【改稿版】カレーの事情《3》「僕とカレー(真実編)」
それから中学をなんとか卒業し、高校に入学すると、僕は髪色も少し明るくして、一人称も「俺」と言い換えて、別人のように振る舞おうとした。けれどやっぱり思うようにはいかなくて、発作を起こして倒れてしまった時に、竹本と出会った。その繋がりで梅沢とも仲良くなり、今では気の置けない友達として共に学校生活を過ごしている。けれど、竹本たちには過去のことは話せないでいた。なんとなく、あの頃の惨めで情けない自分を、犯してしまった罪を、知られてしまうのが怖かったのだ。
*
そして、迎えた今日。2016年2月7日。放課後、僕たちはぼちぼちと掃除をこなしながら教室の隅で談笑していた。
「バシュッ、バァン!って」
梅沢が顔面にボールが当たった僕の真似をして笑う。一限目が終わってからずっとネタにされ、周りにも笑われるし、僕は恥ずかしくてたまらなかった。その真似がまたリアルで上手いから余計に腹が立つ。耐えかねて僕は梅沢を制止しつつ声を荒げた。
「もういいって!」
「だって面白いんだもん。試合出てないのに顔面って……」
梅沢は吹き出してまた笑い転げた。竹本は無表情でその様子を見ているが、微かに口角がぴくぴくしているのがわかる。
「誰かゴミ捨て行ってきてー」
クラスの女子の大声が聞こえ、それに託けて僕は「俺が行く」とゴミ袋を手に教室を出る。
「あ、広すねんなよ」
梅沢が背後から言ってきたが、無視して廊下を大股で歩いた。二年生の教室階の廊下を抜けて、端にある階段を下りる。ふと痛みが蘇ってきて、打ち消すように額をさすった。
ボールが迫ってきたあの瞬間、殴打の痛みを思い出し、少しだけ心臓が縮み上がった。もうほとんど直ったと思っていたのに、またこんな小さなところで躓くなんて。
もう学校の校舎の中でフラッシュバックが起きることはなくなった。暴力的な場面ではまだあの日のことを思い出してダメになってしまうけれど、それも滅多に遭遇するものではないし、大丈夫だと思っていたのに。
気持ちに影が差してしまっていることに気付いて、思考を振り払う。大丈夫だ。言い聞かせるように心の中でつぶやきながら、一歩一歩階段を降りていたその時。背後から能天気な声が聞こえてきた。
「広!」
真ん中あたりまで下りたところで不機嫌な顔で振り返ると、予想外の状況に思わず目を見開いた。梅沢がスーパーマンみたいな恰好で宙を飛んでいたのだ。そのまま前のめりに飛んできて、影が被さる。梅沢の身体が迫ってくる。勢いのまま僕の体は押し倒され、景色がひっくり返った。
上手く受け身を取れずに脇腹を強かに打って、頬を地面にぶつける。鈍い痛みが瞬間的にあの日の記憶を引っ張り出す。記憶の海に沈みそうになった時、引き止めるように肩を掴まれて、僕は我に返った。
「広、大丈夫? 怪我ない?」
呼び掛けられたその声はやけに頼もしくて、支えてくれている腕は思いの外がっしりとしていた。梅沢にもこんな男らしい面があるのかと少し驚きつつも、まだ過去の記憶の余韻に引っ張られて、上手く反応できない。見透かされたくなくて、思わず顔を背けてしまった。
「大丈夫。ゴミ出し行かなきゃいけないから」
素っ気なく言って、逃げるようにその場から立ち去った。とにかくどこか人のいないところで気持ちを落ち着けようと、階段を下りる足が早くなる。校舎を出て渡り廊下を抜け、体育倉庫の裏に向かおうとしたその時、人の気配に気付いて立ち止まる。陰に隠れてそっと様子を窺ってみると、一人の男子生徒を囲んで大きなガラの悪い三人が立っていた。会話はよく聞こえないが、これはまずいパターンな気がする。押し込めようとした過去の記憶が再び浮かびってきて、数秒思考が停止する。動悸がひどくなってきて危険を感じ、その場を離れようとしたその時だった。不良の怒声がひとつ、耳に飛び込んでくる。
「―と、三田ぁ!!」
トミタ?
その瞬間、堰を切ったようにあの日の光景が脳裏に次々と映し出された。襲いかかってくる不良の怒声。立ち向かう富田。暗闇の中に横たわる、彼の姿。どくん、どくんと心臓の音が耳に響く。不安が、押し寄せる。
富田が、死んでしまう。
それからは自然と体が動いていた。助けなきゃ、助けなきゃ。そればかりが頭の中をぐるぐると回って、無我夢中で彼らに迫って、不良を周りから振り払った。不良たちは最初は狼狽えていたものの、すぐに苛立った表情を露にし、僕を睨んできた。上から下まで睨め回した後、唸るような低い声でつぶやく。
「なんだテメェ?」
三人同時に詰め寄られて、冷や汗が止まらなくなる。
「怪我したくなかったらさっさと失せろ」
その言葉にあの日の光景がリンクする。視界が暗くなり、痛みが、恐怖が体を蝕んでいった。膝が笑い、足がすくむ。だが、負けてはいけない。今度こそ、今度こそ! グッと拳を握りしめ、全身に力を入れた。
「わかった。まずお前から始末してやるよ」
そう言った次の瞬間、重い拳が頬を直撃する。勢いで吹っ飛ばされ、地面に倒れた。視界にノイズが走り、不良の後ろが完全な夜の闇に変わる。
「ほら、立てよ」
不良の一人が髪を鷲掴みにして、僕を無理やり立ち上がらせた。そして、頬を思い切りぶん殴られ、また地面に転がった。目の前に数本の髪の毛がゆっくりと落ちてくる。地面に真っ赤な液体が零れる。追い打ちをかけるように四方から足が飛んできた。腹や背中に鈍い痛みが広がっていく。地獄の時間が長く続く。顔面を汚い靴底が舐めるように這っていった。大量に血が地面に落ちた。鼻が焼けるように熱い。恐怖に身が固くなる。それでも容赦なく襟首を掴まれ、立ち上がらせる。
動悸はとうに激しさを増していて、うまく呼吸ができなかった。頭がくらくらする。それでも容赦なく攻撃は続く。顔を殴りそして、腹をおもいきり蹴られた。息が止まり、地面に膝をつく。吐息とともに、胸の奥から吐き気が這いあがってくる。
嫌だ。
口の中からドロッとした茶色い固まりが溢れ出してきた。カレー、だった。
嫌だ、嫌だ。
気持ちとは反対に溢れ出してくる。無力だった感覚が蘇ってくる。
僕は何もできない。彼を救えない。
涙が一粒、吐瀉物の上に落ちた。その一滴は、茶色い海を一瞬だけ黄金色に変えた。違う。今度こそ、救うんだ!
富田、助けなきゃ。
無理やり体を立ち上がらせ、倉庫の壁に縋りついた。またノイズが入る。景色は暗闇と夕暮れのオレンジを交互に見せる。いつの間にかかなりの時間が経ってしまっていた。急がないと。逸る気持ちに足がついていかず、何度も転んだ。そのたびにノイズは強くなり、過去の恐怖が余計に力を入らなくさせた。
やっとのことで渡り廊下にたどり着くと、柱や柵を伝って、校舎の中に入った。もうすぐだ。安心したからか目眩がひどくなる。廊下の壁に縋りつき、なんとか自分を保って前に進む。途端、景色がぐるぐると回りだし、黒とオレンジのマーブルを作り出した。
ダメだ。富田を助けないと。保健室にたどり着かないと。
そう思った瞬間、回る視界の中に保健室の文字が見えた。
あった。
衝動的に体が動き、流動する視界ともとに体がその場にくずおれる。だが、視界の上の方で保健室という文字が湾曲しながら存在を露わにしていた。その文字に手を伸ばし、掠れた声でつぶやく。
「富、田……」
次の瞬間、ゴッと鈍い音とともに意識が消失した。
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