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【フィールドノート/大阪】漁港のある街・福と伝法を歩く(その1)

 

 福に行く

 午前9時半を過ぎて阪神尼崎駅のホームに着く。ここで阪神なんば線に乗り換える。尼崎を出ると、すぐ大物に着く。「だいもつ」という特異な地名。ここは本線となんば線の分岐駅だが、普通電車しか停まらない。しかし僕の中では、源平合戦の舞台として歌舞伎にも登場する「大物浦」の故地として記憶されている地名だ。そのあと新淀川を越えると出来島(できじま)、そして福に着く。ここは、大阪市西淀川区である。

 福(ふく)というのも珍しい地名である。たぶん、江戸時代の新田開発では松とか梅とか、めでたい地名を付けることも多かったから、ここも「福」にしたのではないだろうか。

 福駅は、以前から東側の工場跡地が再開発されていて、千船病院とイズミヤ、GUなどがあり、通りを挟んでユニクロもある。でも、平日の朝のせいか、にぎやかな感じはない。帽子を被り、カメラやメモ帳などを取り出して支度を整え、10時、スタートする。駅の南には踏切があるが、現在、高架化の工事中である。この福町十三線、通称・姫島通は結構交通量があるし、場所柄、大型車も多い。立体交差になれば便利なのだろう。

 予想最高気温が37℃を超える日にフィールドワークをするなんて間違っている。でも、今週やらないと予定に間に合わない。たぶん、もう30℃を超えていてすでに暑いが、踏切を渡って国道43号を渡ると、静かな住宅街に入って行く。ここが昔、村があったエリアだ。

 通りを挟んで東側に福小学校、西側に福町公園がある。昭和初期の地図を見ると、当時は公園とその隣接地が小学校で、今の小学校の場所は田んぼだった。いつか分からないけれど、戦後だろうか、小学校を田んぼ側に移して拡げたのかも知れない。

 公園を突っ切って、西側の道路に出る。道路に沿って木々が生い茂った遊歩道があり、大野川緑陰道路という。ここにかつて、大野川が流れていた。僕は以前から歌島橋にちょこちょこ行っているから、大野川緑陰道路のことは知っていた。そこは少し上流だが、ここはもう大野川が新淀川に注ぎ込んでいた場所に近い。緑道は歩行者専用道と自転車専用道に分かれており、自転車の方は路面がライトブルーに塗装されている。往時の川の流れに沿って歩いていく。

大野川緑陰道路

 大野・百島の集落

 昭和の地図に橋が架かっている場所があった。そこを右に折れ、かつての大野村に入って行く。この辺りの町名は大野か百島だ。百島(ひゃくしま)とは、また珍しい地名だが、近世には百島新田があったらしい。百には多いという意味があるから、数多の川が分流して大阪湾に流れ込むこの付近は、新田といっても島々に分かれているような雰囲気だったのかも知れない。そんな想像をめぐらしながら、通りを歩いて行く。

 通りは、昔の道らしく緩く自然に屈曲している。古い長屋などもあり、戦後の新建ちの住居も多い。家並みの間には細い路地があって、その奥には階段が付けられている。かつての大野川の堤に上がる階段だ。築かれた擁壁の高さは2mほどもある。これは大野川が天井川だったことを示しているのだろうか。それにしても路地ごとに律義に階段が付いているところに、生活の知恵的なものを感じる。

かつての堤に上がる階段

 大野住吉神社

 通りの西にある小さな公園を抜けると神社がある。住吉神社。この辺りは海に近いせいか、住吉さんが多い。ここは、大野・百島の住吉神社になる。本殿は南面しており鳥居も境内の南端にある。古い地図には大木があるような記号が描かれており、今でも境内を入ったすぐのところに楠が祀られている。しかし、すでに上部は切られていて、3mほどの高さの木が覆い屋に収まっており、ご神木になっている。かつては樹木がたくさんあり、社叢を形作っていたのだろうか。

 境内には、石碑や灯籠が数多くある。しかし今日は暑すぎて、丁寧にメモを取る気力が出ない。それでもざっと見ていく。楠の横には、漢学者の藤澤黄坡(こうは、章)が撰文した大きな碑がある。大正14年(1925)12月に成子内親王が誕生。これは後の東久邇成子(ひがしくに・しげこ)だが、昭和天皇の最初の子供で照宮(てるのみや)といった。僕も照宮といわれると、古い新聞を繰っているときなどにその女の子の名を見た記憶がある。折しも時を同じくして、この住吉神社でも拝殿や玉垣の修築を行うこととなった。碑にはそのことが記されており、大正15年(1926)3月に建碑された。ちなみに、大正14年はこの地域が大阪市に編入された年で、そのことも記載されている。そうすると、当社の境内は大正末に整備されたことになる。確かに、入口の鳥居には「大正十五年七月建之」と刻まれている。

大野住吉神社の記念碑(大正15年)

 「住吉神社復興記念」という小さな石碑もあった。こちらは、昭和23年(1948)建碑だから戦災復興について記したものだろう。さらに本殿には、阪神・淡路大震災からの復興に関する銘板が取り付けられている。平成8年(1996)だから、震災の翌年になる。このように、何度も修復・復興を繰り返してきた様子が石造物から分かり、地域の人々の苦労がしのばれる。このほかにも、忠魂碑や先の大戦の講和記念碑、紀元二千六百年に建てられた石灯篭などがあって興味が尽きないが、詳しくは省くことにする。

 神社を出ると、目の前は工場が林立していた。明治にはないが、昭和の地図を見ると、この場所に大きな池が掘られている。おそらく、戦後その池を埋め立てて工場にしたのだろう。もっとも昭和初期、池のあった時代から池の周りには工場が建っていた。製錬やアルカリなどの工場だ。池は人為的に掘られたのだから、これらの工場と関係あるように思えるが、詳しくは分からない。付近には古びた団地があるが、もう人は住んでいないらしく、蔦が生い茂っていた。

 福の集落

 大野を後にして福に行く。緑陰道路の向こうはもうかつての福村で、神社の鳥居が見えたのでそこから入る。この神社は、福の住吉神社だ。ここにも住吉さん。本殿の脇には、金毘羅さんと戎さんも祀ってあり、この2つは先ほどの大野住吉神社にもあった。やはりこの辺りは漁村で、舟航や漁業の神さまが信心されるのだろう。金毘羅さんの前には改築記念碑が建っていて、建立者は大阪市漁業協同組合福町支部となっている。昭和36年(1961)12月の建碑だが、28人の氏名が記されている。この神社にも、日露戦争および第一次世界大戦の戦役紀念碑や、元は忠魂碑だったかも知れない慰霊碑などがある。最近、日露戦争の記念碑については調べたので興味が湧く。ここの碑も、裏面には出征者名が刻されている。ところが、碑の背後にヨドコウの物置みたいなのが設置されていて、氏名がとても見づらい。この暑い中、それを読み取っていく気力はなく、後日の課題とする。

福住吉神社

 福の村は、古い地図を見ると南北方向に3筋の道が走っている。それは今もあるが、西側の2本は狭く、東の1本は一部拡幅されていて集合住宅が建っている。平成18年(2006)の地形図を見ると幼稚園があったようだが、それはすでになくなり、広い空き地の中に住棟が建っているのだった。これら南北の道を東西の路地がつないでいる。こういう複雑な道筋が海辺の漁村に似た感じがしてきて、思考が何でも漁村に結び付いてしまう。

 道を進んでいくと、東西の幅広い道路に行き当たる。ここにはかつて水路が流れていたようで、橋も架かっていたらしい。往時は、福村から北東の稗島(ひえじま)村までは、一面の田んぼだった。その真ん中を有名な中島大水道という水路が突っ切っていた。それ以外にも、数多くの井路(いじ、細い水路のこと)があった。この地域も、大坂三郷周辺に広がっていた農村地帯の典型だったわけだ。

 水路と緑陰道路が合流するところに着く。余りに熱いので、自販機でペットボトルを買って木陰で飲んだ。公衆トイレで、首に巻いていた保水できるスカーフ(以前、百均で購入)を濡らして、また首に巻く。

 福漁港

 この先、西へ進むと新淀川に至る。広い川幅は1kmはないと思うが、いつ見ても爽快だ。上流を眺めれば、遠くに梅田のビル群が見える。以前ここに来たのはいつだったのだろう、梅田のビルの数が随分増えているのに気付く。そして、堤防の内側には福の漁港がある。大野川の下流部がここに当り、北側から流れ込む西島川と合流して新淀川につながっている。漁港には15隻ほどの船舶が繋留されていて、見るところだいたいが漁船のようだ。

福漁港

 ここでフィールドから少し離れて、あおぞら財団・エコミューズのウェブサイト(「おもろいわ西淀川」)から、福漁港の漁について紹介しておこう。この辺りの川や海では、福や大野の漁師たちが漁を行っている。やはり何が獲れるかが一番気になるところだが、魚はイカナゴ、スズキ、ボラ、ウナギなど。ボラが意外にいけるらしい。そしてボラからカラスミが取れるので、これは珍味として出荷できるようだ。また、シジミなどの貝類。福は昔から貝がよくとれたらしい。このサイトでは漁師さんに聞き取りをしているのだが、2013年現在、大阪市漁業協同組合には55名の組合員がいると書いてある。案外多いような気もする。

 さてフィールドに戻ると、この港と新淀川との接続部には西島水門が設けられている。水門は径間9.0m、扉体高10.62m、つまりざっくりいえば幅9m、高さ10mという巨大なもので、引きがないので写真撮影もままならない。この陰でまた飲物を飲む。(その2につづく)

新淀川から梅田方面を望む


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