許され許す はなし

(写真: 豊島「ささやきの森」にて)

それなりに色んなものが壊れて、日本は瀬戸内海に浮かぶ島々から戻ってきました。

こうやって人は、心の非常口をふさがれていくのだなあ、なんてぼーっと人ごとに思いました。そして、その通せんぼをするのは、意外に身内や近しい人だったりするのです。

ある島の夜、将来や生き方のことを旅の友たちに聞かれ、聞かれたから答えるという受身な対話をしてみたけれど、自分の中でも言葉にできないものがたくさんあるのに、ましてやそれを人に伝えきるなんてできなくて。

話していても次元が違いすぎて、そういう話をしてるんじゃないの、と言われるものの、本人にとってはそういう話なのだ。失敗したくないんだろうけど既に失敗してるから、と言われても、失敗したくないという願望はもういつだったか思い出せないくらい前に既に失っているので前提がそもそも間違っている。そしてそれがわかってもらえないもどかしさ。

各国政府が未来の国際平和へのビジョンを語り合っても、紛争地域にいる市民にとっては今日生きられるかどうかの問題、というのと似ているジレンマ。無論、これこそ次元が違うけれど。

全く出口が見つからない問答の末に言えたのは、毎日ただ生きるのに精一杯だということ。それに対する友たちの答えは、それは言い訳にしか聞こえないということ。そうか、日々ただ生きることが辛かろう苦しかろうがこれは自分の言い訳なんだ、と一度思い始めると、こうやって、自分の悩みや痛みが無意味と判断されることで逃げ場を失って、もう楽になりたいと思った先には何があるのだろうと考えてしまう。

人はみんな違ってみんな良いので、それぞれがひっそり抱える事情は時に未知数です。どんなに親しくなっても、相手の舞台裏を完全攻略するのは難しいからこそ、自分は相手が抱えているかもしれない何か大きなものを知らないという意識は大切にしたいし、その意識の欠如から飛び出てくる言葉はちょっとしまっておけたら、世界はもう少し気持ちよくなると思う。そして多くの場合、その言葉は誰かの善意から生まれているという悲しいパラドックス。

この日の話を何度思い返してみても、やっぱり私は納得できないし、あなたは間違っていると断言したくさえなる。だけど、納得できないという気持ちは覚えておいて、言葉は静かにしまっておく。そして祈る。
"As I was forgiven, I forgive you."

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