確かにね、人生を劇的に変えたいならさ。
そのアクセル、ぐっと踏んでみてもいいのかもね。
わかる、わかります経験あります。
青から黄色に変わっちゃって、でもギリ間に合うかも?なんて思ってアクセル踏み込んでぶーん!って。
で、間に合ったときってなんかやけに得した感じがするというか、特別任務を無事に遂行した気分というか、独特の達成感や爽快感があるっていうか。
そこまでじゃなくても、ラッキー、みたいな。
まぁ、私はいつだって助手席なんですけど、それでもそんなふうに思っちゃうんだから、実際にハンドル握ってたら余計に思ったりするんじゃないかな。
でもさ、冷静になって考えるとさ、たぶんたった数分なんだよね、得したとしても。
開かずの踏み切りとか、そういう特殊な場所がやたらめったらあるわけじゃなし。
普段の生活での無駄な時間かき集めたら、そっちの方がよっぽど多いと思う。
実際の得や損よりも何倍にもなって、1つひとつの行動が良くも悪くも感情を揺さぶってくる。
それが、車を運転するということの便利の裏に見え隠れする黒い部分なのかなと思います。
その証明として、煽り運転とか危ない運転をしちゃう人がいるし、運転席に座ると人が変わったりする人もいるし。
ギリの信号でアクセル踏むって、
実際の利益に見合わないような快感を得られるという謎の現象があって、しかもそれだけじゃなくて、さらにそれ以上に結構な危険が潜んでいるっていうむしろびっくりするほどな不利益が潜んでいるかもしれないってことなんですよね。確率は低いとはいえ。
たった数分を我慢して、変わらぬその先の日常を手に入れるか。
我慢出来ずに無理に渡ろうとして、不運なことに事故を起こして、人生が劇的に変わってしまうか。
この場合、自分だけでなく家族や相手、相手の家族の人生まで大きく変えてしまうという最悪な展開が待ちうけている。
そんなことは微塵も想像しないで、目先の微々たる利益のためにアクセルを踏み込んでいるんだろうな。
かの有名な「だろう運転」。
なんで急にこんなことを考えたのかというと、
今の家の目の前に信号があって、わりと開けた交差点で道路も広いからか、ギリでアクセル踏む音が当たり前のようにバンバン聞こえてくるからなんです。
少し田舎で、人が少ないから実際の事故も少ないだけ。だから暗黙の了解というか、そういう空気感。それがすごくいたたまれなくて。
人が少なきゃいいの?動動はいいの?動物が亡くなってもそれは死亡事故じゃないからいいの?
この10ヶ月で何度見たかわからない、見たくない。
だから一度、少し冷静になって考えてほしい。人に言うからには、もちろん私も。
ふん、どの立場でそんなことを。って思う人がいるかもしれないし、自分で自分にも思ったりする。
でもここならいいかなって、noteならいいかなって。
どうにもならないことかもしれないのだけど、一人で心の中で叫び続けるのが少しおっくうに感じてきたので、誰かに届くはずと思って書きました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
余談ですが、
引っ越してきてすぐ「わー、信号見えるじゃん、光入ってくるじゃんまじかよ」ってげんなりだったんですけど、数ヶ月経てば慣れます。音や光に敏感な私でも慣れました。
距離的には50m先くらいです。もし物件で信号が気になって迷ってるって人がいたら、生活の中で視界に入っても50m離れればもしかしたら大丈夫かもしれません。