「なぜ詐欺師や教祖様の話は魅力的⁉」善人ほど口下手な理由
20代の頃のライター見習い時代に、そのとき師事していた男性から洗脳された経験を昨年の10月に投稿した。
人間心理の研究が三度の飯よりも好きなので、いろいろな記事を読み漁ったり動画を見たりしていると、あることに気づいた。
人をだますのに長けている詐欺師や、信者をどんどん増やす教祖系ビジネスの人ほど自分に対して疑いがないということだ。
自己主張が強く声も大きい。
客観的に見てうさんくさかったり「そんなこと言ってヤバくない⁉」と思えることでも、本人が正しいと信じ込んで自信満々に語ることで、相手を説得できる。
繁華街のカフェに行くと、必ず怪しい輩が不器用そうな人に対して何かプレゼンとしている。
傍から見ると「詐欺師と一目瞭然なのに」と思うが、話を聴いている人の視点に立つと「説得力ある話だ!」と目を輝かせているのかもしれない。
孤独な人は詐欺師に狙われやすいので、注意が必要だ。
もしかすると思い込みが激しい人ほど、詐欺師や教祖ポジションの適性があるかもしれない。
詐取をいとわないヤバい人たちは、自己肯定感がべらぼうに高い印象を与える。
もちろん本当に自信がある人は、誰かから詐取や搾取しようとせず自然体で謙虚なのは間違いない。
しかし劣等感が強い反面、自己肯定感が高い人は、常に誰かを取り込もうとしたり賞賛を浴びるような行動をとりがちである。
彼らは「本来は自信のない自分」を偽るためには、キャラを作って自信満々の自分を演出する必要があるのだ。
この行為はきわめて強迫的で、当人にとって大きなストレッサーであることも少なくない。
ナルシストが依存症になりやすいのは、大きな矛盾を抱えつつもそれを悟られまいとして振る舞っているからだろう。
自己愛者は「いつか自分の本当の姿を見破られるのではないか?」と葛藤を抱えていることが少なくない。
太宰治の『人間失格』の主人公のように、常に怯え「バレるんじゃないか⁉」とドキドキしているのだ。
そういった歪な自己愛を抱えるナルシストに取り込まれる人は、総じて自分に自信がない。
20代の僕がそうだったように、どこかで救いを求めていたり、依存心が強いとまんまと輩につけ入れられる。
オウム真理教の麻原彰晃は、最盛期に1万人の信者の頂点に立った。
麻原は冷静に見れば、清潔感のない太った中年男性なのだが、彼は「自分ほど、すごい人間はいない」という妄想や自己暗示が強かったので、強烈な言霊を吐くことで数多の迷える子羊たちを惹きつけ懐柔した。
麻原の根底にあったのはルサンチマン。
カルト宗教による、前代未聞の国家転覆騒動は彼が持つ強烈な社会へ恨みによるものだ。
僕が過去に出会った詐欺師や教祖ポジションの人々は、ときにユーモアを交えながら魅力的な話をするのに長けていた。
反対に搾取されやすい人は、口下手が多い。
なぜなら「自分はこんなことを言う権利があるのだろうか?」「こんなことを言って大丈夫だろうか?」などの葛藤を抱えながら話すので、立て板に水とはなりづらい。正直者なので、自己対話による葛藤がしゃべりに出やすい。
つまり洗脳をしかける側も、しかけられる側も本質的には自信がないという共通点があるのだ。
洗脳したい人も洗脳されてしまう人も、根底ではどこか重なる部分があるのかもしれず、それゆえ引き合うことだってあるだろう。
四十数年生きてきてたどり着いた結論だが、過剰な魅力を放つ人間は警戒するし、すぐには信頼しない。
洗脳を得意とする人間ほど「魅了すれば対人操作が容易になる」と熟知しているからだ。
反対にどちらかというと地味で朴訥で、口下手な人ほど正直者なので信頼できる。
「口下手=善人」とは限らないので、他の要素も確認しなければならないのは確かだ。
とはいえ弁舌が巧みで自己陶酔が常態化しているナルシストより、訥々と一生懸命話そうとする口下手な人の方が信頼が置けるのは確かだろう。
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