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病気のこと、人生のこと。

8割方そうであろうと今言われている私の病気は乳がんです。
今日は長年診て頂いているメンタルの定期受診でした。
この話を避ける訳にもいかないので、現状をお話しているうちに、
また泣いてしまいました。

大病するとやはりメンタルにも影響があるので、
先生はがんがきっかけでメンタルに通い始めた患者さんも
たくさん診てきたそうです。

「取らない選択をした人は皆後で後悔している、命が1番大事、取ればほぼ良くなる」

今が死にたい程辛い訳ではないけど、
そうまでして、胸を切ってまで、
生きたい程見たい未来がある訳じゃない。

私は素直な思いを伝えました。
これは前から思っていた事です。
それでも先生は辛抱強く、切るように説得して下さいました。

がん、中でも特に乳がんは、メンタルの状態が進行や予後に多大な影響を与えるという
研究結果が、
つい最近発表されたんだそうです。
とにかく、辛くても、無理してでも違う事、明るい事を考えて気持ちを明るく保つように。
これも辛抱強く説いて下さいました。

私の父は、50代後半でがんで急逝しました。
見つかってから3週間でした。

私の父にがんが見つかった時はもちろん手遅れでしたが、
先生は父に
「明るく楽しい事を考えるように」
と伝えたそうです。

それが病気を良くする、奇跡を信じましょう、と。

私はその事がずっと頭にあったので、
自分ががんかも知れないとなってから、
頑張って明るく前向きに過ごそうと努めてきました。
不安定な私を、Twitterの皆様は温かく支えて下さり、
本当に感謝しかありません。
ありがとうございます。

長くなりますが、私の話をさせて下さい。

私は小5の時から進みたい高校があり、
念願叶ってその高校に進みました。
勉強がとても厳しく、毎晩夜中の3時まで予習をしないと授業についていけない速度でした。

校名を文字って「牢獄」なんて揶揄される学校でしたが、
そんな毎日ですら、私はとても楽しかったです。

高1の冬に専業主婦の母がくも膜下出血になり、
長女の私は家事に時間を取られるようになりました。
大店のお嬢様だった母の親戚達は、
病気のせいで被害妄想が酷くなった母の言う事をそのまま受け止め、
私はあることないこと随分と責められました。

それまでのように勉強する時間が取れなくなり、
授業から置いていかれて「お客さん」になるまでは一瞬でした。

ついていけていないプレッシャー、
それまで勉強が絶対の価値観の世界だったのに、
私だけがらりと変わってしまった世界。

なにより、どれだけ勉強してきたと言ったって、
大好きな母を助けることすらできないという無力感。

次第に私は、学校にあまり行けなくなっていきました。
そこで学ぶことを目的にしてきたのに、
そこで学ぶことに意味を見い出せなくなったからです。

「昼間家で一人でいるお母さんが心配だから定時制に移りたい」
「もっとちゃんと勉強がしたい、
4年かけて3年分をやるなら、私でもついていけるかもしれない」

父は昭和の亭主関白で恐ろしい存在だったので、
自分の意見を言うなんて多分この時が初めてだったと思うのですが、
聞き入れてはもらえませんでした。
もちろん、父は大人として、私の将来を考えてくれた結果で、
それは間違えていなかったと思っています。

事情が事情なので、先生方は
「あなたは来て座っているだけでいいから」
とご配慮下さり、
本来余裕でアウトのところをなんとか同級生と一緒に
卒業させて貰いました。

でも私は、周りのクラスメートとあまりに違う環境に絶望し、16歳の頃からずっと、どこか薄っすらと、時には明確に、
自暴自棄の思いを抱えながら生きてきました。

大学卒業後、3社目で仕事ぶりを評価頂き、初めて私は一人でも生きていけるという自信を持ちました。
そんな頃に前の旦那と出会い、結婚しました。

多分初めて心から、その人丸ごとを好きになりました。
それまで私は、自分が手にできなかった学歴やステータスを求めて、
そういう人ばかりとお付き合いしていたんだと思います。
女子大に進学したのも、早慶男子とお付き合いする為でしかありませんでした。
勉強してないから、どこ行っても同じですしね…

前の旦那は、
「誰でもできる」
と揶揄されることもある仕事で、
給与面でも事務職の私とどっこいどっこいでした。
でも彼は、仕事にとてもプライドを持って
(いるように見えた)
真摯に取り組んで(いるように見えた)
いて、私はそこにとても惹かれました。

紆余曲折ありつつ、3年ほど交際→同棲して結婚しました。
プロポーズなんてなく、結婚の理由は
「買いたいマンションがあるけど、籍入れないとローンが通らない」
でした(笑)

人生で初めて心から好きになった人。
ピカピカで最新設備が装備された新築マンション。

あー、今まで色々あったけど、
私今幸せだなーーー!!!

床暖房でぬくぬくしながらそう思った事は
今でも鮮明に思い出せます。

でも、そんな脳天気な生活は半年も続かなくて。

父の末期がん発覚、急逝。
錯乱状態の母を、母の実姉弟達は見捨て、
私は、
「お母さんをこれ以上不幸にしたらいけない」
その思いだけで、泣き叫ぶ母を新居に連れてきました。

要介護状態な母を、赤の他人の旦那と二人きりにすることはできず、
私は会社に事情を話し、もう残業(残業代はもともと出ていない)
をするのは難しい、と伝えました。

結論、残業できないならいらないとのことでした。

評価されているというのは、私の思い上がりでした(笑)

超絶氷河期でも、歯を食いしばって就職して、
大した年数ではないものの、ずっと身を粉にして働いてきたのに。

あっという間に無職。

なんだか世間から取り残されてるような思いに駆られました。

なんだか、というより、20代後半のほとんどを
会社に捧げたのに…

自分が、とても価値がない存在に思えて仕方ありませんでした。

4年程、専業主婦をしていたのですが、
増税をきっかけに、また働くようになりました。とりあえず増税分のキャッシュを稼ごうかと…

きっと若い夫婦は、子供ができるまでの間、
眩しい恋人時代の延長のような時間を過ごすのでしょうが、
私達はほんの半年くらいでその時間は終わりでした。

介護経験の無い元旦那にとって、
高次脳機能障害の他人と暮らすのは、
色々な思いがあったのだろうと今では思います。

それは、本当に申し訳無かったと思っています。

母に辛くあたる元旦那、それが辛くて仕事に逃げる私。

10年の結婚生活の大半はこんな感じでした。旦那の浮気で離婚に至ったのですが、
まあそれも致し方ない事だったと思っています。

母の病、父の急逝、母の介護。
それによって、進学や解雇を含め
思い通りにならない私の人生。

責任感からなのか愛情からなのか、はたまた自己満足の為なのか。
母に尽くすも誰にも認められない。

幸せだと思っていた一瞬を除いて、
16歳の頃からずっと、私の根底に流れているのは
ゆるやかな自暴自棄でした。

酒もタバコも人間関係も。
心のどこかで
「生きていたって仕方ないし」
そう思いながら、「良くない方」に流されてきました。

今、がんかも知れないとなって。
そんな今までを悔いて、生まれ変わったつもりで前向きに生きる。
なんてエネルギーは、私にはありません。

今が死にたい程辛い訳ではないけど、
胸を切ってまで、生きたい程
見たい未来がある訳じゃない。

ここに至ってしまうのが、正直な気持ちです。

だけど現実を考えたら、そんな甘えは言っていられない。
全て諦めて自暴自棄に生きられたらいいけれど、
私に何かあったら、母が路頭に迷うから。

数日のうちに、検査結果が出ます。
1年前、酷い乳腺炎になって手術をした箇所なので、
もしかしたら、がんではないかもしれない。
この長文が笑い話になったらいいな、と思っています。

胸を切ってまで生きたい人生ではないけれど、
そんな甘えた事も言っていられないので。

結果がどうであれ、これからはできるだけ明るく楽しく、
過ごしていけるように頑張ろうと思っています。

私は皆さんのように、有意義なことは呟けません。
無理に明るくしようとして、おかしなテンションの時もあるだろうし、
明るくできなくて、暗いことを呟いてしまう時もあると思います。

ご迷惑をお掛けしたくないのでどうか、
そっとフォローを外して頂けたら幸いです。

それでもいいよと優しいことを仰って頂けるのなら、
どうか温かく見守って頂けたらとても嬉しいです。

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