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【母の遺作】私にとって"生きる"とは? その1

 九月七日の朝日新聞家庭欄「障害者の姿」を記録しようという呼びかけを読み、私も今の姿を書き残しておきたいと思った。

 この呼びかけの主旨は、来年の国際障害者年に向け、積極的に、〈おおらかに、あっけらかんと、自分の姿をさらけ出そう〉という事である。そうする事によって〈障害者の完全なる社会参加〉を推奨していこうという事である。

 今の私は、〈おおらかに、あっけらかんと、自分の姿をさらけ出す〉ことは、できない。うじうじとして、少しのことにでも心が暗くなる。こんな事ではだめだと頭ではわかっていても、心がすぐ沈む。私よりもっと障害のきつい人が一生けん命生きている姿を見ると、だめだなぁと、自分で自分がいやになる。私は、もっと強かったはずだと自分に言ってみる。でも、だめだ。今の自分の姿は、そういう意味では、とても恥ずかしいことだと思う。

 でも、私は、今のこのうじうじとした、いくじのない姿を、現時点で切り取って書いておこうと思う。

 私が障害者になったのは、昭和五十二年五月十四日、午後二時すぎである。当時三十二才だった。クモ膜下出血による左半身マヒが原因である。勤務先で、過労が原因だった。

 それまで三十二年間は健常で、生まれ育ったのが愛媛県だという事もあって、山河をかけめぐり、きのことり、オロンギひろい、どじょうすくいと、一通りの事はやった。それのみか、祖父母の家を手伝い、田植え、稲かり、麦まき、麦ふみ、麦かり、山の木切りの手伝いと、思いっきり身体を動かして、働いた。

 道を歩きながら大声で歌って歩く私を見て、

「みいちゃんは、お父さんのおらん子とは、とっても思えんねぇ」

と、よく近所の人が言っていたのを思い出す。

 父が死んだのは、昭和二十年七月六日。爆死だった。もう少しで、戦争が終わるという時だったのに。この頃亡くなられた多ぜいの方々と同じように、私達の手の届かないところへいってしまった。私は生後一年に満たないただの赤坊だった。

 だが、父が早くになくなった事。母が二十二才になったばかりで、父との生活も三年に満たなかった事。いや、それよりも何よりも父が爆死した時、私は母の背中に背負われて父と五十センチと離れていない所にいた事。そして母は重傷をおって父の死すら知らされずに入院したままだった事。父は肉片となって、とび散ったのに、(母にかばわれてか)私は、わずかな破片を腕に受けただけですんだこと等が、その後の私の生き方を決定づけたような気がする。

 少女期から青年期にかけて、いつも私は「人によって生かされている」と感じてきた。

 病身だった母は実家に私を連れて帰っていたが、祖父母の従兄弟達も村の人達も、やさしかった。先に書いた野の遊びは、みんな従兄弟達としたものである。

 母も身体がおちついたところで洋裁を始め一日中、働きづめだった。

 そんな皆を見て、いつも「私一人のために、皆にこんなに苦労させていいのか知らん」と思っていた。重荷にもなっていた。私は私自身の存在を正当づけるためにも、「皆の役に立つ人間になりたい。それが私の生きていくべき道ではないか」と考えるようになっていた。

 正義感も人一倍強くなった。昭和十九年七月十六日生まれの私は、六十年安保を高校一年生の時にむかえた。愛媛という県で、おわかりの方も多いだろうが、勤評、実テの嵐がふきあれ、教師たちの心は、ズタズタに切りきざまれていた。それでも中に、「安保反対の集会に行ってくるよ」と、語りかけてくれる教師もいた。

 だんだん、高校生活になれてくるにつれて、そういう教師の方が、事なかれ主義の教師よりも授業の研究もよくしているし、高校生の本当の気持ちもつかんでいるという事が見えてきた。社会への関心も高まっていった。

 そういう中で、私は、「教師になりたい。真に、子どもの側に立った教師になりたい」と強く考えるようになっていた。

 私が、母一人子一人の家庭で、やがては母を養っていかねばならないという事情もあり、祖父母達(父方も母方も)は教育学部への進学を許してくれた。ただし県内の国立大ならという条件付きで。そういう経緯で愛媛大学に進学した私は、愛媛県内の教育界の反動的な動きを敏感に感じた。全国的な教育運動や実践にも関心を持たざるを得なかった。

 愛媛では、まともに教育の事を考え、研究しようとすると、県内では就職がむつかしくなるという矛盾が暗黙のうちにあった。私もそのことをおそれ、就職ができなければ「子どもの側に立った教師」にもなれないのだから…と何度も、自分の心の中に見えているもの、感じているものをおしつぶそうとした。しかし、そのたびに私の心の中には「私は、何かしなければならないんだから…それでないと爆死した父や育ててくれた皆にすまない」という思いがつきあげてきた。後から考えると、一人よがりな思いあがりだったのだろうと思う。でも、その頃は「自分が生きていることの意味、生かされていることの意味」というのを、青春ということもあって、つきつめて考えてみずには、いられなかった。

 それで、自治会の役員になりてがなかった時、ことわりきれなかった。また、指導教官も自分の納得のいく先生にお願いした。この事が私を愛媛の教育界からはじき出した。

 私は大阪に就職した。故郷である愛媛で就職できなかった事は残念だし、おかしいと思うが、それが当時の教育行政だった。その後少しずつ良くなったようだったが、今、又、社会情勢を反映していることと思う。

 大阪時代は、小学校の教師として、夢中で実践にはげんでいた。民教連主催の研究会に参加したり、ガリ刷りの学級通信発行、文学教育実践、水道方式の算数の研究、同世代の仲間達と「子ども達にいいのでは?」と思うことは、かたっぱしからやってみた。組合活動や教育サークル作りなどもした。

 私にとって、一番生き生きしていた頃ではないかと思う。

 その間に結婚もし、出産(二人の女児)もした。母との同居もかなうようになった。生活が大変だったけど、夫も大学院を卒業し、静岡大学へ仕事も決まった。私も、ついて来て、一年の産休補助教員を経て、静大附属幼稚園につとめるようになった。

 幼稚園勤務は、はじめての事で、とまどう事が多かった。しかし、子ども達はかわいらしく、又、独創的な教育方針を次々と立て、実践していく園なので、すぐに夢中になってしまった。四才児と五才児が相棒さんになって展開する入園児のたてわり保育。むりに画一的に同じ作業をさせないで一人一人の子どものやりたがっている活動にあわせて色々なものを用意してやる自由保育。子ども達の活動の一つ一つが新鮮で、又、理論づけの欲しいものであった。私は、できるだけの力をそそいで、先生方から学んだ。又、創り出した。楽しくて、むつかしくて、やりがいのある日々の連続であった。

 しかし、当然のことながら、クモ膜下出血でたおれてからは、今までとはまったく違った生活になってしまった。

〈つづく〉

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1981年に発行された「おおらかに 今日から 明日へ」に掲載された母のエッセイです。クモ膜下出血で倒れてから4年後、母が36歳の時に書かれたものです。

【当時のプロフィールより抜粋】

●障害名=脳動静脈奇形破裂(遠出は無理、あまりたっていられない。すぐ疲れる)●家族=母(58歳)、夫(36歳)、長女(11歳)、次女(8歳) ●仕事=無職 ●コメント=児童文化の会、同人等に属して、童話を書く勉強中。子ども達へのメッセージを送れたらと思い、個人誌「てのひらら」を発行、ささやかなもの。

#母の遺作 #エッセイ

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