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街を歩くって、なんだろう?

 

 はじまりは、豊中

 発端は、転職だった。長らく博物館で学芸員をしてきた僕だが、縁あって大学に転じることになった。大学は「豊中」という、これまでほとんど来たことのない街にあった。

    豊中は、大阪市の北郊にある人口40万人の典型的な住宅都市。古い表現でいうと「ベッドタウン」で、北部の丘陵には千里ニュータウンが広がり、南部には長屋やアパートが並ぶエリアもある。40万人というと、大阪府内では大阪市、堺市の2つの政令市、そしてロケットも作る「町工場の街」として有名な東大阪市に次ぐ。でも、豊中市と聞いて、特別なイメージが湧く人も余りいないのではないだろうか。僕も、そんな一人だった。正直、「豊中」に近付いていく糸口がなかった。

    ところがひょんなことで、そんな自分が1年後に豊中に関する展覧会をやらなければならなくなった。さぁ、どうしよう?  とりあえず、得意分野である写真展でもやってみようか? と思い付いた。豊中市内で撮影された古い写真をパネルに仕立てて展示したらいいよね、と。

 でも、困ったことがあった。地元の人と話していると、地名がさっぱり分からない。「天竺川の向こうの浜が……」って言われても、浜って地名かな?(地名だった)という始末だった。

 そこで考えたのが、知らなかった場所を訪ねてみる、ということだった。幸い、歩くのは苦にならないから、最寄り駅で降りてテクテクとその場所まで歩いていく。ついでに、周りの街も歩いてみる。

 歩いてみると、豊中は意外にアップダウンが激しい街で、住宅地って平たいだろう、という先入観を覆した。戸建て住宅街なのに、仰ぎ見るほどの坂道があったりする。かと思えば、住宅の裏にポッカリと池があったりする。古い道標が立っている。茅葺きだったらしい旧家がある。歩くほどに豊中の多様な顔を発見し、次から次へと歩いていった。北から南、西から東と、市域の主なエリアを歩いた頃には、豊中の地名もほぼ頭に入っていた。

 街歩きを理論化する

 前後して、もうひとつのことをやった。長らくお世話になった母校の先生が定年退職することになった。記念論集に論文を寄稿してほしいという。テーマは何にするのか?  最初は、どこかの地域史を書こうと思って史料を集め出したが、どうもうまくいかない。そのとき思い付いたのが、街歩きで書こう!  ということだった。

 学芸員時代、数えられないぐらい街歩きのイベントをやっていたが、街歩きについて理論的に考えたことはなかった。せっかくの機会なので、「街歩きって、どういうふうに行うのか?」について考察してみることにした。

 最初はなかなか分からなかったけれど、書くうちに少しずつ理屈が分かってきた。そして、昔ふうにいうと原稿用紙35枚ほどの、街歩きの方法論が書き上がった。

 文章に書くことで、街を歩くことに対する自分の思いも、だんだん固まってきた。そうすると、独りでもいろんな街を歩くようになるし、友人を誘って歩くようにもなる。いろいろな団体からオファーを受けて案内するときも、新しいコースを作って歩いていった。転職して時間に余裕ができたのも幸いだった。職場の研究会や主催する市民講座で、街歩きについて話したのもよかった。この人は街を歩いて研究しているんだ、と周囲から思われるようになり、自分でもそちらへ意識付けができるようになった。

    転職して1年。自分が進む方向が大きく転回していった。

 歴史的に街を歩くとは?

 いま、主に大阪府内を歩いている。大阪市を中心に、豊中市も歩くし、他市へ足を延ばすこともある。

    僕の場合、「歴史的に」街を歩く。でもそれは、古いものを見て歩く史跡探訪や名所めぐりではない。「歴史」というと「昔のこと」とイメージされがちだけれど、僕は違った意味で捉えている。

  「歴史とは、過去と現在との絶えざる対話である」――これは歴史学界で有名な言葉で、歴史家・E.H.カーが唱えた(『歴史とは何か』)。これに従うと、歴史は単なる過去の出来事ではなく、現在を生きる私たちが過去に働き掛けて初めて立ち現れることだと分かる。そのダイナミズムが歴史をおもしろくする。

 この考え方は、実は街歩きにぴったりだ。街を歩くということは、「いま現在の街」を歩くことに他ならない。過去の街を歩くことは不可能だ。そこで、それを逆手に取って、僕たちが歩いている現在の街を過去の街と対話させる――そういう働き掛けをすることによって、街の歴史が立ち上がってくる。これが「歴史的に」街を歩くということなのだ。

 街歩きの身体性

 もうひとつ大切なのは、街を歩くということは身体を使った行為である、という点だ。机上で書物を繙くとき、目で文字を追っていく。街を歩くと、足を使うし目や耳も使うし、風や気温を肌で感じる。五感や身体全体を使うのが、街を歩く行為だ。

 いうまでもなく、街は三次元の空間である。これを机上で理解することは難しい。やはり、その空間に身を置くと理解が進む。もちろん、実際に空間の中に入ると、空から俯瞰したような二次元的な街の拡がりは理解しづらくなる。そのときは、地図や航空写真を見ることで補う。また、いまの街を歩いても、過去のこと、つまり時間の流れは分かりづらい。そのときは古い地図・写真・絵画や文字資料を見て補う。このように、いろいろなツールを援用するのだが、実際の空間に身を置いて感じるということだけは必須である。

 では、なぜ空間の中に入っていくかといえば、過去に生きた人々もまた、空間に身を置いて仕事や生活を行っていたからだ。そこには彼らにとっての身体性がある。そして、その身体性を僕ら自身の身体性に重ね合わせて感じ取っていく。もちろん、時代が離れれば空間も変容し、ぴったりとした重ね合わせはできない。でも、少しでも残っている空間の痕跡を捉えながら、それを行っていく。

 街歩きを書いてみる

 こんな感じで、街を歩くってなんだろう? と考えてきた。さらに深めるために、もう少しやってみたいことが出てきた。それは、街を歩いた経験を文章で残したらどうだろうか、ということだ。

 街を歩いていると、たくさん考えることがある。でもそれは、歩き終わると消えていき、ほんの少しだけ自分の頭に残る。それを消え去る前に書き留めたらどうだろう? それがこの発想である。だから、歩いたらすぐに書かないといけない(笑)

 そして、実際に書いてみた。ずいぶん長い文章になった。7,000字!  それでも書いてみると、歩いた場所も再確認できるし、新たな疑問が湧くこともある。やっぱり書いてよかった!

 そんなわけで、このnoteでは、つれづれなるままに僕のフィールドワークを公開していきます。お暇なときにでもお読みください。

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