僕たちを波が攫うまで
足元を伝うその響きがこだましてグルーヴになり身体を駆け巡る。
僕の中の何かを、そして胎児として生を受けた時のような感覚が僕の全てを覆う。
彼女は海が嫌いだった。その波と海風、波音や空気の全てにPTSDにも似たトラウマを抱えている。
僕は彼女を海に誘わない。いや、正確には誘えない。僕のルーツが海のない町で僕がその波音を欲していても穏やかな日々のアクセントとして求めても決して彼女には伝えることができない。
彼女の部屋の乱雑に置かれたCDRと漫画、ファッション誌は彼女の生活を表現していて僕に振り向いては無垢な儚い笑顔を見せる彼女が抱える全てを彼女は表現したことは今まで長い付き合いでも一度もない。僕はそれを断片的に知ることしかできないまま西陽の刺す6畳間で彼女に寄り添うことしかできない。彼女のその笑顔を眼球から受け取ると僕はその裏側に彼女が隠し切った苦しみと病みを受け取って苦しくなる。そして今日も僕は何にもしてあげられない自分を押し殺す。
カウンターカルチャーを生きる僕らはいつか消えそうな線香花火を毎日少しずつ燃やして突然その細い火は消えてしまったとしても燃やし尽くす。
その儚さを僕らは知っていて、いつかくる別れも悟っていてそれでいてその6畳間に寄り添う。
彼女との出会いはマイナーな漫画雑誌から珍しく映像化された実写映画だった。ニッチな作品だ。誰も知らないようなちょっとした青年誌。少しホラーで穏やかな空気が漂う空気のような作品だったと記憶している。映画化されたその作品は少しの映画館で短い期間上映された。彼女は映画の脇役として重要な役を演じていた。一目惚れだった。
彼女の表現の全てとその形のあり方が僕にはたまらなく美しく映った。結局僕以外の誰もが覚えていない彼女の表現を焼き付けたのは僕だけだった。身長も高くスタイルの良い彼女はそのショートヘアーを靡かせてこの町に今日も息づいている。
彼女の家は決して裕福でなく家庭環境は常に最悪だった。父親のDVと母親のヒステリックが彼女の精神をどれだけ複雑に拗らせたのかは想像するまでもない。
彼女は18の美しさが1番輝く頃海岸に出向いてそのギリギリアウトな写真を一枚1000円で撮らせて稼いだお金でアメリカへ飛んだ。それが彼女に何を及ぼしたのかは僕には理解しようがないけど、結局彼女はこの6畳間に戻ってきてしまった。彼女は何を得て何を失ったのか僕には見当もつかない。
二度と顔を合わせない母親と父親。撮らせた写真は死んでも残り続けるデジタルタトゥー。
彼女は海が嫌いだった。彼女は海風が嫌いだった。彼女は波音が嫌いだった。そんな彼女を抱きしめる勇気はなく今日も僕はそんな彼女を愛している。それだけの日々が続くと思っていた。
狭い6畳間が僕と彼女の全て、今は。
今だけ、今だけかな。
「安心な僕らは旅に出ようぜ」くるりの流れるその部屋で僕らはこの先何処へ進むんだろう。きっと全てのことは決まっていて決まっていない。きっとこの先は希望でいっぱいで絶望が僕と彼女を何度も襲う。何度も何度も僕らは間違えて間違えて失って手放してそれでもその火が消えてしまうまでに美しく咲き誇る。その醜さと歪さを抱えて呼吸をする。サイレースは8ミリ飲まないと効かない。マイスリーは4倍は飲まないと意味がない。アルコールとラッキーストライクが僕の中を巡る。HHCPを深く吸い込んで息を止める。
流れる流れる波のように。揺らぐ揺らぐ波のように。君が嫌いな海を僕は愛している。その歪さを愛している。君のことを心から愛している。その無垢で無機質な笑顔を愛している。
抱きしめさせてくれよ。健気に生き急がないで。あと少しでいい、少しでいいんだ。この6畳間の僕らを守りたい。僕は君の全てを愛している。
だから何処にも行かないで。
ずっと、ずっと。
僕は祈る。ひたすらに祈る。
彼女にもう一度海を。
もっと君の好きなものを僕に教えて。
君を教えて。君の全てを。
波が全てを攫ってしまう前に。