を据えたわけだ。 

拝殿前の狛犬(昭和3年奉納)

 日露戦争の記念碑を見る

 拝殿の左手に回り込むと、自然石の碑があった。日露戦争の記念碑だ。「明治卅七八季 戦役紀念碑」と刻されている。今年の初め、必要があって大阪市内の日露戦争記念碑を見て回った。森田敏彦氏の克明な調査によると、大阪市内には50近い日露戦争記念碑が残されている。その際、この近くにも来たが、白山神社には来られなかった。

 碑は、青み掛かった自然石を生かして、小さな台座に乗せられている。碑文の「卅」は三十の意味、「季」は年の意味で、明治37年38年の戦争の記念碑、ということになる。裏面の記載によると、明治39年(1906)4月に建てられた。日露戦争は、当時の人たちには「明治三十七・八年戦役」と呼ばれることが多く、ここでもその表記を使っている。「日露戦争」という言い方は、あくまで後の呼び名だ。

 碑の下部には、小さな文字で人名が記されている。川中定吉、末廣卯之助、津田音吉、増田辰蔵……と21人の名があり、「凱旋兵士」と書いてある。戦争に出征し、無事帰ってきた人たちということだろう。日露戦争記念碑に出征者名を記すことは、当時よく行われていた。あわせて戦死した人の名を別に記すこともある。この村から出征した人たちは、全員無事帰還したのだろうか。戦没者名としての記載はないから、幸いみんな無事だったのかも知れない。

 彼らの名前をよく見ていくと、「卯之助」が3人、「辰蔵」が2人、「寅次郎」が1人いる。これは、昔よくあった「えと(干支)」を付けた名前だろう。明治前半の干支を調べると、明治11年(1878)が戊寅、12年が己卯、13年が庚辰となっている。おそらく、ここにある寅次郎(奥田寅次郎)は、明治11年生まれではないか、との推測が成り立つ。すると、戦争が始まった明治37年(1904)、彼は26歳だったことが分かる。同じように、末廣卯之助は27歳、増田辰蔵と中山辰蔵は28歳だったと推定できる。当時、このような20歳代の若者が戦地に赴いていたことが分かる。 

白山神社の日露戦争記念碑(明治39年建立)

 出征者のその後

 ところで、先ほど見た拝殿前の狛犬には、台座に建立にかかわった人の名前(寄付者などだろう)が「委員」として刻まれている。その中に、末廣卯之助の名が見える。日露戦争に出征した人だ。

 この狛犬は昭和3年(1928)に奉納されている。先ほどの年齢が正しければ、末廣卯之助はこのとき49歳になっていた。日露戦争が終わってから23年が経ち、卯之助も村では壮年から老境に差し掛かる年齢だった。自分の名が記された戦争記念碑の脇に、新たに狛犬を建立して、どういう感慨を持ったのだろうか。

 さらに他の石造物を見ると、道路沿いの石垣-これは大正4年(1915)に整備されたものだが-の寄付者3人のうちの1人に川中定吉の名前が見える。彼も記念碑のトップに名前があった。大正4年といえば、日露戦争の10年後。無事生還したお礼にこの石垣を寄付したのかも知れない。

 そう思って見直すと、日露戦争記念碑に記された名前の順番が気になる。一般に、日露戦争記念碑での姓名の記載順は、イロハ順、年齢順、順不同が多い。白山神社の碑は、イロハ順でも年齢順でもない。では、何の順番なのだろう? 順不同ともいえるが、石垣や狛犬の寄付を行った川中定吉や末廣卯之助が1番目、2番目に書かれていることが気になる。彼らは、この村の有力者(資産家)の家族だったのではないか? そんな想像もふくらんでくる。いま、この村の詳しい情報は分からないが、後日調べてみたい事柄になった。 

白山神社の石垣(大正4年築造)

 中本・中道から玉造へ

 白山神社でいろいろ見ているうちに、時間が気になってきた。神社を出ると、平野川に沿って南下する。途中、千間川公園という小緑地がある。ここはその名の通り、かつて千間川(せんげんがわ、千間堀川ともいう)が流れていた川跡を公園にしたものだ。付近の路傍には、護岸跡かと思われるコンクリート構造物が残っている。

 さらに南へ行くと、中央大通に出る。中本2丁目の交差点だ。この道路は正式には築港深江線といって戦後整備された道路で、阪神高速の高架橋もある。僕は若い頃、大阪城内に勤務していて森ノ宮駅から通勤していたから、このような風景は馴染み深い。時間の都合で森ノ宮駅から電車に乗ろうと思ったが、1駅だけ乗るのも何だなと思い直し、玉造駅まで歩くことにした。

 中道2丁目の交差点から南へ。幼稚園や小学校はあるものの、何の変哲もない住宅街だ。それも古い長屋などはほとんどなく、戦後建てられたような住宅が並ぶ。

中道の街並み

 しばらく行くと、スーパー・ライフがある広い道路に出た。ここは俗に疎開道路と呼ばれていて、戦時中の建物疎開により形成された街路だ。ライフの前にパトカーが2台停まっていて何事かと思うけれど、スルーしておこう。

 次の交差点を右折すると、すぐJR大阪環状線のガード(架道橋)が見えてくる。そこが玉造駅だ。このあたりは昔、大坂の街を出て奈良へ行く人たちの旅立ちの場所で、二軒茶屋があった。いまもそれなりににぎわっている。飲食店はたくさんあるが、探すのも面倒なので、牛丼屋に入ってすき焼き風牛丼を食べた。まあまあ、おいしかった。それを食べたせいかは知らないが、午後からの会合では激しい睡魔に襲われて、少し困ったのだが。

玉造のガード


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