ムーンライト・メロウ
夕紅とレモン味 ークラン・ドゥイユー
行き合いの空に少しだけ、欠けた月が夜空に浮かんでいた。ほとんどまるいかたちをしたそれは満月と言っていいのかもしれない。
ふと手元に視線を落とす。ティーカップに注がれた紅茶が月明かりに照らされてもなお、夕空を閉じ込めたような橙色に輝いていた。沈殿した茶葉が濃い色層となって、いっそうどこかの夕暮れ時の風景に見える。
そっと、華奢な取っ手をつまんで、カップを口に運ぶ。鼻孔からいつもどおりの芳潤な、でもどこかほのかに爽やかな香りがほろびでる。静かに息をすうと、森林の香りと夜風にかき混ぜられて、不思議と心地好かった。
テーブルには、カップとお揃いの小さな花があしらわれた皿に小ぶりなまるいクッキーが並べられていた。ほんのり黄色に染まったそれはなに味だろうか。すると、それを挟んだ向こう側、ソーサーの上にかちり、と音を立てて、もうひとつのカップが置かれた。視線を跳ねさせると、彼が柔らかい笑みでこちらを見ていた。
ロマンスグレーの髪が少しだけ、風に揺れる。彼はクッキーをひとつ口に運び、もう一度紅茶をふくむ。そして、月を仰ぎ見た。
「綺麗ですね」
テノールの声が森閑のなかに響く。はい、と答えながら、ずっと彼の横顔を見ていた。あの日から少しも変わらない、優しい皺の奥にある閑かな瞳の横顔。
***
藍色の空に誰かがふざけて切りつけたみたいな白く細い月が浮かんでいた。よく見なければきっと誰にも見つけてもらえないような、小さな夜空の傷痕。まるで私の心みたいだ、とぼんやりしながら月を見つめて歩いていたあの日、彼に出逢った。
森の奥、ぽつんと開けた土地にその家はあった。月明かりはまるでスポットライトみたいにテラス全体を降り注ぐ光で彩る。そこに一組のテーブルセットがあり、スーツを着た紳士が足を組んで座っていた。手元のティーカップが、傾いて夕日のような紅茶の色を覗かせている。ぼんやりと見惚れるようにその様子をながめていると、ふいに紳士と目が合った。
「こんばんは」
静寂のなかに落ちた声の響きがあまりに綺麗だった。ので、こんばんは、と返すのに少しだけ、不自然な時間ができてしまった。ご一緒にどうですか? と彼は微笑んで言った。断る理由を持ち合わせていなかった私は素直に彼の言葉に従ったのだ。
おそるおそる椅子に座ると、目の前に紅茶の注がれたカップを差し出される。ソーサーの上にちょこんとフィナンシェが置かれている。彼は薄く笑みを浮かべたまま、召し上がれ、と柔らかに促した。紅茶はあたたかく、フィナンシェは口のなかで甘くとろけて、身体の芯からほぐれていくのを感じる。すると、彼が夜空を仰ぎ見ながらぽつりとつぶやいた。
「繊月、ですね」
え、と声にならない吐息が漏れる。
「細い月のことですよ。見ていらしたでしょう? 私はここまで細いとさすがに眼鏡がないと見えない。視力が良いのですね」
それしか取り柄がないものですから、と自分でも卑屈なことを言ってしまい、後悔が押し寄せる。俯いた先にある紅茶の水面に歪な顔の自分が映って、静かに熱が冷めていく気がした。森のどこかで、鳥の鳴き声がきこえる。
「少し、思い出話をしてもよろしいですか?」
跳ね返るように視線を上げると、私は小さく頷いた。彼はゆっくりと微笑んで、それから初恋の苦い思い出話を語った。語り口は子守唄のように穏やかで、ほのかに笑い皺を滲ませているのに、瞳は寂しげに月明かりを掻き消して翳っていた。その表情に、どうしようもなく惹かれる自分がいた。
話し終えると、彼は聞いてくれたことへの感謝を述べて、一拍、考えるような沈黙を置いてから、よろしかったら、と前置きした。そして、月を仰ぎ見てつぶやく。
「月が肥えていく間、このテラスで会いませんか?」
***
その約束から一か月。もうそろそろ、月は完全にぷっくりと肥えてしまう。
彼は今日も相変わらず隙のないスーツ姿で、でも人となりが垣間見えるような朗らかな思い出話ばかりをした。
そういえば、彼がだらしない服を着ているのを見たことがない。いつもぱりっとしたシャツに落ち着いた色のジャケットを羽織っていて、たまにお茶目にシルクハットを被っていたりする。(その時はどうですか、とおどけたように訊いてくる顔が可愛らしくもあった)
その風貌と彼が語る思い出は人生の教訓のようなものに思えていたため、私は彼を先生と呼んでいる。そう呼ぶ許可を得たとき彼は、なんだか照れますね。とはにかんで照れくさそうに頭を掻いていたのを今でも鮮明に思い浮かべられる。
彼に気づかれないよう小さくほほえみながら、手のなかのカップが冷めてしまう前に、ゆっくりと風味を楽しんでから飲み干す。
「お注ぎしましょう」
そう言って彼はティーポットを馴れた手つきで操り、私のカップに注いでくれる。
空のカップに落ちた一雫が、跳ねる。
とぽとぽ、と注がれる音がこの逢瀬の終わりを告げているようで、怖かった。小説を読んでいるときの、ページを捲るたびに最後を意識せざるをえない心許なさ。その胸が締めつけられる感覚に似ている。
弧を描いて、橙色の液体が夜闇を薄く切り裂く。
この夜が、一生終わらなければいいのに。
溢れる想いが、満たされたカップの液体を刹那的に紅く染めた。肥えていたのは、私のなかの恋心だったのかもしれない。
なにげなく、クッキーを手のなかでころがして、かりっ、と一齧りする。すっぱくて、少しだけ、ほろ苦い。檸檬の味がした。
せんせい、とつぶやくと、彼はおだやかにこちらを振り向いた。椅子を彼の方に引き寄せ、身を寄せて、掌にあるそれを月に翳す。
「まだ、三日月です。ずっと、三日月です」
食べ掛けのクッキーが三日月型に月を覆っていた。歯形にくりぬかれた部分から、月明かりが煌々と私たちを照す。
口のなかではまだ檸檬の余韻が残っている。それがほろ苦いものにならないように、と願いながら、彼の答えを待った。困ったな、と小さく戸惑ったような声が漏れる。苦味が、押し寄せてくる。
「私も、貴女に話したいことがまだたくさんあるのです」
跳ねるように向けた視線を受け止めて、彼がクッキーを齧る。そうしてできた三日月を私と同じように月に翳した。
「これでもう、期限はなしですね」
優しい皺が口元に注がれる。甘い香りと紅茶の残り香が夜風に触れて、少しだけ、溢れだす。