一事が万事
諺(ことわざ)は、同様の内容を扱っていながら意味が正反対だったり、適当なところもあるのだが、中には本質を突いているものもある。表題に挙げたものはその一例と思う。人間の行動は普通、その人の考えに基づくから、一つの人格の継続を前提とするなら行動に筋が通っているはずである。悪党は悪党であって、更生することは(不可能ではないのだろうけれども)かなり難しいと思う。
安倍晋三の最大の問題は、この悪事を厭わないことである。おそらく善悪の判断が壊れている。これでは政治がどうのと言う以前に人間的にアウトだ。安倍晋三が政治にかかわった時間は大いなる無駄であり、何かの間違いと言うしかない。まして、これらを継承した菅政権やこれから継承しようとしている岸田政権は「ファウル」である。我が国はいろいろな意味で凋落するばかりである。「人間的にアウトな輩が総理大臣を長く続けられるのか。」と言う反論があるとしても、多くの人を騙す能力は人並み以上にあるから紛らわしいと答える。
コロナ対応一つとっても、このことが当てはまる。特に東アジアにおいて日本よりも良い成績を残している国は多い。日本では、死ななくて良い多くの人が亡くなった。それは一言で言えば、判断に合理性を欠いているからだ。その結果、科学的知見を生かすことはかなわず、そのまま結果に現れる。ここらを評価する時に、成績の悪い方と比較してまだ増しであると評価する人があるが、意図的な詭弁に過ぎず、無駄の続きだ。嘘つきの廻りには嘘つきが集まる。現在の日本に続く嘘政権もしくはそれらの継続政権は何かの間違いである。
悪事は暴かれるべきである。悪事を暴くに当たり、あっちもこっちも憂慮すべき問題がたくさんあるのだが、表題の考えを持つならば、その検討の対象は一つあれば足りる。そこに全てが含まれているはずだ。それが「一事が万事」の意味するところだ。
某女性が、就活で某男性とサシで一献傾けた。これはやや危ない行動であった。本来は通常のルートでアプローチすべきだったと考えられる。この見込み違いが後々尾を引くことになるのは、予見的である。しかし、これが決定的にまずいかと言えば、そこまでは言えないだろう。
(1)女性は酔い潰れ意識を失い、気づいたら「性行為」の対象となっていたと言うのは事実だろう。
ここで、まず第一に指摘すべきは、(2)就活にあたって初対面の相手を前にして意識を失うまで呑んだら、それは失敗であることだ。また、アルコールは極度の一気飲みでもしない限りは、前後不覚になるまで、段階があると思われる。普通はそのタイミングで修正や対応を試みると思う。実際はその様にならなかったのだろう。急性アルコール中毒などが考えられる状態で、男性のすべき行動は介抱であって、先ずは帰宅させることが第一と考える。ところが、こちらもその様に進まなかった。男性はあろうことか、ホテルに連れ込んだ。宿泊が一人増えることについて、ホテルは状況を把握していたはずだ。男性には妻子があるとのことだから、そこらの倫理が良く分からない。常習なのだろうか。
一方、泥棒にも一分の理で、ここらの流れを美人局(つつもたせ)やハニートラップ的理解で済まそうと言う考えがある。よしんばそう言う行動を意図していたとしても、(3)嘔吐するまで泥酔した状態で、美人局・ハニートラップの目的を達しようとの考えは矛盾する。そこまで捨て身だとしたらそれは病的であり、そもそも会社として採用は危険である。
さて、女性は、高輪署に訴え逮捕状が用意されるまでに至ったのであるが、(4)実際にはその逮捕状は執行されなかった。世に発行されても執行されない逮捕状がどのくらいあるのだろう。裁判所が判断するのだから、執行したりしなかったりするのは、裁判所の信頼性に係わる。犯罪を握りつぶそうと言う事案があると言うことは、逆の冤罪もあり得ると言うことになる。それらを総称する日本語に「無法」がある。これは由々しき問題である。
直接握りつぶした当事者は中村格と言う人物で、後に警察庁長官となって警察官僚のトップを究める。さらに安倍政権は、賭け麻雀を常習する検察官を重用し悪事に備えた。
ソシオグラフと言うものがある。人間関係を図にしたものだ。山口敬之は「総理」という安倍晋三礼賛本をものしていた。その表紙に登場する安倍晋三肖像の背景は百科事典の収まった書架である。総理大臣は百科事典で勉強するのだろう。出版された書籍で、折角褒められても、礼賛本の著者が不祥事を起こしては、礼賛の意味が礼賛で無くなる。この安倍晋三起点のソシオグラフの力学的頂点はもちろん安倍晋三であるが、これらの関係では、倫理や正義、あるいは所有権、公共の福祉、身の安全、常識と言ったものはどこかに吹き飛び、個人的利益一色となる。その結果、これらの関係に悪事が紛れるのは必然である。その訳の分からない価値基準で山口はかなり上位に位置づけられた。裁判所の判断や、現場の刑事のそれ、個人の尊厳、身の安全は下位に押し下げられた。そして、ここに別の地平を持った平行世界が現れる。この価値基準が諸悪の動機として君臨する。もっとも、外国では恐い話も聞こえる。サウジでは某がなますにされ、ロシアでは毒が盛られる。政権に魔手(ましゅ)が及んでいると考える。ミャンマーの軍政や昔のカンボジア、あるいはルーマニア、ベラルーシ。世界を見渡すと、案外その数をかぞえられる位である。ただ、これらの状態の国々は場所や時代に寄って現れ、根絶することは難しい。山口が消されないのは優れて日本的なのか。
ここで、指摘しておきたいのは、普通の考えである。常識とも言う。常識は明文化されていなくても、世の判断の多くを担っている。常識が通用する場面の集積で世の中が動いて行く。青信号で交通が進む等のレベルであって、それは別に裁判所に判断を仰ぐ必要はない。魔手を及ばせる本人が、日本の政治を牛耳っている間の日本は暗黒の時代であり、日本人は不幸である。これを、打ち切りにしなければならない。政治家は事の大小をまちがえないでほしい。悪事は裁かれる対象として上位に位置する。
現在、日本国は官邸を筆頭に警察や省庁、それから多くのマスコミが抱き込まれている様子であるが、その魔手は選挙までには及んで居ないと考えたい。それらを投票率の低さが支えている関係だ。ここは是非、直近の総選挙で答えを出すべきである。
ことわざをもう一つ添えておきたい。
無理が通れば道理が引っ込む である。
そういえばこの「理(ことわり)」の凋落が甚だしい。道理をはじめとして総理や理財、理由、理念、理路、理解、理想、理論など、全滅である。
以下は2021年10月29日朝日新聞記事である。甘目に言えば、朝日新聞は何を寝ぼけているのだろうとなるが、「普通」に考えれば社会の公器としてあるまじき悪意が認められる。握りつぶす握力について触れてしかるべき。現政権は精算される必要がある一つの理由である。
参考 東京新聞https://www.tokyo-np.co.jp/article/32302 他
※ 敬称は付すべき人には自然と付されるものである。付すべき人には使用する。
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