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【フィールドノート/大阪】天下茶屋から阿倍野区へ、台地の凹凸を歩く

 天下茶屋と紀州街道

 天下茶屋の駅が改築されてから、もう何年が経つのだろう。地下鉄が延伸され、南海電鉄も高架になって、随分と立派な駅になったが、もともとは庶民的な街という印象がある。大阪市西成区にある天下茶屋。「てんがちゃや」と濁って読む。太閤秀吉の伝承に彩られた由緒ある地名だが、その遺址を訪ねる人はもう少ないだろう。

 駅前に降り立つと、いきなり「立呑み処Y」の看板が目に飛び込んでくる。ここでは以前、友人と呑んだことがある。至って庶民的な呑み屋で、軽く一杯やるのがいい。Yの横の道路を東へ進んでいく。右手に銭湯の煙突が見え、しばらく歩くと南北の通りにぶつかる。北、南と見渡して、すぐに感付いた。これが紀州街道なのだ。

天下茶屋駅前


 大阪市の中心部には、堺筋という主要街路が走っている。文字通り、堺へ向かう道である。この道が南の方、おなじみの新世界や新今宮辺りまで来ると、紀州街道と呼ばれるようになる。こちらも紀州(きしゅう)、つまり紀伊国、和歌山へ通じる街道という意味だ。明治時代に陸地測量部が発行した地形図を見ると、天下茶屋付近の南北路に「紀州街道」の文字が大きく振られている。

 地図を見ると、街道は東にある台地の下を走っている。この台地が上町(うえまち)台地で、大阪城付近から住吉辺りまで、南北に長く延びる小高い丘陵である。大阪城近辺では海抜25m程度だが、天下茶屋の東方では15m程度まで低くなる。ただ、天下茶屋駅付近は海抜2mぐらいだから、標高差は10m以上あり、まあまあの崖が存在するはずだ。今日は、そちらに向かって歩こうと思う。

紀州街道

  

 お地蔵さんの祠

 紀州街道をすぐ左に折れると、住宅街になる。曲がってすぐに、お地蔵さんの小祠があった。天下茶屋北地蔵尊で、説明板によると文化4年(1807)に地域の人々により創建されたという。元は紀州街道沿いにあったそうだが、大正時代に現在の場所に移ったという。祠の周囲には、集約した形で玉垣が立てられている。おそらく移転前の敷地にあったものを当地に移った際、主なものを残したのだろう。刻まれた奉納者名を見ていくと、酒店、味噌店、植木商、土木運送業、自転車店など、地元の店らしい名前が並ぶ。さらに見ていくと、驚かされる名前があった。「市川箱登羅」。歌舞伎役者の市川箱登羅(はことら)だ。この人は、初代中村鴈治郎の番頭格の役者で、一座の名脇役だった。僕は一時期、彼の日記「市川箱登羅日記」を精読していたことがあって、職場の講座で2度ほど話したこともある。親近感のある箱登羅の名前と、こんなところで出会おうとは。

 彼は幕末の1867年生まれだから、玉垣が明治後期に建てられていたのなら、奉納している可能性は十分にある。それにしても、天下茶屋の小さなお地蔵さんとどんな関係があったのだろう? 想像が付かないけれど、地元の人に知り合いでもいたのだろうか。僕にとっては、予想外の再会だった。

市川箱登羅が奉納した玉垣


 と感慨に浸っていると、背後から声を掛けられた。僕より少し年上の男性。地元の人か? 見ると、首からトラのペンダントを下げている。「なにをしているのか?」と聞かれたので趣旨を話すと、「〇〇学会か?」と言ってくる(もちろん「歴史学会」とかではなく、あの学会)。これで、嫌な感覚は確信になった。どうやら写真を撮っていたのが気に障ったらしい。「こういうのを撮ると良くないことが起こる」。しばらく説教されたあと、「すぐに立ち去れ」と言われたので、素直に行くことにした。

 そのあと考えた。男性はちょっと危ない感じだったが、言っていることはまっとうに思える。信仰の対象を写真に撮るのはよくない。ここのお地蔵さんは道端に露出しているので何気なく撮ってしまったが、男性の言うことも間違っていない。僕らはつい研究目的などということで写真撮影をするが、注意すべきことだと思えた。そういえば、数か月前、友人とこの近くの神社を訪れた際、彼が本殿の写真を撮ったら神社の方に注意された。本殿の外観がNGというのは厳しいと思ったが、やはり信仰する方々の気持ちには配慮しないといけない。

 台地を上り聖天山へ

 そんなことがあったので、予定とは違った細道に入り込んだ。すると、大きな更地があり、脇には2階建のアパートが建っている。もう誰も住んでいないようだけれど、昭和の雰囲気を色濃く残している。

 道は、すぐに阪堺(はんかい)電車の線路に行き当たった。小さなホームがあり、上がってみると「北天下茶屋」の駅名標がある。昭和初期の地図には「ひがしてんがちやや」と書かれており、いつかの時点で駅名変更されたのだろうか。それにしても、俗に「チン電」などと言われる阪堺電車(阪堺電気軌道)のひなびた感じはたまらない。百年以上の時間が醸し出す得も言われぬ風情がある。

阪堺電車の北天下茶屋駅

 
 さらに東へ進むと、小丘が見える。聖天山(しょうてんやま)。丘上には聖天山古墳(6世紀後半の直径10数mの円墳)があり、その南には聖天さんを祀る正圓寺がある。寺の上り口には鳥居が立っており、脇に「大聖歓喜天」の標柱がある。歓喜天(かんぎてん)は聖天のことだ。夫婦和合の神としても知られるから、当寺にも丸瓦などに交叉する大根が描かれている。聖天さんの定番である。

天下茶屋の聖天さん


 上町台地の西端にあり、寺の下は崖になっている。西方を見渡すと、数多の住宅と少しのビルが建っているが、ビルの隙間からは六甲の山並みが見える。昔は大阪湾の海原も望めただろうと思うと、やっぱり大阪は海に開けた都市だったと思わせられる。

聖天さんから西を望む


 松虫通と入り組んだ細道

 聖天山を南へ下ると、広い街路に出た。松虫通。明らかに、都市計画によって拡幅された道路と分かる。戦前の地図を見ると、拡幅前から松虫通という道があった。ほぼこの位置を曲がりくねりながら通っていた。松虫というのも実にゆかしい名前だが、道端にあった松虫塚に由来するという。後鳥羽天皇の頃の白拍子、松虫・鈴虫という女性たちの伝承。余りに古い話だが、地域を温故知新的に見直すよすがとはなる。

 押しボタン信号を渡ると、橋本町に入る。昭和初期の地図を見ると、松虫通から谷筋に沿って短い街路が延びていることが分かる。その最初の屈曲部分は、今も残っている。宅配便のクルマを避けながら立っていると、その細道から3人の小学生が出てきた。時刻は午後3時前。学校が終わったのだろう。南にある晴明丘小学校の生徒のようだ。細道を出ると、目の前に大きな5階建のマンションが建っている。ここは、昔は橋本町一帯に広がる丘の北側だった。現に、よく見るとマンション敷地の南端は崖になっている。

橋本町の古く細い道


 裏手に回ってみると、道は行き止まりで、断崖になっていた。マンションのある場所は、かつて丘陵の北端にある斜面だったから、戦前には住宅開発されていなかった。そこを戦後いつかの時点で平坦地にし、敷地南側を切り立った崖にしたのだろう。ちなみに、調べてみるとマンションは約20年前に建設されたものだった。

 この辺りの街路は複雑だ。昔からある、南東に入っていく細い坂道があるので上ってみよう。すると、ここからも数人の小学生がわらわらと駆け出してきた。どうやら、古くからある細街路は近道で、通学路になっているようだ。こういうことも現地だからこそ分かる面白さで、訪ねる時刻によっても様子が異なってくる。

 この西には、かつて池があった。池は明治中期の地形図にもあり、丘の真ん中にぽっかりと穴が開くように描かれている。しかし、こちらも今はマンションになっている。築25年ほど。池はいつ埋め立てられたのだろうか。

 お屋敷、小学校、幼稚園

 この東方は、戦前の地図を見ると、壁をめぐらした大きな屋敷がある。いまも、当時のものと思われる擁壁のある区画がある。壁が高くて中の様子はうかがえないが、敷地の角には社殿の屋根らしきものも見える。

 屋敷脇の細道を出ると、晴明通になる。もちろん、陰陽師・安倍晴明を祀る安倍晴明神社に由来する通り名だ。小学校があり、こちらも晴明丘小学校という名前。やはり、いにしえの説話が息づく地域である。小学校の斜め向かいには朝暘幼稚園がある。門内には、立派な和館があり、遠くて文字は読めないが石碑が2本ほど立てられている。ここは、先ほどの豪邸の一部だったのだろうか? 古い木造建築は元々は幼稚園舎ではなさそうなので、そんな想像をめぐらせる。

 あとで調べると、この一画は小西朝陽館というそうで、御殿をはじめ建造物は登録有形文化財になっている。明治末から昭和初期に建てられ、皇族らの宿泊のために建てられた別荘だそうだ。小西家は道修町の薬種商で、別荘は宮内大臣・土方久元から請われ、小西久兵衛が建築したという。不勉強で知らなかったが、閑静な住宅街にこういった由緒ある建築があるのもうれしい。

 付近は、ほかにもお屋敷だっただろう大きな敷地があり、現在ではマンションに建て替わっていたりする。丘の上、日当たりのよい場所なので、早くから宅地開発が進んだようだ。晴明丘というネーミングも、不動産的なイメージアップに貢献しているのだろう。

朝陽幼稚園には古いお邸の建物が


 相生通と谷筋の道

 南に下っていくと、東西の街路に行き当たる。相生通。連棟の商店建築があり、ここがかつて賑わう商店街だったことがうかがえる。しかし今は、ほとんどの店が扉を閉ざして営業している気配がない。

 その裏には、コンクリート敷きの路地があり、古い2階建のアパートがある。まだ誰か住んでいるのだろうか。右側の棟には蔦が絡まっている。晴明丘のお屋敷町から僅か5分足らず歩くと、こんなふうに街の雰囲気が変わってくる。

相生通

 アパートの横を南北に屈曲しながら通っている道がある。地形図を見ると、ここが古くから谷筋になっていることが分かる。谷の東西は崖になっているところもあり、東の丘上にはゼネコンの寮もある。

 氷河期の氷が溶けて海が広がった縄文海進の時期、上町台地の周りには海が迫っていた。台地は半島状に北へ伸びていたが、西側は波にさらされて海食崖ができた。また、小さな谷が数多く嵌入して、入り組んだ海岸線になった。この谷は、その名残ということになる。路傍の電柱に記載された通り名は「住高西通」となっていて、住吉高校の略称と縄文時代の出来事とが何だかミスマッチで、ほほえましくなる。

 さらに通りを南下していくと、西側にはいくつかの坂があり、坂上は住宅地になっている。この辺はすでに北畠(きたばたけ)で、帝塚山(てづかやま)と並んで高級な住宅地として知られている。もちろん北畠という地名も、南北朝の武将・北畠顕家の姓にちなんだものだ。

 住高西通の最終点は、昭和初期の地図を見ると「小谷町」と書いてある。「こたにまち」と読むのだろう。実際そこは窪地になっていて、谷町という名称がしっくりくる。類例としては、大阪市中央区の谷町筋があり、ここにも江戸時代には北谷町、南谷町、そして小谷町という地名があった(現在の谷町5丁目付近)。大阪の場合、窪地を谷町と呼ぶ感覚があったのではないだろうか。

 そこを通り過ぎると、阿倍野筋に出た。阪堺電車の軌道が敷かれていて、道幅は広い。北から南から、ひっきりなしに電車がやってくる。時刻はもう午後4時を過ぎた。ちょうど北畠の停留所があったので、やってきた電車に乗ることにした。高校生や外国人ツーリストらで混雑している電車に揺られ、天王寺に着いた。電車から降りると、いつもの賑わう街が広がっていた。

阿倍野筋と阪堺電車


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