見出し画像

「ああ、可哀想に。」

「ああ、可哀想に。貴方は愛を知らずに生きてきたのでしょう?」
そう言って私を抱きしめた女を私は手にかけた。その細い首を締め上げると彼女は抵抗することもなく、物言わぬ人形に成り果てた。
その時、私は彼女に愛されていたことを理解した。二度と戻ってくることのない愛をこの両手に生ぬるく感じた。
そのあと、私は黙って手元の紺色のコートを手に取り、その場を去ることにした。私は店を出ると、寒空の下、薄暗い路地に出た。私は始発の山手線で帰る心づもりだった。
私が「私」に出会ったのはその時が最初で最後のことであった。
薄暗い路地を抜けた先に大通りがあり、真夜中の街は居場所を失った若者の楽園になっている。無数の活気だった若者の間をすり抜け、私は足早に駅へ向かっていた。
一人の若者がふいに私にぶつかってよろめいたその時、私は「あの言葉」を再び聞くことになった。
その言葉は、無数の人々で溢れかえるこの街の何処から聞こえたのかも分からぬものであった。ただ唯一私に理解できたのは、その声は見知ったあの女の声であったことだった。
「ああ、可哀想に。貴方は愛を知らずに生きてきたのでしょう?」
「貴方は愛を知らないから、愛され方も分からぬままに生きてゆくのでしょう?」
「貴方は愛を知らないから、愛を受け取ることも、確かめることもままならないのでしょう?」
「貴方は愛を知らないから、きっと貴方のその手で愛した人を殺めた時、ようやく理解するのでしょう」
私は聞きそびれていたのだ。あの女の言葉には続きがあった。私はまるで彼女の意のままであるかのようだった。
私は酷く眩暈がしたので、行先を変えることにした。人通りの少ない路地に入り、小さなバーで気持ちを落ち着けることにしたのだ。
私は愛した女を手にかけた時、何も動揺することはなかったというのに、その全てについて理解した途端に、とてつもなく気分が悪くなって仕方なかった。
私は寂れた客のいないバーを選び、ゆっくりと店に入ることにした。
私が扉を開け店内を見回すと、そこには一人の店員の姿さえなかった。ただ、店のバーカウンターの奥の離れた椅子に一人「私」が座っていた。
私はゆっくりと紺色のコートを脱ぎ「私」を抱きしめると、一言静かに呟いた。
「ああ、可哀想に。貴方は愛を知らずに生きてきたのでしょう?」 

いいなと思ったら応援しよう!