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【フィールドノート/大阪・豊中】阪急・曽根駅周辺の台地の凹凸を上り下りした
阪急宝塚線・曽根駅にある谷地形
午前9時20分。阪急宝塚線の曽根駅に降り立った。大阪府豊中市である。宝塚線は高架化されている区間とされていない区間があるが、曽根駅は高架駅だ。駅の東側は開けているけれど、余り店舗がなく、がらんとした風景に思える。少し先には、豊中市の文化芸術センターや中央公民館がある。今日はその反対側、西へ進んでみようと思う。
西へ伸びる道は両側に商店が建つが、商店街というほどのにぎやかさはない。そして、かなりの勾配がある下り坂になっている。駅に向かう人たちと擦れ違いながら坂を下ると、ファミリーマートがあるところで坂の底になる。向こう側は上り坂になっている。つまりここには谷がある、ということになる。
明治18年(1895)に陸地測量部が測量した地形図がある。豊中を歩き始めたときにその地図を複写し、赤ペンで書き込みをしながら歩いていった。いまでは紙もかなりくたびれてきたが、豊中フィールドワークの相棒だ。なぜこの道には、アップダウンがあるのか? 坂の底に立って、地形図を眺めた。
曽根駅は、豊中に広がる台地(豊中台地などという)の上にある。駅の南方は急崖になっている。これは縄文海進の際にできた海食崖だ。つまり、駅の南側はかつての海と陸の境目、海岸線だった。地元の人なら分かるが、この南の服部や庄内は平坦な土地で起伏がない。曽根駅は海抜15m程度だが、服部天神駅は4~5mほどである。
この台地に食い込むように、南から北へ向かって谷が伸びている。明治18年の地形図では、曽根村と原田村の間に谷があり、北東へ伸びている。谷は150mほど伸びると二又に分かれ、その先は台地上となって、岡町駅や原田神社、旧能勢街道に至る。二又の谷の東の方は“萩の寺” 東光寺の南側に走っており、昔そこは池になっていて、蛇喰池(じゃはみいけ)と言った。今も池跡は残っている。こう書いているうちに、この谷の名前を知りたくなったが、これは後日調べてみよう。
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谷から丘へ
谷の底で地形図を確認し、その谷に沿って進んでみた。すぐに狭い道が入り組んだ住宅街になった。分岐の左は細い坂道になっているので、そこを上ってみる。丘の上にも同じように住宅が建ち並んでいる。道は相変わらず複雑だ。
丘上に、舗装のされていない砂利道があった。その区画の家々はお屋敷と言ってよい庭の付いた住戸だ。僕は街を歩くとき、よく電柱を見る。電柱には関西電力とNTTが設置したプレートが付いている。古い地元の通称地名が記されていることが多い。ここのプレートには「七号地」と書いてある。どうやら近代に開発された住宅地のようだ。
付近をぐるっと回り、元の地点に戻って、さらに西へ進むと原田城跡になる。ここには登録有形文化財の旧羽室家住宅もある。今日は締まっているので、なかには入れない。原田城は戦国期の資料にも登場する存在だけれど、地形的にみると、この台地の西端にあることが注目される。城跡は台地上にあるが、前の道は急な下り坂になっている。
坂を下ると、いかにも古そうな曲がりくねった細道があり、明治の地図を見ると、これが西方へ伸びる古い道筋であることが分かる。田んぼの真ん中をまっすぐに走るこの道は、伊丹に通じる伊丹街道だ。
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原田村
今日の予定は、この道をずっと西へ進んで、千里川の脇にある勝部へ行くつもりだが、地形図を見ていると、やはり「原田村」のことが気になってきた。僕は台地の下に降りてきたのだが、原田の村は台地下の低地に広がっている。いま自分が立っているところは、村の北端のようだ。南に進み、村の中に入ってみよう。
村の中は、予想通り入り組んだ道が張り巡らされていた。住居は、意外に新しく建て直されたものが多い。村の中央辺りには、少し拡幅されたのか広い道が通っていた。歩くと、真宗大谷派の誓願寺があった。その西南に歩を進めると創価学会の平和会館があって、その周辺には大きめの住戸がある。どうやらこのあたりが村の中心だったようだ。古い土蔵を残す家も多い。この辺りの町名は原田元町だが、まさに元々の集落があった場所にふさわしい地名だ。さらに西へ歩くと公園があって、ここが村の西端になる。すぐ向こうに阪神高速11号池田線の高架橋が見えている。ここで引き返して村内を北へ進み、元の場所まで戻った。
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原田井(九名井)
少し西に歩くと、小さな水路がある。干上がっていて水は流れていない。説明板があって「原田井の洗い場」と書いてある。説明を少し引用してみよう。
尼崎から豊中にいたる原田集落の縁辺に沿って流れるこの水路は、遠く猪名川(いながわ)を水源とし、伊丹、広大な田畑を潤し続けた、猪名川流域で最大級の農業用水路でした。
この水路は、原田井(はらだい)、あるいは9か村に利用されたため、九名井(くめい)と呼ばれた。中世の文献にも見える由緒ある水路だ。この場所は洗い場というだけあって、水路の縁に石が取り付けてある。かつては、ここで村人が洗いものをしたのだろう。水路に沿って北へ進むと原田小学校の脇で、水路は道と分かれて北に続いていた。僕は左へ折れて、西へ向かう。
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お亀地蔵
原田小学校を越えると、道端に小さな祠があるのに気付いた。説明板によると、お亀地蔵というそうだ。その由来も記してある。原田村の亀橋の脇にこの地蔵はあったが、宝永2年(1705)8月、地元の徳兵(徳兵衛か)が足を洗うときにこの地蔵を踏み台にしたため、眼疾となり失明した。夢のお告げで、この地蔵を拾い上げて祀り、21日間、願掛けをした。すると、満願の日に目が開いたという。年月まで記した詳細な言い伝えだが、昔は眼病に悩む人も多かったから、このお地蔵さんも目の病にご利益のある存在ではなかったろうか。祠の中を覗くと、小ぶりの五輪塔と四角い石柱が並んでおり、いずれも下部に仏の像が彫ってあった。
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勝部と千里川
1時間余りが過ぎ、10時40分、阪神高速池田線を潜って勝部の地区に入る。先ほどまでと風景は一変し、工場が建つエリアとなる。しかし、その間に農地もかなり残っている。歩いて行くと、工場、倉庫、高齢者施設、田畑が混在している。そのなかで、田んぼのフェンスに開発計画のお知らせが取り付けてあるところがあり、年明けに資材倉庫を建設するという。農地が徐々に工業地化していくわけだ。
勝部村は、千里川に沿って形成された。豊中市内には、南北に流れる千里川沿いに形成された村が多い。上流部の谷合い(大阪大学の東方)には、野畑(のばたけ)村、少路(しょうじ)村、内田村などがあり、平野に出た下流域には箕輪(みのわ)村、走井(はしりい)村、勝部村などがあった。いま僕がいる場所は、かつての勝部集落の南外れで、広がっていた農地に戦後、工場などが建っていった。
集落内の南北道を通り越して坂を上ると、千里川が流れている。川幅は狭いが深い川だ。川の向こうには大きな壁が聳えている。一瞬なにか分からなかったが、そうか、壁の向こうには伊丹空港があるんだ、と気付いた。空港の滑走路の南端がこの場所になる。そう思っていると、すぐに旅客機が着陸していく。壁の上には一面の空が広がっていて、なかなかいい眺めだ。着陸する飛行機と壁をセットにして写真を撮ろうと思って待ち始めたが、こんなときに限って、いつもすぐ来る飛行機が来ない。結局10分近く待っても着陸機はないので(離陸機ばかりだった!)、あきらめて先へ行くことにした。
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川のこちら側には、大きな緑地帯があり、遊歩道がある。ここが旧千里川の河道跡だ。かつて千里川は、この北側で大きくカギの手状に屈曲していた。北から流れてきた千里川は、走井の南で東へ90度曲がり、すぐにまた南へ90度曲がって勝部に至る。この2度の屈曲は明治期の地形図にも記されているが、なんともあり得ないような急カーブだ。今夏開いた展覧会の調査でも、箕輪辺りの水害の写真を見たし、昭和42年(1967)の大水害の話は地元の方からも聞いた。上下流とも氾濫の危険が大きい川だった。これを上記の大水害のあと、改修工事をして流れを直線化した。改修後、走井-勝部間の旧流路は緑地化されたのだ。
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再び原田井に遭遇
遊歩道をぶらぶら歩く。勝部の集落が右に見えてきたので、昔の村内に入ることにした。ここは前に一度来たことがある。千里川の方から細い溝が流れている。これが先ほど原田で見た原田井(九名井)の上流部分だ。この水路は、伊丹市の西桑津(JR・伊丹駅東側)の猪名川から取水し、東へ向かって豊中市に流れてくる。いまは空港で分断されているが、かつてはひとつの水路でつながっていた。住宅と田んぼの間をくねくねと曲がりながら流れている水路がおもしろく、水路沿いに歩いてみた。いまではただの用水路だが、中世や近世の村々を潤した存在だと思うと感慨深い。
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坂下の池と丘上の住宅街
再び、阪神高速池田線のところに出た。時計の針は11時を回っている。轟公園通りという新しい道を上って少し行くと、古い道との分岐点に至る。ここから東へ伸びている道路は明治期の地図にもある古いもので、台地に上る坂道だ。ずっと進むと岡町の能勢街道に至る。
台地の西側は急傾斜になっている。かつて台地と現・轟公園通りとの間には北に伸びる谷があった。谷の先には轟木(とどろき)村があった。谷の入口には小さな池があることが地形図から分かる。その場所は、いまも大きな窪地になっており、住宅が建っている。そして今日も新築工事が行われていた。前回、大阪市の天下茶屋を訪問した際も、丘上の窪地が池跡だったが、今回も同じ状態が見て取れる。ただし、ここは丘の下だが、先日ある方と話しているときに教えてもらったのだが、昔は池などを埋め立てるとき、遠くから土を運んでくることができず(ダンプカーもないので)、ごく近場から土を持ってきて埋めたという。僕が見た上記2つの池は、土を運んでくることすら行わずに、水を抜いた窪地のまま開発を進めた例ではないだろうか。あとで『新修 豊中市史』を見ると、この池は「唐川池」という名の池に当ることが分かった。かつては原田村などの農地を潤す灌漑用ため池のひとつでもあった。
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丘に上っていくと、昭和初期頃に建てられたのだろうか、古い郊外住宅的な家が建っている。さらに進むと、登録有形文化財にもなっている西山家住宅(庭園は国の名勝)がある。その前の案内板は、次のように書き始められていた。
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西山家住宅は、明治45年(1912)箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)と竹中工務店が共同開発した岡町住宅地のほぼ中央に位置する。
この丘上の一帯が、箕面有馬電気軌道の開業(明治43年)後、住宅地として開発されていったひとつが岡町住宅経営地であったことが分かる。また、今日の最初に見た曽根駅西側の住宅地は、昭和6年(1931)に阪急電鉄が開発した曽根住宅地であると思われる。
時計の針は11時30分を指している。そろそろ終わらないといけない。阪急・岡町駅に向かい、原田神社前を通って、奥野家住宅(登録有形文化財)に至り、終了することにした。奥野家の手前にあった古びた長屋群が完全な更地になっていて、再開発されようとしていた。いつものように少しショックを受けながら、変わる街の姿を眺めた。
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