2社目 NIKKO(現、GMO NIKKO、入社時日広)
2社目は表参道にあった日広という広告代理店だった。今の稼ぐというノウハウの原点はここでの学びだと思う。基礎的な知識はここで身につけた気がするので、感謝でしたかない経験だった。
今でもマーケティング=経営だと思っているし、広告はそれを体現する手法だと思っている。
まずは転職で悩んだ会社がここともう一つあった。人材会社のキャリアデザインセンターで、最終面接で創業者の多田社長に2時間会話させてもらい、君は絶対に成長する!と言ってくれたことをとても覚えている。本当に成長するイメージを持てたけど、その頃朝弱かった僕は出社9時・場所赤坂見附のキャリアデザインセンターと、出社10時・場所表参道かつ広告代理店というエンタメ感がありそうな日広を比較して、日広に軍配が上がった。この決断で、自分には良かったんだと思う。
この頃、日広含めてインターネット広告業界が伸び始めて時期で、業界の成長速度が尋常じゃなかった。当時はサイバーエージェント、オプト、セプテーニと並列で競えていて、テレアポしまくれば仕事がもらえるという動いたもん勝ちの頃だった。
今じゃ考えられないが、当時はテレアポデーという日が用意されており、広告のコの字がわかったくらいのレベルでバンバンとにかく電話をかけるという時間が苦痛だった。その時間竹刀を持ち電話をしているかチェックする上司、どの会社にどうやってアポ取れたかを報告するタイムなど、ストレスしかなかった。。苦笑
ただ、急成長だったから毎月10名単位で同世代の中途採用で入社してきていたので、後輩の期間は少なく、すぐ先輩になるのと、同世代で毎日が文化祭の前日みたいな感じで徹夜して仕事している環境は今思うと楽しい時間だった。
自分も朝10時に出社して、深夜2時くらいまで働く日々。その時はUSEN成増から代々木公園に引っ越していて、電車もないから表参道から代々木公園まで歩いて帰る、寝てまたすぐ出社という繰り返し。毎日薬飲んで、無理して働いていたのを覚えてる。
はじめはもちろん苦戦した広告代理店という仕事も、なんだかんだ軌道に乗り出し、今も仲良しの中尾Teamが大爆発してその流れから個人的にも月3億円くらいの出稿がもらえるまでに成長していた。この頃一緒のTeamだった三ツ本とその後一緒に会社経営をするとかけがえのない出会いがあったことにも感謝でしかない。
この頃の僕らは、恐ろしほど時間に追われていて、明日の朝10時までに3億円分の提案がほしいというような、身代金を用意するみたいな仕事に向き合ったりしていた。この頃は、出会い系(出会えない系)全盛期で、インターネット広告の発展はまさに出会い系だったかの如く、ビジネスモデルを作っては広告を出してピボットしてまた怪しいビジネスをやっているみたいな巨大な企業が多かったし、それを真剣に伸ばしていたし、その時は何の違和感もなかった。笑
売上インセンティブの効果もあり、いつのまにか入社して1年ちょっとで前職の年収から3倍くらいになってて、満足感はあった。
当時100億円くらいの売上があったNIKKOで、個人目標が25億円になってしまい、23億円で未達だったことが思い出深い…。。
光栄だったような無理ゲーだったような。
過労で身体を壊したこと、2.3年はもう年収上げれないからメンバー雇ってと言われたこと、もう少しエンタメの仕事がしたくなっことが積み重なり、そんなタイミングで中尾さんから新しい会社に参画しようと思うが一緒にどう?と誘われたこともあり、駆け巡った2年間ちょいでNIKKOを卒業する判断に至った。この2年が一番成長できた気がする。
ちなみに創業者の加藤さんと仕事をあまり一緒にした感じはなかったが、辞める時にやりたいことと将来肩を並べて仕事をできるように成長することを誓って退職を告げていた。
それがあったからかはわからないが、その後またご一緒できることになるのであった。
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