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短編「 金魚の少年 」



「 金魚の少年 」


 目次

一、追憶の君と
二、猫拾い
三、夕涼み
四、最終便
五、後(のち)

一、追憶の君と


   窓の外は次々と変化するのに
   君はガラスに映ったあの子に夢中。

   僕は知っているけれど、
   あの子はそれを知らないし、
  君もあの子に見られてるなんて思ってもない。

   何だかむず痒い、
   僕も手を貸してあげられたらな。



side.1 (18歳)

18:33

太陽が沈んでも外気は一向に冷める気配をみせない。
車内で冷えた空気がゆるりと外へ流れ出て、
代わりにムッとした空気が乗車した。

私も急いでバスへ乗り込み、後ろの方の2人がけの席に腰を下ろす。

ハッとする。
君が、夏休みだと言うのにいつもの席に座っていたのだ。横顔がよく見える。

このバスには、電車のような横向きのロングシートがある。私が見るとき、君は大体その席にいて、いつもバスの乗客にしては良過ぎるくらいの姿勢で座席に座っていた。

君は手にある本を閉じてゆっくり瞬きをすると、そのまま綺麗な横顔で外を眺めた。何を見ているのだろう、何を考えているのだろう、手にあるのはどんな本だろう、すべて気になって仕方なかった。

さっきのあれ、君にもみて欲しかったな。
バスの待合室から見える青いイチョウ並木から、大群の鳥が飛び立ち葉がきらきらと揺れて綺麗だった。

無数の鳥が固まって飛ぶ姿を見るのは人生で数度目で、あんなに密集して飛んで大丈夫なのだろうか、とまた不思議に思った。
凄い迫力なのに静かで美しかった。



桃色の夕空が段々と濃藍(こいあい)に染まりはじめていた。



18:37

バスの席が埋まる事はまずなかったけれど、それにしても夏休みのこの時間帯は乗る人が少なかった。

乗客は私を含めた学生4人で、1.2年生らしき2人は彼と同じ高校のブレザーだった。それぞれ、まだ新しげなラケットケースと、スパイクを近くに置いている。

少しして次のバス停に近づくと、学生のうち1人が降車ボタンを押した。
何千回と響いて来たであろう降車音は、なんとも角の取れた音で"ポワワーン"と鳴って、車内の空気を少し緩やかにした。それまでは大人しく乗っていた皆が少しづつ身体を動かす。

私はガラスに頭をもたれ、君も手にあった本をリュックに入れた。

バス停に着くと学生2人が降りて、
代わりに老夫婦がゆっくりと乗車した。

夫婦とはこの3年間でたびたび同じバスになっていたので、私は軽く会釈をした。二人は微笑んで会釈を返してくれる。夫婦の笑顔を見るといつもなんだか心が軽くなる感じがした。多分歳は80近いと思う。

今日は病院と買い出しへ行って来たようだ。
奥さんが薬袋を持ち、旦那さんが買い物袋を持っていた。買い物袋は大きさの割にふわりと軽そうに揺れた。チラッと"ふ菓子"の文字が見えた。
わたしも今度買って食べてみようかな、と思った。

2人は降り口近くの席に座った。皆が気にかけ、いつも空席になっているこの優先席に2人はそっと座ってくれる。荷物を抱え、ぎゅうぎゅうになった後ろ姿を見ると、外の暑さも忘れ、とても平穏な気持ちなる。

夫婦が座った事を確認すると、発車の合図と共にバスはゆっくりと走り始めた。

旦那さんは奥さんの耳元で何やら話している。
奥さんの真っ直ぐで可愛らしい瞳はいつも旦那さんに向けられていた。
どんな話をしているのかな。
彼の話を聞いている時の彼女は少女のようだった。

私と君との距離は数メートル。
でもそれよりずっと遠くに感じる。

程よい揺れに眠気を誘われ、君は徐々に背中を丸め小さくあくびをした。つられて私も眠くなる。

夢の中だけでも、
君と話せたらいいのに。

2年前の事を考えては、いまも後悔している。
あの時声をかけていたら…。

その時から私は君に恋をしている。

君の姿がどんどんと瞼の奥に隠れて行った。


side.1 (16歳)

2年前(高1の秋)


10月、
誘われて友人が通う高校の文化祭へ遊びに行った。
時間の余裕を見て友人の作品を探しつつ、自分の高校と全く違う創りの校舎をワクワクしながら探索した。

校舎内は、外観から想像したよりも広く感じられた。私の高校より天井が少し高いからかもしれないし、壁の色が明るいからかも知れなかった。

1年1組の展示ルームに着き、友人の絵を探し始めた時、わたしは一瞬の内に別の作品に目を奪われてしまった。

その絵を見た瞬間、なぜか心臓が大きく鼓動し、耳の奥にも響くほど強く脈を打った。ドンクドクンっと血液の流れる音が聞こえていた。

大小様々な打ち上げ花火が繊細に描かれ、その後ろにはどっしりと重そうな入道雲が負けない存在感を放っていた。
全体的に暗い色なのに、花火に散りばめられた金色で絵は華やかになり、惚れ惚れする美しさだった。

本当に見れば見るほど引き込まれた。
少し怖くもあった。

幼い頃からずっと描く事が好きだった私は、皆が褒めてくれるのでたくさん絵を描いた。一時期は絵に関わる仕事ができたら、と思ったこともあった。
でも私のそれは"好きが功を奏し普通より描ける"と言うくらいのモノで、決してこのように抜きん出た才能ではなかった。
いつしか夢は淡く溶けて消えていて、今も絵は趣味に留まっている。

絵の題名を描く欄には『 夜涼み /   上月 葎 』と書いてある。
上月葎…。

絵に視線を戻すとまた一層と美しく見えた。才がある"とはこう言う人に使う言葉なのだと思った。

つい時間を忘れて見入ってしまった。

友人との約束の時間まであと12分、向かうべきは体育館だった。数分あれば着くけれど、早めに体育館へ向かう事にした。



ちょっと面白い出来事があり、いつの間にか約束の時間まであと3分で、体育館へはまだ着いていなかった。
日向(ひなた)は廊下を走って迎えに来ると、
「迷子じゃなくてよかった!」
と安堵し、会いたかった!と言って最高の笑顔を見せた。週に4回会っていると言っても誰も信じないかもしれない。

今日のような曇り空でも、
日向が隣にいてくれるだけで気分は晴天だった。
彼女といると健やかな気持ちになる。

(立花 日向(たちばな ひなた)とは小中学校が一緒だった。小学一年生の時「お友達になりたい‼︎」と言ってくれて以来、ナチュラルにそう言う言葉を使える彼女を私は心から尊敬し信頼している。
そんな彼女なので一緒にいると、誰に対しても変わらない態度に安心したし、何事も真剣かつ楽しそうに取り組む姿に励まされた。)

私は日向のダンスを見るために文化祭へ来たのだった。出番前に走らせてしまい申し訳ない気持ちになるけれど、彼女は絶対に文句を言ったりはしないし、多分そんなことは気にもしていない。
むしろ常に私を気づかってくれた。

2人で体育館へ向かった。


体育館へ着くまでの間も多くの作品の側を通ったけれど、あれ程に心惹かれるものは他に見つからなかった。

既に薄暗くなった体育館には大勢の人が集まっていて、とても賑やかだった。日向は着くとすぐステージ脇の待機スペースへ入り、私は出入り口近くの壁に寄って、あたりを見回す事にした。

ステージ付近の前列にいるのが3年生らしく、ペンライトをふったりスマホでそれを撮ったりしている。薄暗い体育館に、その存在が映(は)えていた。

2階のギャラリーにも割と人がいた。

その中に思いがけず顔見知りの先生を見つけ、嬉しくなる。がっちりとした手すりから、ちょこんと顔を覗かせた坂野先生は、いつもと違う生徒たちの様子を嬉しそうに眺めていた。60歳近くなっても好青年だったであろう面影がみられる。

先生は数週間だけ私の通う高校に来ていた事があった。季節外れのインフルエンザで寝込んだ美術教員に変わり、臨時教員として3回程度の訪問だったと思う。

初日の自己紹介では「歳を重ね、やっと本当の夢を叶える決心が付きてこの道に進み..」と話していた。
先生の博学さ故に、求められるものが多かった事は想像に難くなかった。

大学教授を47歳にして辞めた坂野さんが始めたのは"早めの田舎暮らし"ではなく"遅めの予備校生"だった。
やっとの思いで美大に合格したと言っていたけれど、そこは確かに信じられないほどの難関だった。この歳の私ですら、何浪しても受からないだろう。
どれほどの雄才であれば現役でそんな事が可能なのか....と思った記憶がある。

「あの歳から学校へ通うのは正直、結構応えましたが」と首に手を当てながら話した先生は最後に「諦めてしまわないでよかった」と爽やかに笑った。
潔くとても清々しかった。

52歳で高校の美術教師を始めた先生の授業は丁寧で謙遜で幸福感に満ちたものだったので、本当に心地良かった。そして何より"得た"と感じられる授業だった。


初めて訪れた場所に友人以外にも知っている人がいると言うのはかなり心の支えだった。
嬉しくてつい視線をやり過ぎてしまうと、それを感じてか坂野先生は私の方を見て迷いなく手を振った。
他に上を見上げている人はいなかったのでぺこっと会釈した。 

私は人の名前や顔を覚える事が得意ではないので先生は凄いと思った。大勢の生徒を見ているのに数回会っただけの私をも覚えていてくれる事に感動した。

結局、日向のダンスは後ろの方で見ることに決めた。本当は近くで見たかったけれど、これ以上近づいたら何だか砕けてしまいそうだった。せめて気持ち正面よりに座った。

座る場所を決めてからは、体育座りをしてステージの袖をじっと眺めて日向の出番を待った。

皆が盛り上がり、パフォーマンスの間に流れる音楽に釣られて歌い初める男子もいた。
私の近くを通り過ぎた男性教員らが「アイツら本当にシラフかな」と笑った声が薄っすらと聞こえてきた。同じ気持ちだった。お酒は分からないけれど、そう感じる程、皆が場に酔っていた。

ペンライトも熱心に振られ、完全に音楽のフェスだった。

大音量の音楽と薄暗さに感化された生徒達の声が押し寄せ、大きな波に飲まれたかのように体育館には、ズン、と圧がかかっていた。


「おせーよりつ!!!」

後ろから光が差し込み、
私はその重い空気から一気に解放された。

その声はまさに光と言う感じだった。
なんだか日向によく似ていた。
声ではなく、何か纏っているものがそっくりだった。
セリフとは裏腹に優しく暖かく、真っ直ぐでよく通る声だった。

「ごめんね、委員会の仕事してきた」
りつと言う人は優しくなだめるように話していた。
落ち着いていて安心出来る声だった。

「大変だったみたいだね〜(笑)つっきーなんか良い匂いする、てか、相変わらずテンション低〜(笑)」
3人目の彼はあどけなさが残る声で軽やかな話し方をした。

「ん、、つっきーってなに」

「こいつまた変なのハマり出したな!」

「ん(笑)"このづき"って呼びずらいんだもん(笑)」

「また急だね、」

「今更すぎ、りつは"りつ"でいいだろ〜!!」

「いや〜最近苗字の良さに気づいちゃってさ〜(笑)」

「お前漫画に影響され過ぎだから!!」

「ま、全然いいけど」


…?



あれ?
どうやら、
たった今後ろで話していた人の中に、
あの絵の作者がいるみたいだ。

「"このづき"って呼びずらいんだもん(笑)」
「りつは"りつ"でいいだろ〜!」

" このづき りつ "
"  上月  葎  "

が、多分、数メートル以内にいる。

まさか、つっきー(作者)と遭遇するとは思わなかったけれど、あの絵は確かに"上月葎(このづきりつ)"のものだろう。

一眼でいいから作者を見たいと言う衝動はあったが、振り返れば確実に目が合う距離だった。
小心者なので振り返ることができないまま、袖からポップな音楽と共に登場した日向達ダンス部に集中した。

♫♪♩

上月葎はすぐそこにいて、あと少しの手が届かずもどかしいけれど、何となくその方が良いかもしれない、とすら思えた。

明るいステージで輝く日向は、暗い観客席からすぐに私を見つけ出し手を振った。人はたくさんいるが、あれは私に向けられたものだと分かる。
私も精一杯手を振りかえした。
内心では(凄い!!可愛い、!、!、!!!)と叫んでいた。

一年生にも関わらずセンターに近い所でパフォーマンスする彼女はまさに太陽のようだった。
後ろにいる日向に似た彼も、僕の推しと言わんばかりにわ〜わ〜と歓喜の声を上げていた。
ダンス部に向けられるペンライトもよく動いている。

3曲のパフォーマンスを終え日向は走って戻って来てくれた。私の感想を聞いた後の彼女はまた最高の笑顔を見せ、私も増して笑顔になった。

日向が後ろの友人に向かって「かなと〜!どうだったよ私のダンス!」とサラッと声をかけるので、私も釣られて振り向いた。

日向が話しかけたのはさっき声が聞こえてきたあの3人組だった。
私は実際、自分の心中が伝わってしまわないかと心配するほど、振り向けた事にワクワクしていた。

そして上月葎さんは一目で分かった。長過ぎない前髪、手にはバインダーを持ち、二人の間に立っている人。静かな声によく見合う落ち着いた雰囲気だったし何よりあの絵の作者という感じがした。

でも10月なのに白いワイシャツにネクタイ姿、腕をまくっていた。寒くないのかなと心配になったが、腕には筋肉の筋が見られ運動部と分かる逞しい身体付きだった。
あの繊麗された絵がこの逞しい腕から生み出されたとは、、、この時の私は興奮を抑えきれていなかったはずだ。

首にかけられたネームプレートには"生徒会"と書かれていて、少し意外だった。

会話から、上月さんの右にいるのが光の声の主カナトさんで、左にいるのが少年の声の主レイさんだと分かった。

カナトが下手な感想を言うと、レイが口を挟み
「かなと〜もっと言うことあんだろ〜(笑)
 あんなに盛り上がって....(笑)」
と、カナトをからかった。

続きを言いかけたところで、カナトがこの暗さでも分かるほどに顔を赤らめながらレイの口を封じ、後は2人かけっこをしてじゃれていた。とても楽しそうだなぁと思った。


日向はそれを見てお腹を抱えて笑っていた。
全てに愛され守られるべき笑顔だ、と思いながら私は少し後ろで見守り、また釣られて微笑んでいた。

この間、上月葎(このづきりつ)さんは日向や仲間の言動をものともせず、真剣に何かを読み込んでいた。バインダーに挟まった資料(?)だろうか。委員会の仕事が忙しいのかも知れない。

綺麗な手に長いまつ毛、立ち姿がそのまま雑誌に出て来そうだった。

日向が彼らに明るい声で「じゃ〜ね君達!」と言ったので、私も軽く頭を下げると、それぞれが思い思いに反応し、彼もまた軽く頭を下げた。目があったのは多分一瞬だけだったけれど、とても長かった様にも感じた。

日向と二人でまだ暗い体育館を出た。

そして私は日向に玄関まで送ってもらい高校を後にした。

慣れない環境に飛び込んだ反動か、その日はすぐに寝付けなかった。それでも文化祭でもらった栞を取り出し、綺麗な表紙を眺めている内に、いつの間にか眠ってしまっていた。

また夏の夢を見た気がする。




side.2 (18)

電気の付いた明るい車内から暗くなり始めた空に鳥の群れが見えた。かなりの数の集団飛行で、この暑い時期にムクドリが大群で現れるのは珍しいと聞いたことを思い出した。凄い勢いで一瞬の内に遠くへ行ってしまった。

そう言えば、今読んでいる本にも渡鳥についての記述があった。筆者は集団飛行を「弱い自分たちを守るための本能」と記していたが、僕はそれがもっと素晴らしいものの様に感じた。弱いのはいつだって僕らの方かも知れない。

本能は人間に無いものらしい。人にあるのは"傾向"であって、何事も自分で考えて選択し行動する必要がある、と言う事だった。

想像と違う内容だったけれど、面白いので借りられる期間の内はなるべく読んでみようと思っていた。

あの子のバス停でバスが停車した。

君は軽い足取りで段差を登ぼると、乗り口のすぐ後ろの席に座った。一つに結われた髪が穏やかにゆれる。
そこは君のお気に入りの席らしい。
僕の席からは窓ガラスに反射して映った君が見えた。

彼女が座った事を確認すると、バスはまたゆっくりと走り始める。

夏休みなのに君と同じバスに乗れるなんて、今日の僕の頑張り全ては"この時のためのもの"だったらしい。

僕が部活を引退したのをいい事に、3年間部活の顧問、兼担任をしている暁(あかつき)先生が声をかけてきた。
クラス替えもあったはずなのに先生とはずっと一緒だ。多分こう言うのを腐れ縁と呼ぶんだろう。

先生は数aの教師で頭がいいのは勿論、字が綺麗で教えるのも上手いと評判だった。
厳しくはなかったが、だらしなくシャツを出している生徒だけは気になるらしく、すれ違うとたびたび声をかけていた。そして無駄に顔が整っていた。

図書委員会も受け持っているが、書庫整理に人手が不足しているので助けて欲しいとの事。
夏休み前に終わらせるつもりだったが、思ったより手間のかかる作業になったようで終わらなかったらしい。
先生は僕が断らないと知っていて頼んだ。頼んだ本人は「部活行くのでよろしく〜」と初めだけ顔を出し、せかせかと行ってしまった。
まあそんな事だろうと思っていた。

上手く使われ、お陰でこの時間になった。

同じ制服の後輩達とすれ違いで、夫婦がバスに乗ってきた。今日の買い物袋にずっしりとした様子はない。
ちらりと見えた包装紙には"お徳用 麩菓子"の文字があった。お菓子、3袋以上は買ったっぽい。
お茶会か、それとも2人でお菓子パーティーか、何にせよどこか羨ましかった。
麩菓子、僕も今度買ってみよう、と思った。

窓に映る君はとろんとした目で前を見つめ、ゆっくりと瞬きをした。そんな君を見ていると僕も眠くなってくる。

君はいつも優しい顔をしている。
日々の生活の中には大変な事もあるだろうに
君は周りにそれを感じさせないのだろう。

凪いでいる海のよう。

君がどんな1日を過ごしたのか、
僕の頭では到底想像に及ばない。

けれど考えてしまう、
君は楽しい一日を過ごせただろうか。

たった数歩で君の元へは行けるのに
僕は考えてばかりだった。

人間に本能があるとすればそれは一人で生きようとしてしまう事かもしれない。文字通りの一人ではなく自分に頼りすぎてしまうと言う事。

君もきっとそうなのかも知れない。


side.2 (16)

2年前

体育館で君のつま先がこっちに向いた時は心臓が止まるかと思った。必死にバインダーに挟まった白紙の紙を見ていたけれど、その紙が白紙だと言うことも認知できていなかった。
夏那人(かなと)と零(れい)にもバレるほどの動揺で後になって色々と言われたが、自分の反応に一番驚いていたのは僕自身だった。

体育館へ行く前、僕は生徒会の仕事をしていた。

半年前、高校へ入学して1ヶ月が経った頃だった。

委員会決めで生徒会の候補者が現れなかったために、暁先生が「独断と偏見で選びました〜」と発表したのはなぜか僕の名前だった。もちろん普通はくじ引きなどで決めると思う。
皆んなが薄々悟ってはいたが、僕らの担任は少し変わった人だった。

おかげで(?)僕はクラスメイトに優秀なやつと思われているが、僕を選んだのは「文句を言わなそうで役を勤められそうだったのが唯一お前だった〜」と後から何とも浅はかな理由を聞かされた。
出会って日も浅いのによくもそんな事が言えたよ、と思った。



そして半年委員会活動をしているけれど、僕は確実に不向きだった。2、3年生の様な素晴らしい企画提案など数ミリも思い付かず、話し合いの場では大人しく黒板をチョークで叩くしかなかった。体育祭の時のことはなるべく思い出さない様にしてる。

でも文化祭準備は唯一栞作りで役に立った。
噂に流された先輩から無言で紙を手渡され、いつの間にか表紙を描くことになっていた。
描き終えた表紙は資料と共に、生徒先生分+来客予想分の枚数印刷された。僕は運動部という事もありこの印刷作業を免除されたが、待ち時間は地味に長く、2台のコピー機が詰まると大変な騒ぎになった、と苦労話を後から聞いた。

印刷が終わると皆は面倒だと言いつつ、列になり資料を束ねて栞にした。皆のやる気のなさも面白かったが、確かにこれ程の数を束ねるのは地味で難儀な仕事だった。

でも、僕の絵が本当に栞の一部になった事が実感でき嬉しかった。

文化祭の当日は、市のマスコットキャラクターが遊びに来たと言う設定で、生徒会役員が着ぐるみの中に順番に入っていた。
着ぐるみが想像以上の重さで、女子達から企画ごと丸投げ投げされたらしく、1年生の僕らは抗えずキャラクターの演技に徹する事となった。

視界は悪く足は短いので手を引いてもらわないと小さな段差でもつまずき転がってしまいそうだった。

僕の番になったのだが、さっきまで手を引いてくれていた先輩は「子供達とあらかた写真撮り終わったし大丈夫!私約束あるから!」と鬼の様な台詞を吐いて、どこかへ行ってしまった。
多分体育館だろう。僕は夏那人達を待たせていた。
僕も急がないと、と思った。


まあ、ミッ○○○ウスほどの重荷を背負っているわけではないにしても、廊下で頭を取って息をするのはよくないと思い頑張って歩き続けていた。
この時間は体育館のイベントに人が集中するため、生徒会室へ向かう廊下の人通りがほとんど無い事だけが救いだった。
子供に見られ泣き叫ばれても困るので、決して転ばないようにと慎重に歩いた。

やっと10メートル程進むと、左側に続く廊下の突き当たりに人が立っているのが見えた。一生懸命に絵の展示作品を見ているようでなかなか動かない。

後ろ姿だったが、息をしてるだろうかと心配になる程だった。学生の絵にこれほど見入る人は少ない。

誰の絵を見ているのだろう。
遠くてそこまでは分からなかった。

僕はつい自分がゆるキャラである事を忘れ、絵を見るその人に見入ってしまった。分からないけれど数分はそうしていたかも知れない。

玄関の方からゆるキャラの名前を叫ぶ男の子の声が聞こえ我に帰ると、僕はその子にライダーキックをされていた。4歳くらいだろうか。小さい。転ぶくらいの演技はしたかったが、頭がとれると悪いので必死に片膝をついて痛がる演技をしてその場を耐えた。とても逞しい男の子だった。

走ってきたお父さんは子供を注意し、僕に「すみません、ありがとうございます。」と言うと、その子を肩車し体育館の方へ向かって行った。

不安定な体制であっかんべをする子供に向かって僕は大袈裟に片手を振った。父の手からは逃げられるまい。

秋だけれど着ぐるみの中はこんなにも熱くなるのかと驚いた。張り切って手を振ったせいだろうか、体力は問題ないがさっきの5倍は熱い。中腰に耐えてきた腰もそろそろ限界だった。さっきよりも慎重に歩いた。

数メートル進んだ時、
後ろから声がして振り返ると、君が立っていた。

さっき遠くで絵を見ていたのは君だった。


一瞬、時が止まったと思う。

「どうして、」
話せないはずなのに僕は小さくつぶやいてしまった。

驚きの余り二歩程後退りして危うく転ぶ所だった。
廊下にいたのは君だったんだ。
優しい声に美しい髪、透き通った肌、とても綺麗な君は、今にも消えてしまいそうで、僕は瞬時にその状況を理解できなかった。

何秒か立ち尽くした。


僕はゆるキャラ。市のゆるキャラ。
心の中でそう唱えて、表情の変わらないこのゆるキャラに助けてもらい、間(ま)なんて無かったかのように明るく繕った。

中身の人間は、全然それどころではなかった事など、決して伝わらないで欲しい。

君はニコッと笑うと、僕に「どこまで行きますか」と聞いた。困っているのが伝わってしまったのだろうか?と少し不安になった。

生徒会室までは後100メートルもなかったが、言葉に甘えてそこを指を指すと、君は優しく手を繋いでゆっくりと歩き始めた。

実際は多分10分弱の出来事だったが、数秒のように感じられた。
何を話すわけでもなくただ僕を生徒会室前まで送ってくれた。
僕がペコリと頭を下げると、君はまたニコッと笑い頭を下げその場を去った。


胸が苦しい。
君の姿が見えなくなってからもしばらく生徒会室前から動けなかった。

無事に着ぐるみを脱ぎ捨てて体育館へ向かい、
自分たちの斜め前に座る君の後ろ姿を見つけた時、また脈が速くなったのが分かった。

文化祭の次の日はとても暖かい日になった。
なので久しぶりに、大切にしている金魚2匹を、裏の綺麗なため池に移して泳がせる事ができた。
金魚達は赤橙(あかだい)とまだら模様の鱗を太陽に反射させ木漏れ日の間できらきらと輝いていた。

近くには誰も取らない無花果がたわわに実っていて甘い香りがひろがっている。

満足すると2匹はいつものようにこちらへ戻って来た。

         二、猫拾い


side.3 カナト(16)

中1の時『大切なもの』というテーマで作文を書く授業があった。




   犬
          一年一組 瀬良 夏那人

 俺が小学生の時、愛犬を事故で亡くした。

(大好きなものがテーマなのに出だしから間違いだろと今では思う)

 死と言うのはいくつ経験しても受け入れられるものではない。身近であればなおさらという事を俺は低学年ながらに悟っていた。
 蛍やセミに人間のような知能が備わっていたなら別れの時、きっと点滅するようにうろたえて光り、もっと掠れたような音で鳴いただろう。
 今年は蛍もセミも少なかった。ニュースで地球温暖化や環境汚染、大気汚染が原因だと言っていた。
「環境セミ指数」と言うのがあるらしい。初めて聞いたが、どうやら都内の高校生の人が地球温暖化をセミの鳴き声から分析する研究をした、と言う内容の話だった。
 これから百年後くらいには入学式でセミがなくことが当然となり、そんな環境でも生き残って行けるのはアブラゼミなのではないか、との事だった。秋にもセミが鳴くことになるかも知れないと言う意見もあった。
 蛍は絶滅間近だそう。蛍を知らない子供も増えているが僕は祖父母のおかげで蛍を見たことがあった。本当に綺麗だったので目に焼き付いている。
 このまま破壊が続くなら、そのうち光のおかしな蛍や、鳴き声の掠れたセミが現れるだろう。

(ここらでだいぶ脱線してしまったため、どう話を戻そうかかなり考えた覚えがある)

 愛犬の死から数年が経った。

(結果、強引に戻すほかないと決断)

 生まれてからずっと一緒だったので傷は深く深く心の奥まで達していた。よく覚えている。ひき逃げだった。しかも僕は見てしまった。白のセダン。四十キロの道を六十キロは出していただろうと思う。犯人探しはわざとしなかった。相手にとっても生きものをひくと言うのは好ましい経験ではないだろうから。決して許しはしないが。
 玄関が少し開いていたせいで愛犬はそこを鼻でこじ開け出て行ってしまった。こちらも悪かった。迎えの家にも犬がいて、愛犬はその犬に会うのをとても楽しみにしていたので、チャンスだと思い走っていってしまったのだろう。
 今となっては白のセダンにも申し訳なく思う。

 突然の出来事は脳の細胞を容赦なく破壊する。
 まるで爆弾だった。

(このあとは作文のテーマを思い出して愛犬への愛をずらずらと延々に並べた)




この作文を書いた中1(13)の俺は間違いなく厨二病になりかけていた。いつ読んでもひどい文章だ。

それなのに、
転校して来て仲良くなった律を家に誘い
笑かそうと思ってこの作文を読ませたら
アイツは泣いてしまった。
さすがの俺も驚いて何も言えなかった。

犬も飼ったことのない律が、何年も前のこの話を読んでなぜ泣いたのか、俺には分からなかったがそう言えば律は初めからそういうヤツだった。

俺の気持ちを汲んで涙を流したんだと思う。

ばあちゃん家(ち)に来ると、
いつもこのことで思い出し笑いをして、
その猫を撫でまわした。

迷惑そうな顔がまたいい。


side.2 律 (14)

父の転勤のため家族で引っ越してきた。

登校初日はとても澄んだ寒い日だった。上着に突っ込んだ手すらも悴み、息を吸うと冷たい空気が肺へ流れ込むのが分かった。

学校までの道は道幅を広げるための工事をしているらしく、今は遠回りしなければいけないそうだ。
早めに家を出たが、学校側からもらった地図は印刷が薄いせいかどこか頼りなく見え、なかなかその通学路への一歩を踏み出せない。少しの間家の前で朝の景色を眺めていると、斜め迎えの家から男の子が飛び出して来た。

途轍もない勢いの姉に、引くほど怒鳴られている。
思わず声を出して笑ってしまった。

2人のはいた息が白く上ってはリズムを刻む。

あの子は明らかに僕とは異なるタイプだ。重い荷物を持つお年寄りがいたら、荷物だけでなくそのお年寄りまで背負って運びそうな、そんな勢いがあると思った。

近くの茂みに素早く隠れ、息を止め、追いかけて来た姉を上手く巻いていた様だった。一体何をしたらあんなに怒らせることができるのかと不思議に思う。

彼は姉が行った事を確認すると、茂みのさらに奥へ入っていってしまった。僕も茂みの先へ行ってみたくーなり気になってその子の後を追った。
普段ならそんな突飛な事はしないけれど、これが唯一、この状況を打破できる希望のように思えたのだった。

地図は小さく折りたたんでズボンのポケットにしまった。

数十メートル先を陽気に歩いている彼は全く僕に気づいていないらしい。陰には溶け残った雪がまばらに残っているが、塀を抜けていく向かい風のせいで僕の足音は届かない。

僕はまるで、猫でも追いかけているような気分だった。

彼は慣れている様子で狭い塀の間を進んだ。
途中、外に出された苔だらけの水槽にメダカがいたり、大型犬のいる庭があったりした。メダカの方は水の表面が少し凍っていて全く動かなかったが、生きている感じはした。犬の方は犬小屋に小さな氷柱が出来ていたけど、そんな事はものともせず外で生き生きと雪を掘っていた。
見慣れない景色に夢中になり過ぎた。


ドンっと、
曲がり角で追いついてぶつかってしまった。

目が合った。合わせ続けたら狩られそうだったので、直ぐに目を逸らした。本当に猫みたいだ、と思った。


僕「…ん?」
彼「あ?」

目を逸らした先に一瞬だけ何かが見えた。
彼を追い越し垣根の影に置かれたダンボールに近づいた。

なんと、中にいたのは生まれて間もない子猫だった。
子猫が2匹寄り添っている。いつからここにいるのだろう。彼もピンと来ていなかったようだし、割と最近なのか。毎日ここを通るわけではないのかも知れない。
1匹の様子がおかしかった。ピクリとも動かず、ダンボールの隅でうずくまっている。最悪の場合を考えると素手で触るのはどうかとも思ったが思わず両手を出した。
触れてすぐに分かった。
冷たく硬くなっていた。
小さい体を精一杯に振るわせて一生懸命生きたのだろう。まだ小さく何も出来ないこの子達を誰がなぜこんな場所に置いていったのか、水も食べ物もなく、ただ新聞紙が敷かれていた。少しも理解できず考えるほどに怒りが込み上げた。

「大丈夫か」と声をかけられるまで、彼がいたのを忘れていた。残りの1匹はかろうじて生きているという感じだった。
速く暖かいところ、ご飯のある所へ行かないとと考えていると、彼は黙って子猫の入ったダンボールを優しく抱え、あまり揺れないように気遣いながら走り始めた。

僕は冷たい子猫を抱えたまま彼の後を追った。

side.3 夏那人(14)

ヤツは死んだ子猫を大事そうに抱えて無表情のまま涙を流していた。自分のせいではないのに何だかすごく苦しそうだ。

もう一匹はだいぶ弱っているようだが生きている。俺のばあちゃんは猫を飼っているから何とかしてくれるはずだと思い、ヤツも連れてばあちゃんの家まで走った。1秒でも早く猫に飯をやらなければと思った。

空腹は一番の敵だ。

side.2 律

数分後に着いたのは動物病院ではなく、彼の祖母の家だった。彼は中へ入っていき、僕は冷たい子猫を抱いたまま外に立ち尽くしていた。分かっていても暖めようとしてしまう。

side.3 夏那人

ばあちゃんは火・木以外は大体家にいる。やっぱり、今日は水曜日なのでしっかりいつもの椅子に座っていた。じいちゃんは3年前にがんで死んだ。反対側のじいちゃんの席はばあちゃんの宝物だった。だから座ると怒られる。
ばあちゃんに子猫を預けると、ばあちゃんはすぐに猫用のミルクを温め飲ませ始めた。

衰弱していて初めはうまく飲めない様子だったが、何とか生きようと踏ん張っていた。

一息ついてからヤツのことを思い出した。寒い中ずっと立たせてしまっていた。外からくしゃみが聞こえた。

side.2 律

10分くらい経ってから思い出したかのように彼がやって来て「すまん、入れよ」と言った。やっぱり忘れていたらしい。

猫のために夢中になれる彼は良い人だ、と思った。

僕は冷たい子猫を抱いていたので一瞬戸惑ったが、とりあえず入る事にした。

家にはすでに2匹の猫がいて、その猫達は彼の祖母と同じ体型をしている。安心して暖をとるぷくぷくと太った猫たちを見てやっと強ばった頬が緩んだ。

side.3 夏那人

ばあちゃんに1匹子猫が亡くなっていた事を伝えると「うら庭に埋めてやりな」と言った。
ペットは火葬しなければいけないらしいが拾い猫なので仕方がない。ヤツが埋めてやりたいと言うのでタオルと小さなスコップを渡した。

side.2 律

抱えていた子猫をもらった綿のタオルに包んで深めに掘った穴へそっと寝かせ、上から優しく土をかけた。これで土に返してあげられると思うと少し救われた。

side.3 夏那人

ばあちゃんに「学校は?」と言われ二人で慌てて家を飛び出した。通学途中だったのを忘れていた。
初めて見るけどそもそもコイツ、どこの中学だ?とその時思った。

俺「お前何年?」
ヤツ「二年」
俺「一緒じゃん、どこ中?」
ヤツ「、、きさらぎだっけ」
俺「それはあれじゃん、ネットで噂の駅じゃん」

他愛もない話ですぐに打ち解けた。
ヤツは俺と同じ中学への転校生で今日が登校初日らしい。遅れるわけにいかないので二人で走った。

何とか間に合い、ヤツを教務室に送り届けてから自分の教室へ向かった。

side.2 律

来たくなかったはずの学校にいつの間にかついてしまっていた。彼と一緒にいたらそんな事も忘れていた。やっぱり着いてきて正解だった。

先生「はい、今日から新しく2年2組の生徒になります。自己紹介お願いしまーす。」
僕「上月葎です。よろしくお願い」
頭を上げると今朝の彼と目があった。しかも、まさかの同じクラス。
僕「します」

名前は瀬良夏那人(せらかなと)と言うらしい。

彼のおかげでクラスへはすぐに馴染めた。



彼は時々「子猫と一緒にお前を拾ってやった!」と冗談ぽく言う事があるけれど、僕も「あの日、かなとに拾(救)われた」と思って感謝している。


         三、夕涼み

side.1 (17)

なつやすみのできごと作文 

  ながおかはなび       

          一年 あませ のん

 はなびをみにいくまえに、せっかくだからと、ばあやがゆかたをきせてくれました。
 おかあさんが小さいころきたゆかたで、今もたいせつにしているそうです。

 はなびはくもりでなしになりそうだったけど、だいじょうぶでした。おとうさんとおかあさんと手をつないではなびにむかいました。

 おとうさんはポッポやきがたべたくなって、かいにいきました。わたしも大すきです。たくさん人がならんでいたのでおとうさんをまつあいさに、はなびがはじまってしまいました。そのあとおとうさんももどってきたのでいっしょにみました。まえにもみたことがあったけれど、まえよりきれいにみえました。

 とちゅう、おとうさんといっしょにぬけだしたらはじめてまいごになって、おとうさんがおかあさんにしかられました。
 でもさいごはなびがとってもきれいでした。
またいきたいです。




「懐かし〜!!!笑笑」と母が10年も前の作文を引っ張り出して来て、私の拙い文を豪快に朗読し始めたのでとても恥ずかしくなった。
しかも5割は食べ物の話。
でも1年生の割によく書けているよね?

お酒の入った父は昔話が大好きだった。

父「そう言えばあの時、のんは迷子になったんだよね」
母「そうそう!パパとこそこそ金魚掬いに行った後にね〜」
父「ハハハ〜(墓穴を掘った)」
母「あれだけ人がいるから二人して青ざめながら必死に探したのよ?」
父「ママに叱られながらね」
母「当たり前でしょ〜!」
父「無事でよかったよな(涙)」
母「迷子センターに連れて来てもらってね、やだちょっとお父さん泣かないでよ〜(笑」
その後は3人でケラケラと笑った



そう言えば年に一回は必ずそれに似た夢を見ていた。

でも起きると夢の内容が殆ど消えてしまっていて、穏やかな朝だけが残されている。

年々記憶と共に内容も薄れ消えかかっていたせいで、ただの夢だと思い込んでいたけれど、あの夢は現実にあった出来事だったようだ。

できることなら、来年はその優しい夢の内容をしっかり覚えていたい、と思った。


side.2 律(16)

僕が文化祭であれほどまでに動揺したのは、もう会えないはずのあの子が突然目の前に現れたからだった。会いたくて夢にまで見たあの子だ。

面影が残っていて、確かに君はあの子だった。

口から心臓が飛び出たかと思った。

夢に見るほど会いたいと願っていたせいで、
実際に高校生になった君に会えた時は"ついに僕はここまで来てしまったのか(空想の産物か)"と思った。

でも君は確かに目の前に立っていた。

小学1年生の僕は『くじらぐも』を読んで雲をみるのが好きになった。
花火の日は、遠くの空に大きな積乱雲が出来ていた。その積乱雲が徐々に近づいて、花火よりも高く大きくなった時、僕はとても感動した。

初めは家で見ていたが、せっかくだからと両親が車を走らせてくれたので近くで見れることになった。

やっぱり近いと迫力が違った。

花火も終わりかけた頃、同い年くらいの女の子が泣きながら歩いているのを見つけた。僕と目があった人も父親では無いようだし、迷子かなと思った。一度手を繋ぐとその子はぎゅっと手を握り返し離さなかった。

時々ふわりと風になびく髪が頬に当たりくすぐったかった。淡い水色の浴衣がよく似合っている。

僕は君に一目惚れをした。

君は落ち着くと、何を話せばいいか戸惑う僕を見て楽しそうに笑った。

そして目を輝かせながら最後の花火を見ていた。僕はもう少しこの時間が続いてほしいと願いながら、最後の花火を見た。

親御さんが見つかり、手を繋いだまま迷子センターへ向かっている時も、わざと少しゆっくり歩いてみたりした。
遅すぎたのか心配した母が「りつ〜!」と叫びながら近づいて来たときはとても焦ったのを覚えている。
我ながら相当かっこわるい。

別れ際に「ありがとう!」と言ってあの子が2匹の金魚をくれた。センスがない僕は結局いい名前が思いつかず、いつも"君たち"と呼んだ。
とても大切にしていて、9年経った今も生きている。
金魚鉢ではとうの昔に肩身が狭くなり、3年目に大きな水槽へ引っ越した。

僕は高一の時と比べてもかなり背が伸びたし、今では小さかった僕を知る親戚に会っても皆が揃って"誰だ"と言う顔をする。
まして、1時間も一緒にいなかった君は僕の事など覚えているはずがなかった。

         四、最終便

side.4 宗一郎さん(73)

妻はくしゃっとした笑顔で「声を掛けるのは遠慮しましょう」とイタズラっぽく言いました。

彼の方にも、彼女の方にも、重い荷物を親切に席まで運んで頂いたことがありましたし、私達は彼らの事をバスで何度も見かけていたので、降りるバス停を何となく覚えていました。
なので、起きそうにない彼らを起こしてやった方が良いのではないか、と妻に相談しました。すると妻がそのように言ったのです。

私が理由を尋ねると、妻はニコッと微笑んで「こう言うのもいつか思い出になるものなのよ、宗一郎さん」といいました。

確かに、私にもそんな思い出はたくさんあります。今となってはなかなかいい思い出です。
妻とのそんな思い出も数えきれず、パッと思いつくものでも『新婚旅行、玄関にパスポート事件』や『授業参観スリッパで転倒、小指骨折事件』などがあります。
どれも賑やかな見出しです。

これに比べればバスを降り過ごす事は、可愛いハプニングのように思えて来て、私は妻の意見に賛成し自分たちのバス停でバスを降りました。

降りてからやっぱり少し気になって、離れて行くバスを振り返って眺めると、先を歩いていた妻が「お夕飯は揚げ野菜と温かいお素麺にしましょうか」と言いました。
私は何とも単純な男なので、その一言で早く家へ帰りたくなりました。
妻は私をよく分かっています。

病院で思わしくないと言われた膝は嘘のように軽く、しっかりと地面も捉えていました。


side.2 律 (18)

先に降りるはずの君がまだバスに乗っている、と言うか眠ってしまっている。ガラスに映る君はバスに頭を寄せていた。
2人とも降り過ごしてしまったらしい。
あまりに綺麗な顔で眠っているので思わず息を呑んだ。いつもなら間違ってもこんな事はできないが、僕はその席にいる君に直接目をやった。
ガラス越しでは分かりづらい髪の毛の柔らかさや肌の色、艶やかな唇を見て僕は動揺した。



高揚感に浸っている場合ではなかった。
........。


外は真っ暗になっている。
うたた寝をしている間に、君のバス停から9つ、僕のバス停から7つも先に来てしまったらしい。
しかもこのバスは最終便で、別ルートを通って帰るためこのまま乗っているわけにもいかなかった。


僕は席を立った。

side.1 (18)

ドーンパチパチと花火が鳴る

壁に引っ張られた
壁達は上を見上げるばかり
下にいる私には気がつかない

私は必死に壁を引っ張るが
また戻されてしまう

この壁は知らない壁だ
迷子だった
声も出せず恐怖に手が震えている

ドーンドーンと花火が鳴る

明るく光ったものが近づいてきて
私の手を引くと
壁から反対の手が抜けた

光っていたのは同い年くらいの男の子で
いつの間にか後ろの壁は消えていた

銀灰(ぎんかい)色の綺麗な瞳

その子は私と目が合うと
澄んだ声で「行こう、」と言って
優しく微笑み手を引いて歩いてくれた

静かな丘まで行くとその子は
私の背中をさすりながら
「大丈夫だよ」と繰り返した

だいじょうぶ、だいじょうぶ
すると本当に、大丈夫、と思えた

もう怖くない

安心して顔を上げて
私たちの真上の空いっぱいに広がった
打上花火を見た


   .′     .    .
'  *  | .  ° ″
・ー. * *ー ′
′     *  |  .    ′.
″    .     *
*        
*
:            
.

綺麗な花火はゆっくりと落ちて
私たちを包んだ

花火の残像を見るその子の目には
沢山の星が降っていた

「..の、あの...」

......?
あの日に見たこの景色は
とてもあの絵に似ている気がする

「...ぁの...いませ......」


遠くから呼ぶ声が聞こえる

知っている声
低いけれど確かにあの少年の声


手に持った金魚袋で
季節外れのヒナゲシが跳ねた


「 ........ 」
「あっ、おきた..」


目を覚ますと、
前の席にいたはずの君が私のすぐ前にいた。





これはまた別の夢だろうか、

夢だと言うのに
一瞬あった目はもう逸らしてしまった。
夢だと言うのに。

もう一度目を見た。
むりだ。
声も出ない。


たったの50cmの距離、
心臓がものすごい速さで動き始める。

'.     '.    '.   '.  '. '. '.'.'.'.'.'.'.'.'.'.'.'.'.'.'.'…


私は相当驚いた顔をしているらしい。
彼はニコッと笑い俯(うつむ)いた。

「もしかして、降りるバス停過ぎてませんか」

....?

言葉を理解するのに途方もない時間がかかったような気がする。けれど、彼は待ってくれていた。

確かに、微かに見える外の景色は全く見慣れないもので、本当に知らない所まで来てしまっている。

現実..?
疑ってこっそり手の甲をつねってみた。

痛い、‼︎.....

「このバス戻らないので、迎え頼んだほうがいいかもしれないです。お迎えどなたかに頼めそうですか、」

現実...。
君が目の前で話している。
君が、、?目の前で、?
話している。

本当に丁寧に話してくれる。
なのに私は声が出ない。


今日は両親共夜勤の日で迎えに来る人はいなかった。

私は君のワイシャツの第2ボタンの辺りを永遠と見る事で精一杯だった。どうしたらいいんだろう、問題は帰路よりも今だった。

思考をフルに回転させ、なんとか「歩いて帰ります..」と答えると、彼は申し訳なさそうに「僕も同じなんです、迎え頼めればよかったんですけど、すみません、」と謝った。

いつも、君が後に降りるので分からなかったけれど、どうやら彼もバス停で降り損ねてしまったらしい...寝過ごしたんだな...尊い....。

君は私の目を見て話そうとしてくれているのだと思う、単純な動作すら今はとても難しい。

side.2 律

僕が謝ると君は少し考えてから、私こそ、と言わんばかりに頭を下げた。

困っている..可愛い..。

でもどうしよう、さっきから全然目を合わせてくれない、急に話しかけて怖がらせてしまったんだろうか、、

君が少しハッとした様子で「降りますか..?」と言ったので、僕もハッとなってやっと降車ボタンを押した。

自分から話しかけたはいいが、今にも心臓が破裂しそうだった。むしろよく生きていると思う。

次のバス停に着くと2人でバスを降りた。
前を歩く君は2年前より小さかった。

山の上にはいい風が吹いていた。気温も丁度いいし、葉の擦れる音が心地良い。
今が夏で本当によかったと思う。
冬だったら鶴のように民泊させてもらう事になっていたかも知れない。

気持ちよくて僕が伸びをすると、君も前で伸びをしたので慌てて目を瞑った。もっと気をつけないと、君はスカートだった。

引っ越して来てから5年経つが、こんな所まで来たのは初めてだった。家の明かりはまばらで、夕飯の匂いが優しく流れている。もうそんな時間だった。

道路は広めに整備されているが街灯は少ない。
その代わりに月の明るさがよく際立った。
水が綺麗なのか無数の蛍も夜道を照らしていて、それを見る君はとても嬉しそうにしていた。虫は平気らしい。その笑顔はとても愛しく、ずっと見ていられると思った。

そういえば蛍を見るのは久しぶりだ。
君の頭に蛍が乗った。



side.1

夏夜(かや)をスーと通り過ぎる風に乗って、眠れない蝉達の声がこの森全体に響きわたる。気持ちが良い。

沢山の光が漂っている、まさか蛍を見られる夏になるとは思ってもいなかった。
バスで少し来るだけでこんなにも違うものなのかと驚いた。

「あのっ、」と言って君は続けた。
「バスで結構来てしまったみたいです。歩くと4時間はかかると思います。時間も時間ですし、タクシー呼びましょう。」

そんなに⁇??‼︎と、声が出そうなるけれど
君は冷静だった。

君はやっぱり目を見て話そうとしてくれている。
目が合っていなくても分かる、綺麗な目でそんなに見つめないで欲しい。

「タクシーを呼べる程持ち合わせがない」と話すと、「僕、出すので、」と言った。しかも「自分は体力作りで夜走る事にしてるので、距離も丁度いいし走って帰ります、男だから夜道も心配ないですし」と付け足した。

人数によってタクシー代が変わるわけではないけれど君は私に気を遣ってそう言ってくれたのだと思う。

でもさ、
君みたいな美青年は簡単に拐われてしまうぞ?
と思った。

そんな危険な事はさせられない。

side.2

迎えは頼めないが、タクシー代を払えるくらいは持ち合わせがあった事を思い出し、タクシーを呼ぼうと思った。
今は7時半、距離は20キロ弱程あるだろうし、遅くなってしまうことも、君の体力も心配だった。

やむを得ない状況ではあったけれど
同級生と言っても男とタクシーに乗るのはあまり良いイメージがないだろうし、彼女だけをタクシーに乗せて、僕は夜の日課にしている10キロのランニングを帰路で行ってしまおう、と考えた。

できる事なら、1秒でも長く君といたかったが、我ながらこれは正しい選択でかなりの名案だった。

なのに君は「歩きます」と言うと
返事も待たず、
先に歩き始めてしまった。

あらあらあらあら、
これは想定外だ。

どうやら僕は言葉選びに失敗したらしい。

返す言葉が思いつかない。
これは..どうすればいいんだ..

僕はすごく嬉しい、でも、そうじゃないんだ‼︎と、心の中で叫んでいたが、何を言っても引き返さない、と君の背中が語っていた。

見失っても悪いのでとりあえず彼女の数メートル後ろを歩いた。使えない僕の頭...と思った。

歩き始めて少し経つと、頭を抱える僕の横を「ニャーニャー」と呑気に黒いものが通り過ぎていった。
何々、、

するとすぐ、街灯の弱い灯りでもそれが夏那人祖母宅の"くろまめ"だと分かった。

見つけた時はまだ目が開いていなかったけれど、数日して開いたその目は黄色と水色の綺麗なオッドアイだった。あと、くろまめは耳に変な折れグセがあって、片耳だけいつもパタンと折れていた。
僕たちが拾った猫はかなり個性的だった。

確か、折れてしまう耳は遺伝性の病気の一種だった。病気と言ってもハコティッシュなんとかって言う猫はほとんどがパタンと折れた耳を持っているので、本人が平気そうであれば様子見で良い、と先生が話していた。くろまめはハコティッシュではないが片耳だけ折れているのだった。

久しぶりの再会に嬉しくなって(大きくなったなー(横に))などと1人で考えていたが、くろまめは僕をスルーしていった。薄情..。

と言うか驚くべきで、
全くそう言う状況ではなかった。

至って健康そうだし、祖母宅までもここから20キロ程だという事を踏まえると、僕達と同じバスに途中から乗って来たと考えるのが自然だった。


side.?

「バスの車掌さんが最近猫に悩んでいるらしい」


いつかのバス停で後ろから聞こえてきたこれは事実だったらしい。くろまめはバスが好きなんだろうか、

前を歩く君はくろまめに気づくと急にしゃがみ込んだので、僕は危うくぶつかる所だった。
くろまめは彼女の膝に手を乗せ抱っこしてくれとアピールした。

なぜ僕を見る、そんな卑しい顔で僕を見ないでほしい。

くろまめは小ぶりな体にパンパンに身が詰まっているという感じで、抱き抱えて歩く彼女はとても大変そうだった。
でも、くろまめが下ろしてくれと鳴くまでの10分間を耐え抜いた。

下り坂の林道はまだ8時になったばかりにも関わらず、車がポツポツとしか通らなかった。

僕は並んで歩く君達を見ながら昔のことを思い出していた。
そう言えば、君と一緒に歩くのは実はこれで3回目だった。


くろまめは静かになったと思うと時々「ニャーニャー」と鳴いて存在をアピールした。

side.1

歩きはじめたはいいけれど私は後ろを振り返れなくなっていた。また2年前の文化祭を思い出す。

この猫ちゃんは、なぜずっとついてくるんだろう。
抱っこをせがまれたので期待に応えると、鳴くのもやめて大人しくなった。なんだかとてもモチモチしていて癒される。ものすごい安心感...この子もまた、君と同じく綺麗な目だった。

しばらく歩いているとだんだんと夜に慣れてきた。はじめよりもよく見えて歩きやすい。

おろしてくれと鳴いたのでやっと両腕が解放された。もう少しで取れるところだった。

いなくなったのかなと思うとまた時々「ニャーニャー」と鳴いた。



ふと後ろを歩く君の足音が止まった事に気づく。
不安になって自然と振り返った。

君は立ち止まっていた。
私と顔が向かい合うと君はニコッと微笑んで天を見上げた。私もつられて上を向く。


`‘''.'...'..“`".✳︎
“`"..✳︎.'..“`".`‘''. “`"...'
“`"... “`"...'..“`   "✴︎.`●‘''.'..“`".`‘
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..'..“`✴︎".`‘''.'...'..“`". ★三..
“`".. .'..“`".`‘''. `‘''.'...'..
“`‘''.'...'..“`".



「..........すごい」

そこには、
息を呑むほどに美しい闇夜が延々と広がっていた。


18年で見てきた全ての星を合わせたよりも、もっと多くの星が見える。今にもここへ降ってきそうだった。


このままずっと見ていたい。

ほとんど光のないこの林道には
どこよりも光があった。


彼は夜空を見上げたまま
「まだありがとうを言っていなかった」と言った。

ありがとうは自分が言うべき言葉だったので、私は分からずに君の方を見た。

糸を張ったように、ピン、と目があった。

初めてきちんと目を合わせられた。
君の瞳に吸い込まれそうだ。

鼓動がどんどんと速くなるのが分かる。

君は一度目を逸らし、また真っ直ぐに私の目を見た。
心臓が止まったかも知れない。
一度刺さった剣が抜かれ、また刺された、ような、、私は君に釘付けになった。

君といると私の心はかなり饒舌(じょうぜつ)になる。


「2年前の文化祭で君は困っていた僕を助けてくれたんだ」

私には上月葎さんを助けた覚えがない。
だって、私が日向以外に話した相手とすればあのゆるキャラ、くらいだもの...。

.........

私の顔を見た彼がニコッとした。

そのまさかだったようだ。

今度は心臓をえぐられた。
だってこれは、私が"絵の作者に出会えた"とはしゃいでいたそれ以前に、作者には私の顔が知られていた、と言う事だからだ。

耳がかっと熱くなった。

side.2 夏那人

これまで話していたのは、ほとんど僕だけだった。本当に怖がらせてしまったのか不安になった。

side.1

この状況にいつまでも慣れないせいで、君と会話らしい会話を出来ていなかった。私が口下手というのもあるし、何しろ相手が君なので、
私は口をひらいて何を言ってしまうか心配だった。

君が前髪をかき上げたので何となく、この状況に参っているのだと分かった。クールな君はそんな風に困るのか、と思うとつい尊さにクラッとした。

考えている、という顔だった。

side.2 夏那人

僕が面白い顔でもしていたのか、君は僕を見てクスクスと笑った。

理由は兎も角、笑ってくれてとても安心した。僕もつられて微笑んだ。
君のおかげで場が和む。

くろまめの事を話題にすると、くろまめは闇の中から「ニャー」と声を聴かせ、それが面白くて2人でくろまめの話をした。

僕は普段から話す方では無いけれど、君とならいくらでも話していたい、と思った。
あんなに恥ずかしそうにしていた君が少しずつ話してくれるようになって、それからは僕が君の話を聞いた。

趣味や部活の話、(共通の友人⁇)立花日向さんの話、今日の話、夏休みの話、最近見た映画の話から食べ物の話になった。
立花さんと食べ物について話している時は特に目を輝かせていた、つい口を滑らせ(可愛い...)と言ってしまいそうになる。君との会話は癒されつつも常に危険と隣り合わせだった。

食べ物の話題の時君は「映画に出てくる食べ物はなんであんなに美味しそうなのか」と話した。
黒トリュフのタルティーヌとサントノレ(???)や、誰もが知ってるはずのあの目玉焼きパンと肉団子スープ、例のターキッシュデライトや魅惑の車内販売、綺麗なラタトゥユから素朴な桜でんぶのお弁当まで、色々なものが上がった。
僕もいくつか知っていて(分かる...!)となった。



君と話せる事が嬉しくて
すっかり時間を忘れていた。

気づくと、くろまめが前を歩き、
僕らは横に並んで歩いていた。

なんとなく君の歩くペースが落ちた気がして時計を見ると、あれから2時間も経っていた。君が疲れるのも無理はない。
2時間がこれほど早く過ぎるものだと言うことを長い間忘れていた。

疲れていても君は相変わらず穏やかな優しい笑顔を見せて横を歩いてくれている。それは言葉には表せない尊さだった。

林道の途中に自販機を見つけ、そこで休憩することにした。くろまめには水。君はポカリスエットを選び、僕はアクエリアスを買った。君は恥ずかしそうにありがとうと言った。

くろまめに水分補給をさせた後、僕らはガードレールに座りそれぞれ飲み物を飲んだ。
何かたりないと言ったようにくろまめは不安定な膝に飛び乗って爪を立てた。なでて欲しいらしい。

深呼吸をして空を見上げ飲み物を飲んで一息つく。

そこでやっと、お互い名乗るのを忘れていた事に気づいた。君は僕の名前を知っているという風だったので驚いた、立花さんかな。
僕は11年越しに君の名前を知ることができた。君が迷子になっていたあの時は、僕も色々といっぱいいっぱいで名前を聞ける程の余裕がなかった。

君は、天瀬 音(あませ のん) と言った。
名前まで可憐.......。

お互いを天瀬さん、上月さんと呼ぶことになった。
いいんだろうか。夢か。
幸せすぎて、後で訴えられたりしないだろうか、
なんて本気で邪推してしまう。

それでも喜びが溢れ無意識にもくろまめを手荒く撫でてしまったようで、引っ掻かれて手の甲から血が出た。
なんとも信じ難いがこれは現実だった。

天瀬さん....
頭の中で練習しても本番は中々訪れなかった。

深く息をして、澄んだ空を見る。

天瀬さんが横にいるだけで、僕にはこの静寂も十分に意義のあるものだった。

時間が増して緩やかに流れる。
もっと穏やかでいいと思った。



天瀬さんがゆっくりと話し始めた。

「そういえば上月さん
 長岡花火、見たことありますか」

急な展開に驚きつつ
「何度かありますよ」と応えた。

すると彼女は何かを確信したように深く息をついた。


2人「とっても綺麗ですよね」
 声が重なった。

僕は君の声を聞いて、黙って歯を食いしばった。


そうでないと、多分


「私はずっと、

泣いてしまうと思った。

 上月さんの夢を見ていたんですね。

 さっきバスでもその夢を見ていたんです。
 見たい見たいと思っていた夢、
 ずっと前から繰り返し見ている
      とても愛しい夢なんです。」


君の目が潤んできた。
どうしよう、
君が泣いてしまう。

君は分かってしまったんだろうか。

「さっき、
 夢の中に上月さんの声が響いた時
 金魚の事も鮮明に思い出して、

 自分で書いた作文を読んでも
 全然ピンと来なくて、
 迷子になった時の事も
 怖くてあまり覚えていなかったけど
 上月さんの声がして思い出せたんです。」

そう言う君の手は、あの時のように小さく震え、目からは涙が溢れていた。


無理もない。
大きくなって分かったことだが、あの時君は多分誘拐されようとしていた。長年忘れていた、思い出さないようにしていた記憶を、僕が引っ張り出してしまった事に気がつき苦しくなる。

君を拐おうとしていた男は逃げた君を追って来たのだろう。君の手を取った僕と目が合うとおどおどとした様子で人混みに消えていった。一瞬でも父親かと思ってしまった事が恐ろしかった。

ゆっくりと震える彼女を抱き寄せる。
君は僕の胸に額を当ててすすり泣いている。

僕が謝ろうと口を開くと
彼女は俯いたまま顔を横に振った。

僕は涙がこぼれないように上を向いた。

君が落ち着くまで頭を撫でて背中をさすった。
震えも止まり泣き止むと、彼女は俯いたまま小さな声で言った。

「 ありがとう 」

僕はやっと君に会えた....改めてそう思うと両目から涙が溢れた。

side.1

思い出して怖くなってしまった、けれど
あの時と同じだ、とても安心する。
あの時と違って、君はとっても背が伸びたね。

君は、思い出さなかった方が幸せだった、なんて思うかも知れないけれど、私は君を思い出せない事の方が、よっぽどつらかったと思う。

だからまた、こうして出会えた事が本当に嬉しい。
嬉しくて涙が止まらなくなってしまう。

君は私を救ってくれのだから。
それに君のワイシャツは本当にいい匂いがした。



side.1

あれから光の林道を抜けて、明るい夜道を歩いた。
残りの道のりは数秒のように感じられ、あっという間の4時間半だった。

君はどうしても私を家まで送ると言ったので、言葉に甘える事にした。でも君ならそう言ってくれるんだろうと思った。

それからの数日は足が筋肉痛だった。治るのが寂しいと思った筋肉痛は初めてだった。

怖い経験は消えないとしても
それを上回る君の存在があった。
これがどんなに凄い事なのか、
私はゆっくりと考えていた。

君に優しく掬ってもらった事を思い出す。

side.2 律

結局、君の家に着いてからも1時間は一緒に過ごしたと思う。君との事を心に刻んだ。

君からの別れの挨拶は「またね」だった。
これほど特別な言葉は他にないような気がした。

家へ帰ってからも少しも眠くはならなかった。

君は「絶対に自分を責めたりしないでほしい」と言った。「君に救われたのだから」と...。君は僕のことをよく分かっているみたいだ。

これは運命なんかではなく、僕たちの意思と決定だった。

それから少しの間、くろまめはうちに居候した。
あの子に抱っこされた事、僕はまだ根に持っているからな、なんて言いながら残りの夏休みをくろまめと過ごした。
僕は軽い猫アレルギーなのでたびたびくしゃみがでたけれど、そんなことはもう関係なかった。

         五、後(のち)

side.4 (73)

あれから三週間、あの時のことを思い出しては大丈夫だったかと心配していたのですが、今日、妻と共にバスへ乗り込むと私たちには思いもよらぬプレゼントが待っていました。

二人が並んで座っているのです。

横向きのシートに座っていて、間にひとつ席が空いていましたが、楽しそうにお話ししていました。

いつものように前の席に着くと、妻は誇らしそうに満面の笑みを浮かべました。とても可愛らしいです。

「今日は荷物も少ないし身軽だから、間に座ってきちゃおうかしら」なんて小声で言うものですから、私はその冗談を本気にして、とても慌てました。彼女はそんな私を見てクスクスと可愛く笑いました。

妻はバスを降りてから「あの子達、私たちに似てるわね」と言いました。私も同じことを考えていました。
あの子達はどこか私達に似ています。


「桜子さん、今日の夕飯は何ですか」
「今日は宗一郎さんのだいきなものですよ〜」

何となく膝はもう、大丈夫な気がします。



おわり


おまけ

side.5 クロマメ(16)

「君たちもあれからまた随分と大きくなったね」
僕がそう言うと、24歳になった君たちは「君が水嫌いなお陰だよ」と冗談を言って笑った。金魚たちに会うのは10年ぶりだ。歳も取る訳だ。

ばあちゃんは相変わらず元気だが、餌を沢山くれたり忘れたりするようになって、僕は今日からここの家族になった。
繰り返すがばあちゃんはとっても元気だ。音歳83歳、グループホームでは「まだまだこれからだ」と言って毎日張り切っているらしい。

金魚はずっと前からヤツの宝物だし、まあ先輩なので、決して食べたりはしないと堅く約束した。
最も、金魚の夫婦は高齢で脂も少ないだろうし、綺麗な割には美味しくなさそうで助かった。

これから3匹仲良く日向ぼっこをする。

side.6 金魚たち(24)

私達はほぼ食べるか眠るかして過ごしている。

今日もご飯をもらったので、これから健やかに過ごすため穏やかに眠る。今日からは黒猫も一緒だ。

私達は3人と3匹家族になった。

side.7 (5)

「ぱぱぁままぁみて!!わたしね、ねこさんときんぎょさんのえかいた〜!!!じょうず?」

side.1.2 (30)

「「あれ?絵のきんぎょさん、猫さんに食べられてるよ!??」」

side.5.6

「「!?!?!?」」

桜の木も蕾もまた暖かい色に染まり始めました。

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