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幸福の終身刑

今、生きている。呼吸をしている。歩いている、音楽を聴いている、食事をしている、そして、今この文章を書いている。そんなあたりまえのあたりまえでないことが、ふと意識されることがある。自殺を考えてからは特に。


不幸のぬるま湯

誰しも、不幸になることができる。人は生きているだけで数え切れないほど罪を犯す。取り返しのつかないものもたくさんある。そういうのを何個か拾ってきて、自分の存在を否定する。あるいは、自分の環境を嘆き悲しむ。よりよい世界なんていうものを想像する。おそらくいくらでも考え付く。今より金銭的に、時間的に、人間に不自由しない。朝起きるとき毎回すっきりして満足である、いつでも文句なしの食事ができる。そんな世界を。それは裏を返せば、今、不幸であることだ。そんな風に、不幸になることができる。

不幸になるのは、辛い。望んで不幸になる人はいないはずだ。それでもぼくはたまにちょっと無理をして不幸を手繰り寄せる。それは不幸が楽だからだ。何かを嘆き悲しんでいれば他のことを考えなくて済む。少しだけ否定的に、少しだけ消極的になる。そうすることで積極的に生きなくて済む。ぬるま湯につかって、あるいは溺れてみると、それ以上は傷つかない安心安全の、自分だけの世界がそこにある。

逆に、不幸でないというのは大変だ。たくさんの幸せと、たくさんの不幸せがないまぜになった世界を生きなければならない。さらなる幸せを感じられるかもしれないけれど、とてつもない不幸せに遭遇してしまうかもしれない。そういった普通の世界を積極的に生きることに疲れてしまったとき、ぼくは不幸に逃げる。

一つ述べておかなくてはならないのは、こういった不幸は切実でないことだ。否応なしに不幸に投げ込まれてしまう人がいる。自分が不幸なのかもわからずに、壮絶な環境で生きることを余儀なくされる人がいる。そういった切実な苦しみを否定するつもりはないし、決して否定できるものではない。それは思いようとかでどうにかなるものではないからだ。逆に、ぼくの不幸は贅沢だ。不幸だと思う余裕がある。本当はいつでも立ち直れる。布団に沈み込んで、起き上がれないふりをしているだけで、それは本当に苦しくて布団から出たくても出ることのかなわない人とは似ているようで全く違う状況だ。

二つの不幸

切実でない不幸にも、二つの種類がある。一つはぼくのように、選び取った不幸だ。ぼくは幸福を知っている。しかしそれを一旦放り捨て、不幸に逃げてゆく。これとは別に、幸福を感じられないという不幸がある。そのタイプの場合、ある程度幸福になる条件がそろっていても、その人は不幸だとしか感じられない。目の前に幸福があっても、あるいは幸福の只中にいて、それを気づいていないと、その人は不幸のままである。これはもしかしたら幸福に対して完全に無自覚であるために、切実な不幸なのかもしれない。

自殺に際して

ぼくが自殺を考えていたとき、ぼくに残された幸福は不幸になることだけだと思っていた。不幸を嘆き悲しむという逆説的な幸福しかぼくには残されていないと思っていた。しかし、実際には違った。ぼくは幸福だった。僕には親友がいる。同じくらい、もしかしたらそれ以上に大切な人もいる。そういう人たちが、ぼくを心配してくれる。こんな人間には十分すぎるほど幸せだった。

幸せを幸せと感じられなければ楽だったかもしれない。閉じた世界で、これしかないのだと諦められれば、楽だったのかもしれない。しかしぼくはそうではなかった。幸せを感じられた。不幸を抱え続けながら、つねに幸せへとぼくの世界は開かれていた。布団から這い出ると、ぬるま湯から上がると、そこには何物にも代えがたい美しい手触りが確かにあった。

幸せの終身刑

だからぼくは今、幸せの終身刑に処されている。今現に幸せであり、あるいはこれからさらに幸せになれるということ。それを追い求めてしまうこと。ぼくがこれまで犯してきた罪は消えない。自殺は周囲に対して、ぼく自身に対しての大きな裏切りである。それ以外にも数え切れない罪がぼくにはある。だからこそ、ぼくは不幸なままでは許されない。幸せを感じる力が与えられている。今幸せであること、それ自体も苦しみだ。どうして幸せなのか。ぼくが幸せでいいのか。罪を抱えながら、それでも幸せであるという矛盾。絶えず不幸でありながら、ありえないほど幸せであるという矛盾。いろいろな矛盾が入り混じって葛藤を生み、新しい不幸を呼ぶ。一見するとくだらない無限ループのなかに閉じ込められているようにも見える。しかし、苦しみながら、もがき何とか生きようとするとき、そこには、幸せをもっと確かに、朗らかに受け止めて返せるような世界がある。いつかたどり着こうと思う。


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