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相次ぐ訃報で耐えられない方へのメッセージ

1.はじめに

 こんにちは。HISASHINJOです。今回は、非常事態だと思って記事を書きます。
9/30〜10/1にかけて、日本のテレビ界を支えた著名人が相次いで逝去されました。この記事を見た方の中にも、その方の大ファンだったり、尊敬していたり、お世話になったことのある方も多くいらっしゃることでしょう。今回は緊急特別記事と致しまして、私の過去記事
「私のトラウマ 5月11日のニュースを受けて」
も引用し、
「トラウマによるフラッシュバックで命の危機に晒された経験」をもう一度ここに記し、皆様方に
「ショックで命の危険に晒された時の回避方法」
を伝えます。最後まで絶対に見てください。

私の過去記事「私のトラウマ 5月11日のニュースを受けて」

https://note.com/hsj231od/n/n1b21fedd0757

2. 9月30日のニュース

 9月30日、その日私は大学の授業が早く終わったので帰宅していました。その後散髪の予約を従姉妹にしていたのですが、行こうと電話を祖母にかけたら、その従姉妹が頭を打って病院に行ったと言うので大事を取らせるべく、散髪を延期しました。幸いにも従姉妹は大きな怪我もなかったようで何よりでした。
そして時間が空いたのでゲームをしていたら、訃報が入ってきました。
6代目三遊亭円楽師匠がご逝去されたのです。72歳でした。
私は少しショックでした。円楽師匠がご出演されていた日本を代表する演芸番組「笑点」をよく見ていたからです。私が幼稚園の頃から小学2年頃までは「三遊亭楽太郎」と言う高座名を使用していました。私が高校の頃にご逝去された笑点永世名誉司会者・桂歌丸師匠が司会をされていた頃、または先代の5代目圓楽師匠が司会をされていた頃から、円楽師匠は歌丸師匠へ
「うるせぇ‼︎やるかジジィ‼︎」、「横浜(真金町)のおじいさんが・・・」、「それ(カツラ)いらないよw(毛が)増えてるww若返っちゃってるもんwww」、「うわ、本物(の幽霊)だw本物だww」
と罵声や死に損ない扱いをすることがお決まりの流れになっていて、歌丸師匠に
「山田くん、全部持っていきなさい‼︎」
と座布団運びの山田隆夫さんに座布団を全部取られ、まだ歌丸師匠が回答者だった頃には
「楽太郎は火事で焼け死んだ」、「楽太郎は腹黒い」などとやり返される
(やりすぎると自身の師匠でもあり、当時司会者だった先代の5代目圓楽師匠に喧嘩両成敗で2人とも座布団を取られたりする)
といったやりとりが人気を博し、しまいには2006年夏の放送で
「遺体が喋った‼︎」
と叫び、他のメンバー(当時。大月生まれの三遊亭小遊三師匠、円楽師匠と同門の三遊亭好楽師匠、当時「(初代)林家木久蔵」と名乗っていた林家木久扇師匠、現司会者の春風亭昇太師匠、秩父生まれの林家たい平師匠)が
「うわー」「本当だ」
と観覧客の笑い声に紛れて口々にそう叫ぶと真顔の歌丸師匠は
「山田くん、全員の全部持っていきなさい!!!」と言い放ち会場を騒然とさせ、後の笑点名物となった座布団全員全没収、すなわち「歌丸ジェノサイド」の引き金を引きました。
昇太師匠の司会者就任後は
「アイツより俺の司会がいいだろ?司会を変われ」などと昇太師匠ともバトルするようになり、たい平師匠の「何かあったのか劇場シリーズ」とともに新しいやりとりを生み出しました。
(中には歌丸師匠をいじるネタもありました)
その最中の2018年に歌丸師匠が亡くなった際には追悼特別大喜利の最後の回答者になり
「ジジィ‼︎早すぎるんだよ‼︎」
と天に向かって泣き叫び、歌丸師匠との争いに終止部を打ちました。
ところが2022年、当時メンバーだった2代目林家三平師匠が「座布団10枚」を1回も取れなかった責任をとる(?)形で「修行して参ります」と卒業した代わりに桂宮治師匠がメンバー入りした途端、病魔に倒れました。脳梗塞を患ったのです。それからは病気と戦っていました。8月にはついに口座復帰を果たし、以前と変わらぬ毒舌で笑点メンバーの名前を出しながら笑いをかっさらっていました。

その後、息苦しさで検査を受けたところ軽度の肺炎と診断されて入院。そのまま癌が再発してしまい、2022年9月30日、72歳でご逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。

3. 10月1日のニュース

 その日私は大学の授業があるために山手線に乗っていました。大学最寄りの某駅で降りた頃、ラインニュースに訃報が。なんと、

「燃える闘魂」

と呼ばれ

「元気ですかっ‼︎元気があればなんでもできるっ‼︎」

「行くぞっ‼︎1、2、3、ダーーーーーーーーーーーーーーーーーッ‼︎」

など数々の名言を生み出し、参議院議員を2期務めた元プロレスラー・元政治家のアントニオ猪木さんがご逝去されたという、円楽師匠に続く2日連続での訃報でした。79歳でした。

 アントニオ猪木さんは13歳の頃、一家の事情でブラジルに移住し、農園で労働をしながら生活していました。元々運動が苦手だった猪木さんですがこの労働で体力をつけたのか、陸上競技大会の砲丸投で好成績を収めるほどのスポーツセンスを発揮できるようになったといいます。そんな折、全日本プロレスの遠征で来ていた力道山にスカウトされます。

そして1960年に帰国、全日本プロレスに入団し、本名「猪木寛至」のリングネームでデビューしました。2年後に先輩の豊登道春さんから「アントニオ猪木」と命名され、アメリカで武者修行。その後紆余曲折を経て新日本プロレスを立ち上げ、ドリーファングjr、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンら世界の名だたるレスラーと対戦。異種格闘技(総合格闘技)の礎を築いたとされる

「アントニオ猪木VSモハメド・アリ」

の試合は世界中に中継されました。猪木の本気の姿勢にビビったアリが猪木側に圧倒的不利な試合条件を突きつけるしかなかったくらい全力の猪木と挑発を続けたアリの試合は結果的に引き分けでした。しかし、アリは猪木のスライディングキックを30発以上も食らったがために右太腿に血栓症を発症して入院を余儀なくされたとか。その後、猪木とアリは仲良しになり、「猪木‼︎ボンバイエ‼︎」で有名なあの曲を猪木にプレゼントしたことがそれを証明しています。

1990年、「国会に卍固め」などの謳い文句で参議院議員選挙に立候補し、見事に当選。なお、レスラーから転身した国会議員は彼が初で、現・石川県知事の馳浩氏などがそれに続きます。

この年、猪木はある偉業を成し遂げたのです。

当時、サッダーム・フセイン政権下にあったイラクは、突如としてクウェートに侵攻。この際現地にいた邦人41人が人質にされてしまったのです。

この状況を見て猪木は、「スポーツと平和の祭典」を新日本プロレス主催で現地イラクにて行うと表明。外務省が難色を示す中、関係者と人質の家族と共に親日国家トルコのトルコ航空の助けも借りてイラク入り。

見事イベントは成功。人質は解放され、猪木と共に日本へ帰ったのでした。

それ以外にも「タイガーマスク」を漫画の世界から現実の世界に登場させたことなど、プロレス界でも政界でも様々な偉業を残しており、ここには書ききれません。

私はモノマネ芸人「アントキの猪木」さんがレッドカーペットに出ていたのを見て知りましたが、親は

「強いからいつまでも生きると思ってた」

と言っていました。どれだけ惜しいのか。

ご冥福をお祈り申し上げます。

4. 私がトラウマで命の危険に晒された日 2022年5月11日

 そしてメインの話題です。私が人を亡くしたことによるトラウマで命の危険に晒された日のことを話します。

 2022年5月11日、前夜の飲み会から一夜明け、1限の授業に向かうため早起きして大学に向かいました。山手線に乗ってスマホを見ていた時、母のお笑い好きに触発されて入ったお笑い好きが集まるLINEオープンチャットが不穏な空気に。その直後に入ったニュースを見てみると、

「ダチョウ倶楽部 上島竜兵さん死去」

の文字が。

私は正直、考えられませんでした。皆さんもそうでしょう。ついこの間、ドリフターズのコントを再現した番組に出演していたのですから。

そしてTwitterなどで詳しく見てみると、さらに信じられない言葉が私の目に飛び込んできました

「首◯り」

これを聞いた瞬間、私はおかしくなりました。何が起きたのかわからず、心の整理がつかない状況に突如として湧き上がってきた更なるパニック状態。なぜここまでパニックになるのか。その理由は簡単でした。

「2021年2月27日に母方の大叔父が同じやり方で逝ってしまったから」です。

受験生の頃、まだ大学が決まっていない中でのこの事件。受験前日に勉強もせず葬儀に出た自分がおかしくてお骨拾いの終わりを待っている時、狂い笑いしそうになったのです。それもあって、「自◯」「首◯り」というワードがトラウマになりました。

5. 私があの時何をしたか

 精神が乱れ、いつ道を外してもおかしくない状況下であったとはいえ、私は単位を優先し、授業を受けました。しかしそれでも我慢をすることはできず、学生相談室に予約の電話を入れました。そして、授業が終わった後何をすれば良いのかを考えました。これ以上TwitterやGoogleを見ていてはさらに自分自身を追い込んでしまうために、メディアから自分を遠ざける必要がありました。さらに私は鉄オタです。家に直帰するよりも、遠回りして帰ることはザラです。そのようなこともあって

「自分からメディアを遠ざけること」

を口実とした乗り鉄をすることにしたのです。

そして放課後に乗り鉄をして気を紛らわしました。

帰宅頃には7割方落ち着いていました。

6. その行為の何が正解だったか

 この時取った行為の正解だったポイントは何でしょうか。それは

「身の安全を確保するための行動をしたこと」

です。好きなことをして気を紛らわせようとしたことで、命の危機を免れたのです。

7. むすびにかえて

 むすびにはなりますが、皆さんに訴えたいことがあります。それは

「日本人は1人で抱え込みやすい人種」

ということです。誰かに相談するというハードルは、自◯というハードルよりも高いということが言われています。おかしすぎると思いますよ。それ。そうならないためにも常日頃からの行動が対策になると思います。

まず、親しい人は誰か意識しましょう。友人だけでなく、先生や上司も含みます。そうすれば相談にも乗ってくれるはずです。


最後までありがとうございました。

 

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