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月記(2022.04)

4月のはなし。






§. 『アイドライゼーション・ポイント』感想(未完)

横浜市民ギャラリーあざみ野にて開催された、「アイドル」をテーマに開催された美術展『アイドライゼーション・ポイント』に滑り込んだ。すごかった。会期末の土曜日に訪問したのだが、あまりの情報量と面白さにあてられてしまい、つい翌日も立ち寄ってしまった。

開催概要については前掲したツイートから一連のスレッドを参照頂きたい。「美術展」とひとくちにいってもその参加者・作品スタイルは多岐にわたっている。いわゆる「美術家」だけでなく、アイドル運営スタッフやライターなど様々。そして面白いのは、このグループは明確なゴールを設定して集められたわけではないということだ。たった四文字、「アイドル」というテーマに基づく作品を発表する、それだけがこのグループの共通認識だ。同じスタートラインには集まったが、その先のルートもフォームも自由なのだ。

作品ごとに感想は様々あるが、見出しに堂々と「(未完)」と書かせて頂いたとおり、納得できる形でまとまったものはほとんど用意できていない。月記に載せる出来事のひとつとして、ということでご容赦頂きたい。ここではふたつの作品について簡単に紹介する。


ひとつめに、岡田未知さんの作品『《Rhythm 48》』だ。

前掲した僕のツイートとスレッドを参照頂きたい。参加型の作品、かつ見た目も印象的であり、ハッシュタグ上でもこの作品に触れたツイートが多かった印象がある。

この作品の概要が公表されたとき、真っ先に『《Rhythm 0》』が頭をよぎった。とはいっても、そういう作品があったなぁ?程度の知識であり、作者名も作品名もgoogle先生に訊くまで思い出せなかったくらいだ。ちなみに『48』という数字がAKB48グループと通ずるということには、現地でやっと気付いた。あとは『PRODUCE 101』については、たしか「応援広告」について簡単に調べていたときになんとなく知った。この作品を前にしたとき、こんな感じのぼんやりとした知識たちが引っ張り出され、新たな意味の形として結びつこうとするような感覚がした。

会場で配布された資料を参照すると、『《Rhythm 48》』は大きくふたつの文脈をもっている。『《Rhythm 0》』で例示されている「現代アート」の文脈と、『PRODUCE 101』で例示されている「アイドル」の文脈である。資料には、それぞれの文脈をもう一方の文脈の「ヲタク」に対して「布教」する文が掲載されている。先ほど、どちらの象徴もぼんやりと把握していたことを得意げに書いた。僕はおそらく「アイドルヲタク」側なのだが、真っ先に思ついたのは『《Rhythm 0》』だった。「アイドルヲタク」として『《Rhythm 0》』の紹介文を読む、すこし不思議な気持ちだった。

いち「アイドルヲタク」4年生として思いついたことなのだが、『PRODUCE 101』で例示されている「アイドル」という言葉を、「現代アイドル」と言い換えてみたらどうだろうか、と。
これは「現代アート」という言葉とも関係する。「現代アートヲタク」ではない僕からすると、「現代アート」と「アート」は何故使い分けられるのだろう、という素朴な疑問が浮かぶ。見聞きする限りでは、「現代」という枕詞が示すように、これまでの「アート」の歴史や潮流を踏まえたうえで、そこに比する「現代」を表現しようとするものを「現代アート」と言う、という漠然とした認識をもっている。
ならば「アイドル」はどうだろうか?「アイドルヲタク」4年生からすると、『PRODUCE 101』のようなサバイバルオーディション番組という仕組みをもつ「アイドル」は、「現代」っぽいものに見える。もちろん、日本史の範囲内に限っても、平成初期には『ASAYAN』があり、さらに遡れば『スター誕生!』など類似したものが思い当たる。「現代アイドル」を浮かび上がらせるためには、これらの日本史をもっと理解する必要があるのだが、こうした道のりはそれこそ「現代アート」が辿ってきたそれと似ているのかもしれない。そうだとすれば、それなりに辿る面白みはありそうだ。人生で初めて赤点をとったのは歴史のテストだったが、昔の教科書でも引っ張り出してこようか。

僕の勉強不足ですねぇ~というお話である。これは感想なのだろうか?こういうものをもう少しシュッとまとめることを目指して、月記をはじめたのではなかったか?前掲したツイートと大きく変わらないような気がしてきた。ただ、先月分から締め切りを破り過ぎて、僕の心の中の編集さんが荒れ狂っているので、「(未完)」という言い訳に頼って、いったん失敬させていただく。ドヒューン


ふたつめ、アイドル批評誌『かいわい』について。

二つの文章が納められた「コピー本」が配布されているのだが、これは『【アイドルのCD1枚】と物々交換で入手』することができる。そうでない場合は、会場内の資料からデジタルデータをダウンロードすることができる。この『物々交換』はツイートにもあるとおり、『アイドル現場』においてしばしば発生する特徴的なムーブだ。一方でデジタルデータについては、会場を訪れるというコストを除けば、ノーコストでダウンロードできるものだ。このデジタルデータの扱いは、まるで『現場』を訪れた際、新たなアイドル情報を教わり、配信サービスなどを使ってそれを聴くという行為に似ているようにも思う。
じつは、僕の最大のお目当てはこの「コピー本」だった。情報が解禁されたとき、この「コピー本」を手に入れるために、どのCDを持参しようかと考えた。同時に、自然と「どのCDにしようか」と考えていることに面白くなってしまった。『かいわい』関係者の方々が持っていないものだったら面白そうだな、とか。あるいはこの美術展を訪れる人が持っていなさそうなCDだったら面白いかな、とか。前掲したツイートにも写真が載っているが、持ち寄られたCDはブースに並べられている。図々しいことに、僕はここで「僕」を出そうとしていたのだ。しかし、こうした思考こそ『物々交換』の根底に発生しているものだろう。
当日、受付で『かいわい』の方に声をかけ、渾身のCDを差し出した。MAPAの1stアルバム『四天王』。特段リアクションはなかったが、幸いそのときのブース上に同じCDは見当たらなかった。よくわからないが、やったぜ、と思った。

僕は無事お目当ての「コピー本」を手にした。時間に余裕があったので、せっかくだから施設内の休憩スペースで読んでしまうことにした。内容を踏まえてもう一度展示を見てみたかったのだ。結果、二度目の訪問はとても豊かなものになったのだが、テキストのボリュームが想像以上すぎて、終了時間近くまで居座ることになってしまった。結局それでも足りず、翌日に再訪問することになるのだが。
どうやらここに収められているテキストは、別の形で公開する可能性があるらしい。ネタバレ回避、というのは僕の考えがまとまらないことの言い訳なのだが、実際ボリュームが尋常じゃないうえ、このテキストは『アイドライゼーション・ポイント』全体や各作品について考えるときのサポートアイテムのようなもので、それ自体の内容について詳細に何かを書くようなものでもないのかもしれない。少なくとも、この分厚いサポートのおかげで、僕の思考は拡散して乱反射し放題である。ありがたい話だ。
ひとつだけ内容について触れると、このテキストの序盤には『Maison book girl』が登場する。物々交換のチョイス、わりといい線いってたんじゃないか?そう思うと同時に、なにか「やる気」めいたものが湧いてきた。


以上で『アイドライゼーション・ポイント』に関する話を、未完とする。ここで体験したことをどこかで書くかもしれないし、ここで感じたことが今後なにかしらの僕の表現に影響として出てくるかもしれない。僕はもっと自由に、このピンクのマスクを外せるようになりたい。






§. 僕と、いくつかの春と、ユレルランドスケープ

2022年4月9日。ユレルランドスケープの新体制初ライブが開催された。前体制から継続して活動する、空蝉さなさん・小野町子さん。その両名に加え、雅春奈さん・麦ゆきさんの二人を迎えた新体制。四人がステージに立ち、明かりが灯った瞬間、フロアからも、ステージからも、感情があふれ出す気配がした。


僕がはじめてユレルラのライブを見たのは、2020年11月の新宿ロフトだった。グループの存在はもうすこし前から知っていた。ユレルラの音楽は好みで、気にはなっていた。はじめてライブを目にして、転換から曲間までの持ち時間全てを音楽と共に演出し続けるステージが、強く印象に残った。また見てみたいな。そう思うだけなら自由だ。結局、もう一度ユレルラのライブを見ることができたのは、2021年4月の新木場・ギュウ農フェス。ひどく時間が空いてしまった。それでも楽しみで、その期待は軽々と飛び越えられてしまった。

前掲した昨年の月記でも短く、このときのギュウ農のことを書いた。ユレルラのことにしか触れていない。でも、それでよいと思った。無論、他の色んなグループも見ている。それでも、この日のベストアクトは間違いなくユレルランドスケープだったと、繰り返し言っていきたい。
自分で文章を読み返してみてもわかるのだが、この時期の僕は荒れていた。2020年の春から漂いはじめた意味の分からない空気は、見えないくせに形を変え続け、ずっと人々の間に、身体の中に、心の中に、入り込み続けていた。大好きな人たちも、大嫌いな人たちも、ぐちゃぐちゃになっていく。気を抜いたら、どうにかなりそうだった。そんなときに、涼しげな声にのった熱い言葉が聞こえた。

「今年の春が、いちばん最高です。」

はじまった「さよなら、春」を聴きながら、2020年の春を生きて、2021年の春に生きている、そんな実感を貰った。春の野外ステージの空気が気持ちよかった。
今思い返せば、あのときのステージ上にどんな想いが乗っていたのかは想像もできないが、あのとき客席にいた僕は、勝手に受け取った。
そして、2021年の8月、ユレルランドスケープは活動を休止した。


2022年4月9日、春。空気は相変わらず形を変え続けて漂い続けていた。相変わらずだが、前の春とはすこし違う。当たり前すぎて、異常だ。相変わらず僕はぐちゃぐちゃに毎日を生きているが、目線だけは前方に動かしやすくなった。2021年の夏は知らないが、2021年の春は知っている。僕はあの春にちゃんと、さよならを言えるように、渋谷を訪れた。

四人がステージに立ち、明かりが灯った瞬間、フロアからも、ステージからも、感情があふれ出す気配がした。それぞれの感情。僕の感情は「さよなら、春」の中で早々にあふれ出してしまった。そこからは、新しい感情を生み出していく時間だった。幸運にも出会うことができた、ユレルランドスケープの音楽を連れて、何度も生きた春を連れて、僕は2022年の春を生み出していく。






§. クロスノエシスの話 vol.0/8/3

クロスノエシスは、2022年5月27日で活動3周年を迎える。5月には記念日当日に向かい、東名阪をめぐる3rd Anniversary Tour『0』を開催する。
そして4月、それに先駆け1stフルアルバム『circle』を発売した。是非ともお手に取って頂きたいアルバムだ。これについては個別の文章を書いたので、そちらも何卒よろしくお願いしたい。

前掲の文章には縛りがある。あくまで2022年4月11日時点での内容を書いている、ということだ。よって、この月記が対象とする4月末時点では色々と変わることもある。ここではそのひとつでもある、定期公演『cry for the moon vol.8』について書く。

僕は『previously』が好きだ。『光芒』も好きだ。そして『逆光』も好きだ。特に好きな曲ばかり、自分が作ったセットリストかと思ったが、4曲目から話は変わった。
8曲目の『幻光』はアルバム『circle』に収録されている曲だ。そしてこの曲は、2曲目の『光芒』と5曲目の『幻日』が混ざり合ったものだ(もっと正確に言うと、『幻光』が本来の姿であり、それが分割されてしまっていた、という時系列になる、らしい)。これら3つの曲は、構成、メロディ、音色、歌詞、振付など、全ての要素が関係しあうように作られているのだ。つまりこのセットリストには、『光芒』と『幻日』が『幻光』として再生していく過程が表現されていると考えられる。

更にこのセットリストでは、前述した曲たちを挟み込むように2つの曲が配置されており、3つのブロックが繰り返されている。

まず『逆光』についてだが、これもまた『circle』に収録されている曲であり、この日がライブ初披露だった。なんで3回もやるのか、というのは『circle』のなかにヒントがある。ブックレットの『逆光』のページを見てみると、そこにはポツンと置かれたテレビが描かれ、その画面内に『幻光』のページが入れ子のように映っているのだ。どうやら『逆光』の視点は、『幻光』を俯瞰するメタ的なものだと捉えることができそうだ。

そして『previously』なのだが、この曲は1stミニアルバム『chronicle』に収録された曲であり、このセットリストを構成する他の曲とは発表された時期が大きく異なる。パッと関連する要素は思い当たらなかったのだが、歌詞を読んでいたところ、それっぽい部分があった。『逆光』には『かさなった手が 連れさった闇夜 消えさった罰』という一節がある。『previously』では『消えた朧げな夜は 罪も嘘も美しい』とある。「夜が消える」というイメージは共通しているが、『逆光』は「消えさった罰」と歌うのに対し、『previously』は「罪も嘘も美しい」とその美しさを見出す。「罪も嘘」も大まかに言えば「罰」と近しい。また、お互い最後の歌詞もイメージが似通っている。『逆光』は『光の内側 巡り続けて』、『previously』は『何も何も何も無くて 空白のループ』と、どちらも『円』のイメージで曲を締めている。共通のイメージを手掛かりにしながら、双方の時間軸について考えるのも面白そうだ。ちなみに、間にあるはずの『幻光』たちについては、もう僕の処理能力が終わってしまったため、またいつか、ということで。

最後に、『previously』の歌詞を読むなら、ぜひ『chronicle』のCDを持ち出してみてほしい。






§. 『PRISM』を経た光は、いつか交わると聞きました

RAYは、2022年5月1日に活動3周年を迎える。それに先駆け2ndアルバム『Green』のリリースを発表、CDの発売に先駆けてYouTubeでの期間限定全曲無料公開、各種サブスクでの先行配信を開始している。そして5月8日には3周年記念ワンマンライブ『works』が開催され、その後もアルバムリリースツアーで全国をまわる予定だ。

そういえば、僕は昨年、2ndワンマンライブ『ひかり』を受けて、ひとつの文章を書いた。

昨年からnoteを更新しはじめ、一番最初に作り始めた長文だ。『ひかり』開催直後にはこのことを考え始めているので、公開までに4か月もかかっていることになる(その間、どうしても書かなければならない文章がふたつもあった、という事情もあるが)。どうにもRAYの表現に触れていると、こちらも表現したくてたまらなくなってしまう。それこそ、noteをはじめる最後の後押しをくれたのは、RAYだ。

RAYのワンマンライブは毎回強烈な刺激を与えてくる。そしてそれは、何らかの形でのアウトプット衝動を生む。それは3rdワンマン『moment』もそうだったし、4thワンマン『PRISM』もそうだった。ただ、僕は現状このふたつのライブについてほとんど沈黙している。『moment』に関しては単純に時間が足りなかったという面もあるが、『PRISM』に関してはより根源的な部分に効いた感覚がある。
『PRISM』に関しては、もはや「言葉」で思考し表現しようとする時点で、なにかを削ぎ落してしまっているのではないか、そんなある意味で野暮なことを思ってしまうような、でもそこに凄みがあるものだったと思っている。公式もYouTube上の紹介文などで書いているのであえて同じ表現をするが、『PRISM』は賛否両論だった。僕は『賛』にも『否』にも違和感があった。結果、Twitterのタイムラインにおいて「沈黙」という振る舞いをとった。これはある種「中間的」であろうとするメタな逆張りムーブであると同時に、どちらかを選択できるような基準めいたものが自分の中に無いと気づいてしまった、そんな静かな敗北宣言でもあった。

僕が白旗を振っているうちに、『Green』が発表され、3周年ワンマンライブ『works』も近づいてきた。長く黙っているのも、飽きてしまうものだ。ここ数年の異常な日常で改めて感じた人もいるのではないだろうか。とりあえず、『Green』はめちゃくちゃいいアルバムだ。

そして『works』についてだが、おそらく、とてもおもしろい。なぜかと言えば、アプローチの方向が逆ではあるが、根幹は『PRISM』と通じていると思っているからだ。『PRISM』はまずライブの場で「音楽」を提示して、「音楽」の間にその都度、周辺に広がる「要素」を開示していった。一方、『works』ではまず「要素」を提示している。基本設計図を公開したうえで、その完成品としての「音楽」をライブの場で見せることになる。アプローチの方向と書いたが、『PRISM』は「拡散方向」、対する『works』は「収束方向」といったイメージだ。しかし、どちらも考え方の土台は似通っているように思える。一回性と反復可能性。個と集合。そういったイメージの両極を意識させようとしているように見える。そしてワンマンライブという体験が、体験した人のなにかを動かすようなエネルギーの流れを生むものにできないか、そうしたドデカい仕事にチャレンジし続けているようだ。

いったん白旗はしまう。そして、しっかり「works」に流されたい。また粉々になって白旗を振るかもしれないが、粉々であり続けるのも飽きてしまうので、いつかなんらかの塊になるだろう。






§. 派手髪のビックリ箱職人に会いに行った

MAPAのニューシングル『麒麟タイム/Satie』のリリース&新曲お披露目ライブに行った。会場である六本木BIG HOUSEは初めて訪れる会場だった。六本木という土地自体、かなり久しぶりに訪れた気もする。MAPAのライブを見るのは、2021年11月に渋谷WWWで行われたワンマンライブ以来だ。当時僕はそのことを特段話題にしなかった。
理由はおおきくふたつ。ひとつは、ライブに行ったという事実を書くことが怖かったということ。これはあの忌々しい流行り病と、それを取り巻く「空気」と、それに押しつぶされてしまう自身の弱さと、そこへのいら立ちだとか、いろんなものがごちゃ混ぜになっていた。
ふたつめは、ただ単純に、うまく言葉にできなかったからだ。

ただ今回は、新曲『Satie』の感想だけは書いておきたいと思った。『Satie』が披露されたとき、鳥肌がたった。ピアノ主体の美しくも、すこし怪しさもある曲。歌はかなり複雑で、振付はどこか演劇的な印象も受けた。それでもサビではスローに歌を聴かせる。淡く柔らかな照明が似合いそうな曲だと思った。
でも、この曲を照らしたのは、壊れたように明滅する照明だった。淡く優しくもない、リズムに合っているわけでもない、クールというほど整然としてもいない、ミステリアスというには無機質すぎる。異質だった。すこし怖くもあり、同時にわくわくしてしまう。そこには、いつか味わった感覚に通ずるものが確かにあったし、それだけじゃない、新しいものもたくさん詰まっていた。

コショさんがいつかに言っていた「ビックリさせたい」という表現が印象的で、よく思い出す。たぶん、まだまだ僕はビックリさせられると思う。もちろん、「ガス止まった」とか、そういうタイプじゃないやつで。












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