海の深さ
自殺を思い立ってから一回やってみるまで、結構時間が空いた。引き延ばそうとしたわけではないと思うけれど、遺書を書いたり死ぬ前にやってみようと思っていたことをやったりしていたら、ひと月以上たってしまった。やってみたかったことの一つが、一人旅だ。生まれてから一度も一人でホテルに宿泊したことがなかったので、一度それをやってみたかったのだと思う。
ここに行ってみたい、という場所があったわけではない。旅行したいという気持ちが先立ってあったので、場所を考えなければいけなかった(今は目的地のない旅にあこがれている、時間のあるうちにやってみたい)。すぐに思いついたのが海だった。泳ぐ海ではなく、見る海。海を見たかった。東尋坊は旅費や時間の都合で断念した。旅先で死ぬつもりはなかったし、あまり有名でなく人が少ないところのほうがよかったというのもあるのかもしれない。結局いわきに行くことにした。写真はその時に撮ったものだ。
海が、好きだ
旅行先として海はポピュラーだと思う。泳ぐ海も、見る海も。ぼくも多くの海が好きな人々の中の一人で、ものすごく好きだとか、そういうわけではない。けれど一般よりは好きだと思っていて(そういう認知バイアスがあるらしいが)、そんなことを先日友人と話していたら、何で好きなのか言葉にしてみろ、それがお前の仕事だと言われてしまったので、思いつく点を何個か挙げていきたい。
海をとりまくもの
この曲は刺さった。たぶん誰にでも夏の代名詞たる何かっていうのがあると思う。それは曲かもしれないし、イベントかもしれない、あるいは特定のできごとや人、場所かもしれない。ぼくの今年の夏は多分この曲だ。ちなみにぼくも例に漏れずサマータイムレンダからcadodeに入った人なので、去年の夏は回夏だけ聴いていた。
海が好きだと言ったって、ぼくは毎日海を見ているわけじゃない。でも今まで見てきた海も、一度も見たことがない海も、なんとなく知っているような懐かしいような気がするのは、海に関わる作品がこの世界にはたくさんあるからだろう。ぼくは海の表れが好きなのだと思う。誰かが海を見つめたそのまなざしが好きなのだと思う。
海をとりこむもの
人体の60%は水、みたいな話をよく聞く。年齢とともにこの割合は下がっていき、逆に遡れば生まれて間もないころは90%くらい水らしい。もちろん水は人間に不可欠だ。それから塩も不可欠で、塩が生命の維持にどう関わっているかという話を、たばこと塩の博物館でなんとなく見た記憶がある。水も塩も不可欠だというのは当たり前といえば当たり前だし、不思議といえば不思議だ。生命の起源は海にあって、ぼくもその起源から始まる果てしない系図の果ての一つなのだと言われても実感が湧かない。湧くわけがない。しかしそういうことを知ると、ただ眺めていた海とぼくにつながりがあり、海の中にぼくがいて、ぼくのなかに海があるような気がしてくるから不思議だ。「海は還る場所」なんて言ってみても、海洋散骨してもらわない限りしばらく陸から出ることはないだろうし、ぼくと海のつながりはあったとしても不確かで不完全なものなんだろう。
知識と感覚
知識が感覚を補強したり、感覚が知識に影響したりする。そこには理論と実践みたいな相互干渉の関係があると思う。ぼくは哲学がちょっとだけ好きなのだが、哲学史の入門書は、イオニア学派から話が始まるのが通例だと思う。彼らは万物の根源を探求して水だとか火だとか原子だとか言った、ということになっていて、高校の倫理ではそれぞれの人名とアルケーについて覚えていくことになるのだが、それは定式化・単純化されすぎた理解のしかたのようだ。彼らのアルケーの探求は決して幼稚な自然科学などではないらしい。絶えず循環するこの世界のなかで、形を変えながらしかし変わらずあり続け、どこまでも起源がないという意味での根源をタレスは水と捉えたらしい。イオニアの海がそうした哲学を形づくっていったのだ。そういった思想の片鱗に触れるとき、一般に理解されている(そしてぼくもそのように理解している)海のよさとか深さは、捉えきれないものとして再構成されて立ち現れてくる。
図鑑
海とか世界の、捉えきれなさ、ぼくの力が遠く及ばないものとしての自然のありかたというのは、視覚的なレベルでも存在しているように思う。ぼくは子供向けの図鑑の中からそれを感じた。ぼくが小さい頃よく読んでいた図鑑には、大自然の写真や説明がたくさんあった。それはきれいとかすごいというよりかは、むしろ怖いものだった。果てしない世界。写真に納まりきらず、その枠をはるかに超えて存在するこの世界。
RPG
今となってはフェリーやら大型船やら飛行機やら、海は軽々と超えてゆけるものだが、かつては海は人々を絶対的に断絶していた。命を懸けて海を渡り隋や唐へゆくひとたちや、逆に仏教を伝えるために何度も失敗してなお海を渡り日本に来るひとたちのことを、日本史でぼくは学んできたけれど、あまり理解できなかった。荒れ狂う何の保証もない海に出てゆくのは怖くなかったのだろうか。怖かったに違いない、それでも船に乗り込むだけの人間の意志や情熱もまた怖いもののような気がする。ドラクエとかの王道RPGでは船を手に入れて初めて別の大陸へと移動することができるようになる。ぼくのなかにある海、海の中にいるぼく、そんなことを考えたこともあるけれど、海は絶対的な他者とか断絶のようでもあるのだ。不思議だ。
月
潮の満ち引きは月によるものらしい。海と月は密接な関係にある。月と海を見て何も思わない人間などいないと思う、そういえばぼくは月も好きだ。サカナクションとかよく月をモチーフに曲を作ったりしている。梶井基次郎の『Kの昇天』を教えてもらって去年読んだ。とてもよかった。いつか真夜中、月明かりの下海岸を散歩してみたいものだ。
まとめ
海がどうして好きなのか、考えてもあまり理由らしい理由はないし、関連することをただ書き連ねるだけになってしまった。なんなら海の怖さみたいなもののほうがぼくのなかでは大きいかもしれない。捉えきれないほど大きく、深く、だから怖く、そのぶん美しさや優しさもあって、それがいいのだと思う。もしかしたら海が好きなのはぼくが身勝手に幻影を、妄想を投影しているだけなのかもしれない。しかしそんなことは全く関係ない、気にすることですらないと言わんばかりのバカでかさが海にはある。ぼくはやっぱり、海が好きだ。