見出し画像

怒りに負けない自分に(視野を広げること大切)


人間だから嫌なことも、怒りが溜まることもあります。
でも迷惑は掛けたくないし、心配もされたくない。

と今現在の私は思います。

私は若かりし20代の頃、希死念慮がありました。

自分のことが1番嫌いで

世の中の誰のことも信じられませんでした。

世の中のすべてが嫌いで
それ以上に自分のことを
憎んでました。何もかも嫌でした。

この世に失望していて
なるべくなら早く
消えたい。いなくなりたいと
思っていました。

「何か」にとても追い詰められたような、とても余裕のない状態で、心が恨みでいっぱいになり、世の中にも自分にも絶望して死ぬことを考えてしまう。

そして悔しくて
裏切った相手、酷いことをした相手を許すことなんて考えられなくて
誰でもいいから危害を加えたいという
そういった心理になることもあり、

自分でも、これはやばいと思っていたけれど

何かに取り憑かれたようで

その考えから
抜け出せなくなっていました。



どうしてそんな風になっていくのか?

まず、自分が「しあわせ」や「希望」から

かけ離れた存在になってしまい
(そうしか思えない状況に追い込まれる)

「大きな愛」からも離れたような
感覚に陥いる。

その時は
確かに、周りに仕向けられるように
そういう状況、環境になっていくのだが
それは周りだけのせいとは言えなかったと思う。


向きを変えて
振り返ってみるだけで、
すぐ側に「愛」は
あったはずなのに。

その時は、それが見えない。

人を、社会を愛せないということと

恨む心が蓄積していく。

そして、そういう自分のことを1番恨んで生きていました。

悲しくて寂しくて
消えたいのに、それが出来ない。

世の中のことも恨むしかない。

そうすると

本人の純粋だった心に

魔が宿るようにも、なります。


それはもう

苦しいだけのこと。

今、思えば自分を

とてつもなくイジメている。

こんな悲しいことはない。

そんな悲しいことは、やめたらいい。


不思議なことに
その時は
優しい人もいたはずなのに

それは目に入らなくなる。

愛も感謝も届かない。

そういうの

嫌いだと思ってしまう。

でも、どんなに頑張っても

感謝や愛が好きになれず

だからといって

魔を味方につけようとしても


滅ぼされるだけで。


でも、その時は気がつかない。

結局、自分が滅ぼされるだけで

苦しいだけで


不幸にされて


ボロボロに使い倒された後は

捨てられる。

捨てられなかったら


命も魂も 奪われる。

魔の存在は


破滅の道にしか連れていかない。




非常に、大変でした。


前に「劣等感の克服」というnoteを書いたのですが

その中に書いてますが


まだ若かった20代の時に
精神病院に入院することになりました。


破滅とか破壊とか魔とか
知らない間に、その世界に居たので

もう、怖すぎて

人間の居られる世界じゃない。

大袈裟だけど

死ぬか生きるかの状態で


自分にも、自分が嫌いなことにも
恨みにも憎しみにも

その時のすべてに

もう、うんざりして


振り祓うように駆け込みました。


そして、治療していくと


諦めて潔く生きることを考えたい。
と思いました。

視野を広げ

視点を変えて


自分を変えて生きるしかない。
と思いました。

それで視野を広げてみたら

いろいろなことがわかり

人生の謎が解けていきました。


長かった。

解るまで。



怒り、恨みなどのエネルギーを
コントロール、あるいは浄化出来ないと

魔に使われるだけなので

奴隷にされてる人も多いので

それは自分にとって損で

非常に

「もったいない」

なので

視野や知見を広げて

生きていたいですね。


あのとき

精神科に入院したことは

私にとっては

その経験も本当に大切で

ありがたいことでした。


ただ、

私は黙っていられない性分で

note書いてます。



必要な方の元に記事が届きますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?