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【母の遺作】私にとって"生きる"とは その2

〈その1からの続き〉

 左半身がマヒしたままだった状態は、三ヶ月間入院し、リハビリを続ける間に、少しずつ良くなってきた。左足首、左足のマヒをわずかに残すものになった。けれども、あまり歩けない。遠出もだめ。すぐ、フラフラする。

 運動はだめ。興奮するような事はさけなければだめ。毎日、薬を忘れないように飲まなければだめ。「だめ、だめ」で、がんじがらめにされた生活だ。(今までとあまりに違う。)

 何故かと言うと、私の病気は、「脳動静脈奇形破裂」というのだそうだ。それまでけいれんもなければ、自覚症状もなかったのだが、先天的なものだと主治医に言われた。手術をしなかったので、また、再出血するかもしれないといわれ、禁止事項がいろいろ提示されたわけだ。脳の断層写真で見ると、それまで自覚症状がなかったのがおかしいくらいの事だった。二人出産している事(自然分娩)を聞き、よけいおどろいていた。私にしてみれば今まで元気に走りまわっていたのだから、信じられないような話だった。

 しかし入院したすぐは、もっと良くなって職場に復帰したいという希望があったため、(できると思っていたのだ)比較的、明るく元気にしていられた。

 だが、再出血をすると危ないという事で、子ども達との生活が望めそうもなくなってから、だんだん変わってきた。

 いや、正確に言うと、そう宣言されてからも、私は童話を書くことで子ども達とのつながりを持とうとし、そちらに向けての努力を始めた。童話の勉強をもう一度やりなおす方向に歩み始めたことによって、私は、何か希望みたいなものを持ち始めたし、持とうとつとめた。

 しかし、一度、二度と、ケイレンなるものを初めて経験して、すごくおくびょうになった。実際、身体のふたんがすごく大きく、しばらく書くことも、読むこともひかえなければならなくなったから、病気とのつきあい方をおぼえねば、これからの生活に困るわけだ。でも、それ以上に失ったものが多いような気がする。私の持ち味の一つである「気力でやる」というのがどっかにいってしまったようだ。もっともケイレンなるものを経験して、得たものもある。一番大きいものは、健常者と、障害者というのは、紙一重であるという事が実感としてわかった事だ。

 ケイレンは、突然きた。少しつかれたなと思った瞬間だった。腕が、ガーッと後にひっぱられ、ねじくられた。頭の中は、アアーッという感じで、痛いのか、沈むような感じなのかわからない状態になった。立っていられなく、全身にふるえが一度にきた。歯はガチガチなる。一瞬、又、脳出血したかという思いがよぎった。しばらくして落ち着いてもやはり頭が痛い。救急車で病院に行き、注射をしてもらった後も体がしゃんとしない。

 その間に、家の前を通る養護学校の子ども達で、腕や足が曲がったりしている子のことを思い出す。彼らも、ほんのちょっとの何かのことで、症状が固定してしまったのだなと思う。

 私は、過労で脳出血したのだが、これからも、そういう人がいっぱいでると思う。おもいがけなく、人生の中で予期せぬことにであう人は多いだろう。心の問題を含めれば、もっともっと、そういう傾向は、今後増えていくだろう。

 そういうことを考えれば、私は、自分の体験を一つの糧として、何かを産み出さなければと思う。まだ私は、文を書けるし、読める。へただし、遅々として進まないけれど……と思う。

 しかし、実際の私は、すぐへたばり、泣きごとを言いたくなる。ほんの些細な事で、精神状態がかきみだされる。

 ケイレン後、身体が疲れやすく「おはなし会」もやれなくなり、「絵本を作る会」や、同人の集まり、講演会等、行けなくなったためだと思う。どんどん自分の住んでいる世界がせばめられてきて息苦しくなってきている。

 それが頂点にたっしたのは、この九月、休職期間が切れ、いよいよ退職となった時だ。

 私の場合、職場の尽力にもかかわらず、校務災害あつかいにはなっていなかった。だから、子ども二人産めたのだから校務災害として認められないのだろうかと問題がむしかえってきた。当時、職場の人数はすくない(八人)ところに、半数以上の移動があり、私の負担が過度だったと職場の上司は何度も書類を出してくれていた。しかし、疲労の度合いははかれないものだという事で認められなかった。

 私がいくら元気で走り回っていても、子ども二人産んでいても、病名が、「脳動静脈奇形破裂」ということであれば、そういうようにしか判断されなかったらしい。

 しかし、いざ退職という時に、もう一度、「あの時、校務災害が認められていたら(よかったのに)ねぇ」と言われた時は、すごく動揺した。つらかった。青春時代から、自立して生活できるようになりたい。母を養えるように、一生働こう。子ども達のためにできるだけのことができる人間になりたい。そんな事を考えていたのに、まるっきり逆になってしまったことが、あらためてくやしく思われた。そしてたおれた当時の事が、次々に思い出されて、どうしようもなくなった。

「あの時、バレーボールに出さえしなければこんな事には、ならなかっただろう」とか。

「あの時、〇〇先生に遠慮しないで、はじめの予定通り、応援だけにすればよかったのに」とか。次々と色んな考えがでてくる。

 考えても、どうしようもないこととわかっていて、いつの間にか、ふりだしに戻っている自分がイヤになる。自分の身体にあまる仕事をいつの間にか背おっていた自分自身もくやまれる。

「どうどうめぐりは、もうヤメ」と何度も自分に言いきかせたことだろう。でも、やっぱりたおれた時の事を考えてしまっている。

 私は部屋の壁に、自分をはげます言葉を紙に書いてはりつけた。自戒の言葉でもある。

「強く、やさしく、ほがらかに」

「作品は、生きるために書くことを 忘れるな!」

「人生は しんぼうすることのつみ重ねだと、かくごしよう。 生きるとは、しんぼうすることである」

 私が今のような状態を克服しないことには、新しい事が何も進まないだろう。

 私が「家族に迷惑をかけている」と言う意識を変えない以上、家族もかえってつらいだろう。もちろん、国際障害者年のテーマ〈障害者の完全なる社会参加と平等〉の精神にも反するだろう。

 私は、まず、この弱々しい精神をきたえ直したい。そして、障害者も健常者も共に同じ地球に生きる者として、その一人一人の生きざまを見つめたい。その生きる姿を、子ども達に伝えたい。それが今私にできる最大の社会参加だと思うから。病気とうまくつきあいながら、下手でも童話を書き続けたい。私の生きざまが何かを語れるように、私自身、もう一度、育て直したい。

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1981年に発行された「おおらかに 今日から 明日へ」に掲載された母のエッセイです。クモ膜下出血で倒れてから4年後、母が36歳の時に書かれたものです。

【当時のプロフィールより抜粋】

●障害名=脳動静脈奇形破裂(遠出は無理、あまりたっていられない。すぐ疲れる)●家族=母(58歳)、夫(36歳)、長女(11歳)、次女(8歳) ●仕事=無職 ●コメント=児童文化の会、同人等に属して、童話を書く勉強中。子ども達へのメッセージを送れたらと思い、個人誌「てのひらら」を発行、ささやかなもの。

#母の遺作 #エッセイ



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