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【フィールドノート/東京】下町の風情を感じる神田・湯島を歩く

 秋葉原駅からスタート

 師走の東京。11時に東京駅に着き、乗り換えて秋葉原駅前に降り立ったのは11時10分だった。今日は午後から会議があるが、それまで歩いてみようと思う。会場は上野公園だから、秋葉原から歩けば、ちょうど時間がつぶせるだろう。

秋葉原

 久々に来た秋葉原。この街の今を知らない自分のイメージでは、もっとカフェとか若い人向けの店が多いのかと思ったが、意外にもパーツなどを扱っている電気関係の店が残っている。店名やビル名に「ラジオ」「無線」を付けた店がたくさんある。ラジオ会館、ラジオデパート、〇〇無線……。西へ向かって進むと、店頭にめちゃくちゃ光っているロープ(?)を売っている店があった。近付いて見ると「超高輝度テープ」と書いてある。何に使うのだろう? クリスマスの飾りなどにはいいかも知れない。大阪には、日本橋(「にっぽんばし」と読む)という街があって、そこは戦後電気屋街になったが(「でんでんタウン」という愛称もあった)、いま電器店は廃れ、メイドカフェなどに変った。それに比べると、秋葉原はまだ昔の電気屋街の雰囲気を保っているように感じる。

店頭で光る超高輝度テープ


 昌平橋から聖橋へ

 歩いて行くと昌平橋に至る。鉄道が道路を跨ぐところに、大きなアーチ橋が架かっている。その凄さに、しばし見とれる。東京の鉄道路線に疎い僕には、この線が何かよく分からないが(あとで調べたら総武線だった)、架道橋は戦前のもののようにも見えた。帰宅後に調べてみると、松住町架道橋というそうで、昭和7年(1932)に建築されたものという。

松住町架道橋は昭和初期の架橋

 それをくぐると、神田川に架かる昌平橋があり、こちらも石張りの親柱や高欄が時代を感じさせる。その向こうには、煉瓦アーチの高架橋が見えている。こちらは明治末期にできた区間だ。よく知られているように、万世橋にも昔は駅があり、駅頭には広瀬中佐の像が立っていて、にぎわう場所だった。そういえば、今は埼玉に移った鉄道博物館も、かつてはここにあった。その交通博物館(当時はそう言った)が閉館するときに特別公開があり、秘密の(?)階段を通って、高架上に上がったことがある。なかなか貴重な経験だったが、あれから何年経ったのだろう。

 高架橋の煉瓦アーチは、架道橋の橋台部の装飾などに意匠が凝らされていて、明治期らしい鉄道構築物だ。道路を跨ぐ架道橋は昌平橋架道橋というらしく、見たところ昭和初期に造られたような印象を受ける。脚部の雰囲気など、大阪環状線(旧城東線)で見る架道橋と親近性がある。こちらも調べてみたところ、戦前どころではなく、明治41年(1908)に造られた大変貴重な遺産だと分かった。

煉瓦造の高架橋は風格たっぷり

 この路線――JR中央線だと思うのだが――に沿って西へ進んでみる。この道は、だらだらとした上り坂になっている。左手には高層ビルが建っているが、いかにも古そうな石垣がある。江戸時代のものだろうか? などと想像を膨らませる。

 坂上に設置された解説板で、すべてが氷解した。この坂は淡路坂と言い、現在ソラシティというビルが建っているところは、三菱財閥の岩崎弥之助邸の跡だという。道理で立派な石垣があるわけだ。

 振り向くと、お茶の水駅があった。久しぶりに来るから、駅舎が新しくなったなぁという印象。そして聖橋を渡る。橋の上に立ち止まって、神田川の深い谷と鉄道が織り成す眺望を見ている人が大勢いる。僕も写真を撮ってみた。そうこうするうちに、電車がいくつも往来した。赤い車両、黄色っぽい車両……。そうか、確かここは3つの鉄路がクロスしている名所だった。黄色の電車はお茶の水駅に入るから中央線だが、さて赤い電車は何だろう? 私鉄だと思うのだけれど……。東京の人からみると、なんて鉄道に無知なんだろうと思われるかも知れないが、関西人の認識はこんなものだとお許しくださいね。(あとでまた調べました。JRの中央線と総武線、東京メトロ丸ノ内線でした。なお、鉄道構築物については小野田滋氏の『東京鉄道遺産』講談社ブルーバックスに多くを教えられました。)

御茶ノ水駅の神田川風景


 湯島聖堂

 聖橋を渡ると、湯島聖堂がある。昌平橋学問所という名前でも通っている。ここも若い頃に来ているはずだが、全く記憶がない。石段を下りると門があり、「入徳門」の扁額が掛かっている。この名称が儒学らしくていい。門は宝永4年(1704)の建築だといい、内側に回ると象鼻だろうか、それとも獏(ばく)だろうか、木鼻に近世らしい、こってりとした彫刻が付けられている。大成殿は、昭和10年(1935)の再建だそうだ。漆黒に塗られた建物と真っ黄色になった銀杏のコントラストが素晴らしい。

 外に出て歩き出すと、街路樹も銀杏だ。つくづく東京は銀杏が多い街だと思う。実はこの夜、大阪から同じ会議に来た友人と話していたとき、その人も東京の銀杏の多さについて言及していた。大阪人は御堂筋の銀杏に馴染みがあるが、街全体でいうと東京ほど多くはない。

湯島聖堂と銀杏

   

 神田明神へ

 道路を渡って、神田明神にお参りする。朱塗りの楼門はひと際目を引くが、本殿は昭和9年(1934)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC)の近代建築だそうだ(設計・大江新太郎)。屋根の千鳥破風や唐破風を見ると、左右に緩やかに広がっていて、伸びやかな印象を受ける。これは江戸時代に造られた屋根の高い寺社建築とは異なる、復古調のイメージがあるのではないだろうか。神社の会館はEDOCCOというネーミングで綺麗なビルになっていて、ショップには和物が好きな人なら欲しそうなグッズがたくさん売られていた。境内の隅にひっそりと銭形平次の顔出し看板があったのも、懐かしく思われた。平次親分といえば「神田明神下」ですものね。

神田明神本殿

 その明神下へは、とても急な石段で下りる。神社が台地上にあることがよく分かる。坂下から北に向かって歩く。ちょうとお昼時だが小さな料理屋なども多く、ほのかな下町の風情を感じる。この辺りは、左(西)が高い地形になっている。日本薬科大学のキャンパスがあるところには三組坂という東西方向の坂があり、それを越えると急に谷になる。さらに少し進んで左手を見ると、これは! と驚くような急な石段があった。東京は、台地と谷が織り成す地形が特徴なのは承知だが、この急崖は物凄い。ゆっくりと上っていく。段数は55段もある。ということは10mほどの落差があるということだ。坂上の案内板には、ここは実盛坂であると書いてあった。斎藤別当実盛に由来するという。

急崖の実盛坂


 湯島天神

 坂を上れば、湯島天神が見える。湯島といえば、もう若い人は知らないと思うが、「湯島通れば思い出す、お蔦・主税の心意気」という懐メロが頭の中に流れるのだ。そういう情緒を自ずと感じる。

 社頭の銅鳥居は、寛文7年(1667)建立という。右の脚部を見ると、建造からの修理過程を事細かく記した銅板が貼付けられている。その修理年は、寛文11年(1671)、宝暦11年(1761)、文化6年(1809)、文政6年(1823)、安政6年(1859)、明治25年(1892)と続いている。明治の修理には、湯島に住む鋳匠・山田浄雲が当ったと記されている。この銘板は、明治のときに取り付けられたものだろう。ただそれでは終わらず、銘板の外に大正6年(1917)にも修理が実施された旨が刻まれている。このときは二代目の山田浄雲が携わった。修理の間隔は結構ばらばらだが、こういう金石文を読むのも地元に即した歴史が分かっておもしろい。

 参拝して、また東の石段を下りると、坂下には湯島聖天(心聖院)がある。ここには弁財天を祀った放生池があり、たくさんのカメがいる。解説板を読むと、昔この寺は「亀の子寺」とも言われたそうだ。カメを持って行かないでという注意書きがあり、何とも言葉を失う。

湯島天神と銅鳥居


 そして湯島から上野へ

 大通りに出ると、すぐ先に不忍池が見えた。思ったより、湯島と上野公園は近いのだ。通りから細い道に入って行くと、スナック街になった。この辺りは天神下というようだが、スナック、バー、パブの看板が目に付き、その先にはホテルもある。東へ抜けると、少しにぎやかになり、ここはもう上野エリアらしい。

湯島天神下のスナック街

 仲町通を通って、不忍通に出た。12時45分。すでに店に入って昼食を取る時間はない。コンビニでパンを買って、上野公園で食べた。動物園に来る中学生団体、ベビーカーを押した家族連れ、散策する人たち。平日の昼間というのに、にぎわっている。やはりこういうときには「東京は人が多いな」と言わなければいけないのかな、などと思ったりする。

湯島天神の境内には「大阪焼」が。どんなものなんだろう?


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