週刊オールライター第95号 「日本煉瓦専用線の跡をたどる」
突然ですが皆さん、新しい10000円紙幣の顔である渋沢栄一の生まれ故郷はどこかわかりますか?
それは、埼玉県深谷市です。深谷市には渋沢栄一ゆかりの施設及びその痕跡が今も多く残っています。
そこで今回は、渋沢栄一の故郷で渋沢栄一ゆかりの会社が所有していた路線「日本煉瓦専用線」の廃線跡を辿って行きましたので、その模様をご覧ください。
1. 日本煉瓦専用線とは
上の画像は、インターネットの「今昔マップ」より深谷駅周辺の今と昔の地図を比べたものです。左の昭和47(1972)年〜昭和57(1982)年頃の地図を見ると、左下にある深谷駅付近から線路が北に向かって分岐しています。これが、日本煉瓦専用線です。
この路線は、深谷にかつて存在した日本煉瓦製造という会社の工場で生産されたレンガを運ぶために明治28(1895)年に開通した貨物列車専用の路線です。これ以前は近くを流れる利根川の支流(小山川)を利用した船運でレンガを東京へ運んでいましたが、輸送力を向上させるために敷設されました。
しかし、大正12(1923)年に発生した関東大震災で当時のレンガ造の建造物が地震に弱いことが露呈。これをきっかけにレンガ造の建物が衰退していっただけでなく、この年に日本煉瓦製造が秩父セメント(現在の太平洋セメントの前身の一つ)を創設し、会社経営の柱がレンガからセメントに移行したことで存在意義を徐々に失っていった結果、昭和47(1972)年を最後に運行休止、3年後の昭和50(1975)年に廃止となりました。
なお、この工場で生産されたレンガは、東京駅丸の内駅舎をはじめとする鉄道施設や国宝・赤坂迎賓館、日本銀行旧館などの明治時代に建てられた主要建築物で使用されています。深谷駅の駅舎は東京駅丸の内駅舎に似せて作られたことで有名ですが、その理由は東京駅丸の内駅舎のレンガが日本煉瓦製造の工場で作られたからです。
2. 廃線跡を歩く
廃線跡の起点は深谷駅西口です。
深谷駅1番線ホームの隣から廃線跡・遊歩道が始まります。廃線跡は「あかね通り」という名前で大切に手入れされているようです。
深谷駅を出てしばらくは、高崎線と並走します。
高崎線と並走する場所に、いきなり歴史的遺構が登場します。「つばき橋」として通行がスムーズになるように整備された橋ですが、横から見ると橋桁のレンガと梁の部分が使い古されたように見えます。これこそ、ここが鉄道が走ったという証明の一つです。この橋はかつて「唐沢川鉄橋」と名乗っていました。
唐沢川を越えると、高崎線とお別れして北進していきます。
ここは、廃線直後から宅地化が急速に進んだそうで、説明板にもその写真が散見されました。
道中には、交差点がいくつか存在していることからも、この廃線跡は生活道路のひとつとして機能していることがわかります。
道中にはミニ公園が点在しており、ベンチで休憩しながら歩くこともできます。
なお、夏場には大変重要な飲み物の確保についてですが、この2km地点を少し行った場所にある病院の駐車場にある自動販売機、国道との合流地点にある100円ショップ、スタート地点の駅前の自動販売機くらいしかないので、確保を怠らないようにしましょう。
病院を超えると、この廃線跡の最大の見どころ「ブリッジパーク」があります。
これは、福川鉄橋を現役当時の姿のまま残している場所です。このタイプの橋のことを「プレートガーター橋」と言いますが、この橋は現存する日本最古のものです。
福川鉄橋を過ぎると、廃線跡は田園地帯を進みます。
道中で国道17号バイパスの下をくぐります。この道は何度か通ったことがあるので、知らず知らずのうちに廃線跡の上を通っていたことになります。
国道17号バイパスを超えると、すぐに廃線跡は終了します。
ゴール手前では、備前梁鉄橋が歩道化されています。
終点近くの塀の向こうには、かつて日本煉瓦の工場があった場所です。また、この近辺にはレンガを焼く窯も残されているようです。
むすびにかえて
今回は、新10000円札の顔・渋沢栄一が作った日本煉瓦専用線の廃線跡を辿りました。所要時間は片道1時間ほどと、気軽に歩ける廃線跡だと思います。東京駅から1時間ほどで気軽に行ける場所でもあるので、廃線跡歩きをしたことがない初心者の方にもおすすめです。ぜひ、歩いてみてはいかがですか。
それではまた。