【フィールドノート/大阪】漁港のある街・福と伝法を歩く(その2)
高架化する阪神なんば線
帰り道は、暑いので緑陰道路を歩くことにした。ずっと歩くと地下道があって、国道43号を潜る。気付くと福駅よりも北側に来ていた。当初の予定では新淀川を徒歩で渡って伝法に行くつもりだったが、さすがに歩く気力もなく、福駅から阪神電車に1駅だけ乗ることにした。
ホームに立って気付いたのだが、仮ホームなっている。最初に書いたように、ここは高架化されるわけだが、高架橋工事のためにホームを東へ移動したらしい。電車に乗って新淀川を渡ると、水面から何本も橋脚が突き出しているのが見えた。阪神電車のウェブサイトによると、水面から高いところに橋を架け、橋脚の本数も減らして洪水に強い橋梁に架け替えるという。
伝法駅を降りてまた気付くのは、この駅も福駅同様に高架になることだった。駅の西側はすでに更地になり、工事が始まっている。伝法駅は新淀川のすぐそばにあるから今でも高い位置にあるが、ホームは土手で嵩上げされている。駅の前には小さな架道橋もある。こういう風景がなくなるのは少し寂しい。駅前の道は古い街道筋で、この道を西に取って43号を越え、少し古めかしい街に入って行く。
伝法川跡
ずっと歩いていくと丁字路があり、西念寺という寺院がある。その前にここが街道筋であったことを示す碑が建てられている。つまり、ここから西へ行くと尼崎へ、東へ行くと大阪へ、というわけだ。確かに、中之島にある寛政期の道標には、その行き先に尼崎と書いてあった。中之島から福島、野田を通過して、西九条、四貫島からこの伝法へとつながっている。伝法からは道を北に取って尼崎の城下に至る。もっとも、ここから西の道筋は明治末の新淀川開削によって失われたらしい。
西念寺の門前にはもうひとつ碑があり、備前橋跡と記されている。この寺の前に架かっていた備前橋。古い地図を見ると、そこには正蓮寺川から枝分かれした伝法川が流れており、その川幅は50mを超えているようにみえる。確かに「備前橋」と記載してある。今となってはただの道路となった川跡をぼんやり眺めていると、向こうに煙突が立っているのが見えた。そう、銭湯があるのだ。庚申湯(こうしんゆ)。なかなかゆかしい名前。その由来も西念寺の前にある案内板に書かれてあって、近くに庚申堂があるのだという。
伝法の庚申堂
居酒屋がある角を曲がると、奥の方には新淀川の高い堤防が聳えている。右手にはポッカリと空き地が広がっていて、その両脇には平屋の長屋がある。新しくはないがそんなに古くもない、おそらく戦後早い時期に出来ただろう長屋。空き地になる前は路地があったりしたのだろう。
空き地の前に庚申堂はあった。庚申(かのえさる)の日の夜に身内から出た三尸(さんし)の虫が閻魔様に言い付けをしないように寝ずに夜を明かすという、庚申待ち。全国にある信仰だが、青面金剛を祀ったお堂、庚申堂も各地にある。大阪市内であれば四天王寺の庚申堂が有名だ。祠の脇に「合祀記念碑」と書かれた石碑(1932年)があり、それによるとこの辺りには明暦4年(1658)に住吉大明神が勧請され地元の信仰を集めていたが、明治42年(1909)に澪標(みおつくし)住吉神社に合祀されたため、庚申堂の脇にこの碑を建てた、とある。ということは、庚申堂はそれ以前からここにあったということになる。
ここで気になるのは、申村という存在だ。「さるむら」。なにかおかしな地名だが、申(さる)というと子、丑、寅、卯……と十二支で表される方角のひとつになる。実はこの先に酉島(とりしま)新田という村があり、現在も酉島という地名が残されている。この新田の名が、開発者の居宅から見て酉の方角、つまり西にあったからそう名付けられた、という説があるそうだ。申は酉のひとつ前だから、西よりは少し南寄りということになる。この村名の「申」と庚申堂が関係あるのではないかという推測なのだ。思うに、先に村名があって、そのあと村名からの類推で庚申堂が設けられたのではないか、そんな気がする。まあ実証はできないのだが。いずれにせよ元々はこの場所に住吉神社があったわけで、これは申村の住吉さんだ。伝法駅から逆方向の東には澪標住吉神社があって、これは伝法村の北組(北伝法村)の住吉さんということになる。ほんとうに、この辺りには住吉さんが多い。
そして少し話が戻るが、申村の住吉さんが明治42年に合祀されたという件。これは、同年が新淀川の竣工年に当たることと関係がある。申村の大部分は新淀川となって失われたそうで、そのため神社も移されたのだろう。明治と昭和の地図を照らし合わせると、神社のあった場所は堤防になるかならないかという場所のように見える。新淀川開削の影響で、村や神社が消えたわけだ。
伝法漁港と水門
庚申堂から街道筋に戻り、少し進むと伝法漁港がある。ここに行くと明瞭に分かるが、この漁港は先ほどの伝法川の下流部に当たる。船溜まりの北側は立ち入り禁止と書かれている。以前、この奥にあるフグ料理店に行ったことがあるが、その店に行く人は通ってもよいと書いてある。今日はフグは食わないから、南側に回ることにする。
こちらも福と同様、10隻以上の船舶が停泊している。北側には漁船が、南側にはプレジャーボートが繋留されている。船溜まりの脇には小規模な造船所もある。福漁港より閉じられた空間という印象だ。新淀川から少し離れているせいかも知れない。ここは本当に「船溜まり」という表現がしっくりくる、こぢんまりとした港だ。
ところで、漁港の南側には防潮堤が築かれている。下をのぞいてみると、3mぐらいはある高い堤防だ。大阪市の湾岸部では、たびたびの台風で高潮に悩まされた。それで戦後、精力的に防潮堤が造られた。先日も港区でフィールドワークしていたとき、この種の防潮堤に出くわした。運河脇に切れ目なくコンクリート製の壁が築かれている。ここも同じような雰囲気がある。最近、このような防潮堤も湾岸地域の歩みを示す遺構として文化財的な価値があるのではないかと思うようになってきた。土木構造物は得てして文化財の網の目から漏れがちだが、すでに半世紀を越えたものも多い。防潮堤については改めて考究してみたいと思う。
そこから少し西に歩くと伝法水門がある。ここは船溜まりから船が出て来るところだ。水路は少しくびれて狭くなっており、川側に大きな樹木があって独特の雰囲気を醸し出している。ちょうど国交省のボートが水門から出て行くところだった。狭い甲板にはキャップを被った男性が立っている。彼の視線の先には渺々たる新淀川が広がっている。
時計の針はすでに午後を指し、夏の暑さはたけなわとなる。もと来た道を歩いて伝法駅に戻った。本当はこのあと千鳥橋駅か西九条駅まで行こうと思っていたが、さすがに暑すぎる。改札口から階段を上ってホームの椅子に腰かけ、汗を拭った。やってきた阪神電車の冷房はとてつもなく効いていて、天国の心地だった。
新淀川開削で変わった村々
今日歩いたエリアは、明治末期に新淀川が開削されたことで大きく変容した地域だ。それ以前の様子は今の僕には想像も付かないが、明治中期の地図を見ると、入り組んだ川の流れと一面に広がる田んぼ、川沿いにひっそりと息づく村々。ここには水と共に生きる人々の日常があり、その水に時に苦しめられ時に恵みを受けた日々があっただろう。近代になると鉄道が開通し、工場も徐々に増えていったが、それでもなお広大な農地が広がっていて、そのなかに村々と工場が併存していたのだと思われる。
今日は駅の近くを歩いたが、この地域を理解するためには、さらに西側や周辺のエリアも訪ね、街を感じ取る必要があると思われた。そこに建ち並ぶ工場や道路を見ることで、この地域にもたらされた大気汚染などの被害へ思いを致すために。暑い夏が過ぎれば、またフィールドを歩けるだろう。