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「世界トップクラスの野球選手たちと互いに実力を認め合い、お互いに果てしなく高め合い続けている自分」のアファメーション

あなたは、

「スポーツの本質って、何なんだろう?」

と考えてみたことはあるだろうか。

私は、スポーツとは以下のような意味を持つものであると思っている。


「どんなスポーツも、自分一人だけではできない」という意味…宇宙に自分一人しかいない状態でやるスポーツは虚しいだけ。自分以外の他者がいるからこそスポーツは楽しい。たとえ個人競技に見えるスポーツでもこれは同様。他者の目、他者との関係性があるからこそ、スポーツはスポーツたり得る。

「定められたルールを守って行うものがスポーツである」という意味…「ルールを定めて、みんなでそれに従う」という縛りがあるからこそ、スポーツは成り立つ。みんながルールを無視して好き勝手にやるのであれば、それはスポーツにならない。スポーツは「みんなで一緒のルールを守りながら行う遊び」である。ルールを守れない人はグラウンドに立ってはいけない。みんなでこれに従おうと定めたルールを踏みにじる人に、スポーツをやる資格はない。

競技を通じて、自分以外の他者と「互いに認め合い、高め合う」というプラスの関係を築く、という意味…人間が成長するのは、「自分自身の内面との対話」と「自分以外の他者という刺激」、この2つによる。自分自身だけ見ていても成長はすぐ止まるし、他者ばかり見ていて自省を疎かにしてもやはり成長はすぐに止まる。「自分を深く見つめる」とともに「他者と刺激し合い、高め合う」ことが必要であり、スポーツを通じてこの両者のバランスをとることを覚える、という意味がある

本来、スポーツには「実利」はない。しかし、実利に欠けるがゆえに価値がある…という意味。工業製品を作ったり、農作物を育てたり、医療を施したりすることは「実利=社会的にどうしても必要なこと」になる。しかしこれらのものとは違って、スポーツがなくても世界は回る。スポーツが無くても人類は生きていける。スポーツが無くても世界は回る…のだが、スポーツのない世界は何と味気なくなってしまうことだろうか。芸術や音楽と同じで、スポーツには「実利がないからこそ、価値が生まれる」という側面がある。

スポーツは、縛りの多い「物理空間」でやるものである、という意味。物理空間には「物理法則という縛り」が実に多い。頭の中では人間は生身で空を飛べるが、物理空間ではそれができない。肉体的な限界というものがどうしても付いて回る。ここで「物理空間は縛りがあるからつまらない」と考えるか、「物理空間は縛りがあるからこそ面白い」と考えるか。前者を選んでもいいし、後者を選んでもいい。スポーツをやるのなら、後者を選ぶべきだと思う。生身の肉体の限界、生物学的な限界という物理的な縛りがあるからこそ、それにチャレンジする価値がある。物理的な限界に直面したくないのであれば、ずっと空想の世界で遊んでいればいい(そういう夢想的な生き方も良いと私は考える)。


このうち、今回扱うのは③…「自分以外の他者と互いに認め合い、高め合う」というものだ。他者というのは思い通りに動かないものだ。

しかし、逆に考えれば、他者という不確定要素だらけの存在があるからこそ、「予測が付かないランダム性」が生まれるのではないだろうか。すべてが自分の思い通りになる世界は、逆につまらないのではないだろうか? 


野球という競技をやるにあたっても、一番の喜びはそこにあると思う。

予測が付かないランダム性を内包した「自分以外の他者」が実際に存在していること。自分には考えもつかなかった発想をする他者が存在すること。自分だけでは決してたどり着けない高い境地に至っている先行者が存在すること。

それらの他者と互いに交流しあい、認め合い、高め合うこと。他者と相互に影響し合いながら、どこまでも高い境地へと昇っていくこと。

これが野球をやる一つの究極の目的だと私は思う。


前置きが長くなったが、今回紹介するのはまさにこの「他者とどこまでも高め合う」という境地を描いたアファメーションだ。

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