繊細さんを描いた映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」
映画の予告編を見たとき、年に何度か「これは自分が見に行った方がいい映画だ!」とインスピレーションをもらうときがあります。
先日、鑑賞した『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(以下『ぬいしゃべ』と略します)は、まさに「見たい!」となった映画で、ずっと気になっていました。
原作は大前粟生さんの書かれた小説。
大学のサークルで「ぬいぐるみとしゃべるサークル」というのがあり、「ぬいサー」と呼ばれているのですが、ここに集まる人が例外なく繊細な人達。
部員は、ひしめきあっている、ぬいぐるみの中から「今日はこの子と会話したい!」という一体を選び、ぬいぐるみに話しかけます。
お互いの秘密を守るため、部員はイヤホンをして他の部員の会話を聞かないようにするのがルール。
イヤホンは自分の意思でオフにできるので、ある意味、部員同士の信頼で成り立っているルールですね。
「ぬいサー」はピットインできる場所?
繊細な人達が初対面で配慮し合う、独特の空気感は何度も体感してきましたが、それを見事に再現されていました。
「ぬいサー」は、所属部員にとって癒しの場所。F1レースでいえばピットインのようなところです。
しかしずっとピットインしていては、レースに戻ることができません。
社会という情け容赦のないリアルの中で、「繊細な人達がどのようにしてい生きていけばいいのか?」を問いかける作品でした。
既存のエンタメフォーマットがない心地よさ
あと、驚いたのが最近のエンタメはフォーマットがあり、早い段階で見所の提示や、劇的な展開が起こり、ぐいぐいと観客を巻き込んでいくものが少なくありません。
『ぬいしゃべ』は、あえてそういったエンタメのフォーマットにのっとらず、ゆったりと進んでいきます。
誰かが大病を患ったり、死の危険に直面するような大きな展開はないものの、登場人物の多くが何らかの生きづらさや葛藤を抱えながら暮らしており、その様を丁寧に描いていました。
生きることは誰かを傷つけること
監督の金子由里奈監督は、こちらのサイトのインタビューで
無自覚な加害性について触れておられます。
HSPや繊細さんと呼ばれる人達は、弱者ではなく弱者のポジションを取った強者だという論理を展開する人がいます。
誰もが状況によっては加害者になったり、被害者になったりするので、視点をどこに置くかで解釈が変わるのは理解できます。
主人公の七森くんや同級生の麦戸さんは、「しゃべることで誰かを傷つけるんじゃないか?」と思い悩むようになり、やがて外に出られなくなっていきます。
ぬいぐるみ相手であれば、愚痴や重たい言葉を吐いても、誰も傷つけないものの、人間相手に何か語ることは傷つけることと同義であるという悩みを抱えます。
本作のテーマのひとつは「対話」。人は対話することで癒しを得ることもあれば、対話によって傷つくこともあります。
インタビューの一部を引用させていただきましたが、大前さん、金子監督が語る言葉は、驚くほど丁寧で繊細です。言葉に知性が宿っています。
たくさんの内省を重ねてきた人でないと、アウトプットできない言葉が紡がれており、こういう感性の人達だから生み出すことができた作品だなと実感しました。
「面白かった」ではなく「ありがとう」
こちらの映画を見ようと思った理由のひとつに、過去に会った人間で、ふだん空気を吐くように人を傷つける人がいたのですが、この人が無類のぬいぐるみ好きで、「ぬいぐるみと一緒にいるときが一番安心する」と言うのです。
この人は八つ当たりが激しく人に当たり散らさないと生きていけないタイプなので、なるべく近寄らないようにしていましたが、加害や他害、心のバランス、自分らしく生きることなどについて考えるきっかけを与えてくれました。
金子監督の「存在を頷く」という言葉の深み。無敵の人と称される人々は、存在を無視され続けたがゆえに凶行に及ぶケースが多いのでしょう。
対話する相手がおり「存在を頷いてくれる人がいる」というのは、生きる上でとても重要なこと。
監督が劇場へ来場した際のサイン会で、金子監督に「面白かったです」ではなく「(素晴らしい映画を)ありがとうございました」とお礼を伝える人が多いそうです。
これまで存在を認められなかった人達
こういうカテゴライズの難しい映画が上映されており、観客に届けられるということに希望を覚えました。
「世の中には、可視化されていない存在がたくさんいる」と語る金子監督。
思えばHSPや繊細さんも、ずっと存在し続けていたものの、中々可視化されない苦しさがありました。
これからますます多様化が進む社会で、今まで常識や当たり前を疑わなかった人間から無視され続けた人達に、光が当たる機会は増えそうです。