6社目 Interest Design Inc./インタレストデザイン株式会社 設立
6社目にして、起業に踏み切った。やりたい事業が明確にあったわけでなく、就職ではワクワクすることを見つけられる気がしなかった。漠然と選択肢が起業しか残ってなかったから起業するという結果論みたいなことだった。だから会社名も実はすぐに決まらなかった。
ただ、この頃は特にツイていたと思える。
sg時代に社外取締役としてお世話になった有名メーカーのクルマや携帯電話のデザインを監修していたコンセプターでウォーターデザイン社の坂井直樹さんがいた。その方の息子にあたるインタレストマーケティング社を営んでいた坂井光さんに出会った。意気投合し、これまでの年収を聞かれ、ウチのメンバーのマネージメントを見てもらえたら、その年収出すからオフィス間借りして起業したら?と言ってくれた。まさに恩師の忘れられない言葉だった。なので、社名もその2社から名前をもらって付けてしっくりきた。広義な意味のビジネスデザインをしたかったからだろう。
ありがたくそのオファーを受けて、良い船出ができた。そのタイミングで、吉本興業のお仕事やベンチャーのサポートなども決まり、まずまずのスタートが切れた。一緒にやりたいというメンバーにも恵まれてた。
その頃はアプリサービス全盛期で、この売上を元サービス開発だ!と息巻いていた。
マッチングサービスを企画したり、ヘルスケアアプリを開発し出していた。創業支援融資や資金調達も見えた頃、その費用をまずは投資して増やして、一緒に拡大しようと持ちかけられた投資家風な人に出会ってしまったのだ。その出会いにより、詐欺にあってしまうことになる。
創業時の資金や売上含めて1500万円の資金を失うのだった。創業1年目は波乱の幕開けとなり借金が残る。もちろん売上はあっても役員報酬を初年度から取るわけもなく。会社と個人の資産が100万円を切っているというドン底からのリスタートになってしまった。(そんなドン底で入籍するということにもなってしまった…)
サービス開発をすべて取り止めてエンジニアに頭を下げた。ここからはやりたい事を優先せず、必要とされることを最優先して、求められることに全力を尽くした。周りにもかなり助けてもらった。そんなときに大きな仕事に導いてくれて立役者がその後相棒になる元同僚の三ツ本だった。
キッカケをくれたのは、もう亡くなってしまった経営者で、ベトナム越境ECの相談をくれた方の案件からだった。その時はなんとか会社が軌道に乗った感じだったが、明確なパートナーが欲しいと思っていた頃。彼には年収を自分と全く一緒にすること、1年間1円も仮に売上につながらなくても大丈夫👌死なないから一緒にやろうと伝え、合流してもらった。彼とは一緒に働いた経験もあるから、今より良い未来を想像することができたし、自分にないものを持っているので、役割を分けられる事が明確になった。見事な相乗効果で会社が伸びていき、5年連続150%以上の成長率を遂げていた。もちろん良い事ばかりでなく、常に紙一重だった気はする。その時力になってもらえた人で真っ先に浮かぶのはインサイト藤井社長。年下だけど男気と優しさを感じ大きな仕事を任せてもらっていた。今でも感謝してるし、裏切れない存在だ。頭が上がらない。
課題としては、いつも人手不足を感じていた。理由はわかりやすく、新規事業に人を採用することと、一人当たりの売上高(パーヘッド)の効率を求めていったので、正直疲弊してしまっていた。マネージメントに時間を使う事を良しとしていなかったことが原因である。
売上10億円が見えてきた頃、このままだと潰れちゃうと考え2つの選択肢を彼に提示した。
①広告業で人的リソースシナジーがある会社の傘下に入り、事業を伸ばせる環境にする。(つまり会社売却)
②半年で①ができなければ、今の事業を全て捨ててピボットする。(この頃キャッシュは1億円以上あったから、新しい事を0から始めてもすぐ倒れることはなかった)
そこから半年間は人生で一番精神的にハードだった気がする。整体に行っても次の日には身体がボロボロになるくらいに…笑
このディール戦略や交渉、その期間に売上を減らせないから売上拡大の2つの達成に奮闘した。
そうすると結果的には、有難いことに4社からお声を頂くことが叶った。僕らのある意味団体就職活動期間がなんとか幕を閉じた。
振り返ると起業時にやりたかったことを達成してはおらず不完全燃焼と言わざるえなかったが、望んだ形ではなかったけどひとつの評価をいただけた気がした。この時も恩師坂井光さんにサポートしてもらっていた。
2社で真剣に悩んだが、最終的には昔一緒に戦った佐藤俊介がいるトランスコスモス社の完全子会社になることを決断したのだった。
この時、起業して5年半が経過していた。