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芸術・アートからSNS写真について考える(村上隆氏「芸術起業論」)・後半
村上隆氏の「芸術起業論」(幻冬舎)という本をやっと読み終えました。
前回、1章と2章を取り上げましたが、今回その続きであり、やはり大変面白かったので、特にハッとした箇所を引用したいと思います。
興味のある方は、実際の本を購入して読んでいただきたいです。
今回も引用がメインです。
写真について考えさせられることが多いです。
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「ムラカミさん、今日、どうおもいましたか」
「残念でした」
「いや、そうじゃなくて、岡田斗司夫をどう思いましたか」
「口説けませんでしたね」
「・・・・はぁ。
そこまでしかわからん男やな、あんたは。
あのスピーチは岡田斗司夫のプレゼンの中でも最高のものだ。
なぜ、あんたなんかのために、あそこまで言ってくれるのか。
そこまで岡田斗司夫がやりたいと言うなら脈ありなのだろうし、これはやっぱり海洋堂としてやるべき事業なのだろう。
村上 隆 著
幻冬舎
作品を意味づけるために芸術の世界でやることは、決まっています。
世界共通のルールというものがあるのです。
「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」
これだけです。
ぼくは構図がバラバラなら口を出します。
「こう並べてみたら?」
「この空間が空いているけど、どんな設定だったっけ?」
質問や相談を通して作品のテーマを作りあげていくみたいなところがあります。
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日本人の説明は真面目一辺倒でつまらなくなりがちですが、ものを伝えることは娯楽だと割りきらなければなりません。
ひきだしを知らずに作られた芸術作品は、
「個人のものすごく小さな体験をもとにした、おもしろくも何ともない小ちゃい経験則のドラマ」
にしかなりません。
小さな浪花節の世界です。
もちろん西洋美術史や日本美術史の授業はありましたが、「作品制作のためのデータベースとして歴史を使う」という方法は教わりませんでした。
日本の芸術の世界で、歴史は「使うもの」ではありませんでしたが、漫画の世界では既にこれは実現していました。
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予備校で毎日デッサンを描いている人なら、平面構成をした後に、
「いいと言われたもの」
「悪いと言われたもの」
「自分の好きなもの」
を並べて見るだけでわかるのです。
自分を探さなければならない歴史が、まずわかります。
ぼくは宮崎駿さんを目指してものを作ってきました。高校生の頃から彼こそが天才だと思っていたのですが、知れば知るほど宮崎さんは努力型の人物なのだとわかるようになりました。
ウォーホールの作品は、感動も呼ばないし、インテリジェンスもありません。むしろ感動を呼ばないように最新の注意を払っていたりする。
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表現を続けられるかどうかはもしかしたら「怒りがあるかどうか」が関係しているのかもしれない、と感じています。
「作品のために何でもする」という正義があるかどうかで、結果は変わると思うのです。
簡単に言えば、ルーティーンに陥る作品はだめになる、ということです。
水温を二十八度以上に上げ続けなければダルマメダカはできないんですね。ダルマメダカを才能と呼ぶのならば、人間の天才を作り上げるのお、遺伝子だけでなく、「それ相当の環境がいる」のかもしれません。「水道を二十八度にあげる」は例えば、
「水道を28度にあげる」は・・・・
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ゼロからものを考える時に、きっかけとなるのはどういうことかと言いますと、
「最近どういう楽しいことがあったのか」
「最近どういう悲しいことがあったのか」
そういうことに尽きます。ごく単純なことです。
何かを感じるに至るまでは過去から培われた根拠があるはずです。
表現者なら「楽しさを感じた理由」「悲しさを感じた理由」まで遡るべきです。
ぼくの仕事場は田舎にポツンと立つプレハブ小屋群です。
華やかな世界とは無縁のまま、朝早くから夜遅くまでコツコツした単純作業が休日なしで延々と続いている状態です。
最初はそんな仕事場を笑いながら見ている志願者たちもそれが本当に延々と春夏秋冬と続いていくと洒落では済まなくなりますから、ある日、突然、スッと消えていたりします。
アメリカにおける「フェア」はフランスでは通用しませんでした。約束が約束でない局面に立たされ、NOと言われ、過去の芸術の都の栄光がぶらさがっていて、英語が嫌いでアメリカが嫌いで、だけどアメリカでヒットしているものはイヤイヤながら認めているという複雑さ
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つまりメジャーになると終わりがあるということです。
否定や批判が来ないと、「今」という時代にぴったり合いすぎていることになります。
それでは未来は作れません。極端なこともやって、批判も含めて包みこむような大きな作品にしないと、表現の現場、例えば美術館などは沸かないんですよね。
芸術作品は人の心を動かしてはじめて成立します。
だから、ぼくにとっては、「賛否両論」というのが、コミュニケーションのポイントになるのです。
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前半はどちらかというと、写真を視覚よりも知覚で考えることに衝撃を受けました。
見た目ばっかり重視しても深い写真にはならないよと言われているようで、ギクッとしました。
後半はそういう観点ではなくて、村上隆という人がいかに手を動かしたか、いかに戦略を練っていったか、ということが大きな励みとなっています。
前半はこちらです。