1920年 麻布飯倉のベートーヴェン――南葵楽堂「ベートーヴェン生誕百五十年紀念音楽会」の意義
紀州徳川家第16代当主徳川頼貞(1892-1954)が麻布飯倉の自邸に建てた音楽ホール「南葵楽堂」は、1918(大正7)年の落成から1923(大正12)年の関東大震災で使用不能になるまでの5年という短い活動期間に、日本の西洋音楽受容史に名を残す数々の演奏会を世に送り出してきた。ベートーヴェンの生誕150年にあたる1920(大正9)年は、南葵楽堂の活動が一層の発展を遂げた年であった。この年の春、かねてより注文していたパイプオルガンがイギリスから到着し、組立作業が進められて、11月にはその竣成を祝う披露演奏会が催された。さらに、ホール内の音楽図書館(のちの南葵音楽文庫)の蔵書整理が完了し、閲覧業務が始まったのも、またこの年である。そして南葵楽堂にとって、この充実した1年の締めくくりとなる演奏会が、12月11日開催の「ベートーヴェン生誕百五十年紀念音楽会」(以下「生誕百五十年紀念音楽会」と略す。「紀念」の表記は原文のままとする)であった[1]。
1920年、西洋音楽の演奏家もその演奏を聴く機会も限られていた当時の日本において、ベートーヴェン生誕150年の祝祭は、その7年後のベートーヴェン没後100年祭(1927(昭和2)年)と比べて、さほど大きな盛り上がりを見せなかったと言われている[2]。そうしたなかで注目すべき生誕150年記念企画が、「楽聖ベートーフェン記念号」と銘打たれた雑誌『音楽界』(音楽社)の12月号[3]と、同月4、5日に開催された東京音楽学校の第39回定期演奏会[4]、そして南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」であった。
南葵楽堂では、この演奏会に際して『演奏楽曲に就て』[5]、『Works of Beethoven(Beethoveniana)』[6]という2冊の小冊子を作成し、聴衆に配布している。『演奏楽曲に就て』には、当日演奏された声楽曲の歌詞とともに兼常清佐による解説が収録され、兼常はこの小冊子のために30ページにわたる長文を寄せた。他方、『Works of Beethoven(Beethoveniana)』は、ベートーヴェン関連文献目録、ベートーヴェンの肖像画等の美術品リスト、作品リスト、ピアノ・ソナタ全32曲の難易度表の4部構成で、永く使用されるようにと考えてであろう、ハードカバー製本となっている。どちらの小冊子も、聴衆にベートーヴェンに対するより深い理解を促すとともに、南葵楽堂における演奏会開催と付設図書館における研究活動や閲覧業務とを連携させる試みであったと言えよう。このときの演奏会に集まった聴衆は600名と伝えられ[7]、年次報告書『南葵文庫報告』にも、「聴衆館内に溢れ頗る盛会なりき」と記されている[8]。演奏曲目は後掲のプログラムのとおり、全曲ベートーヴェンの作品で構成された。
しかし実のところ、南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」の曲目は、その1週間前に開催された東京音楽学校の第39回定期演奏会とまったく同一であり、合唱のパイプオルガン伴奏に中田章が加わった点を除けば、演奏者も同じであった。つまり、東京音楽学校にとってみれば、南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」は定期演奏会の巡回公演であり、これに対して南葵楽堂は、2種類の小冊子を配布することで差別化をはかったと考えることもできる。
本稿においては、南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」が東京音楽学校の定期演奏会と同一の演奏曲目になった背景を探るとともに、独自に作成された小冊子に注目することで、この演奏会が日本における西洋音楽の発展に果たした意義を考えてみたい。
1. 徳川頼貞とベートーヴェン
南葵楽堂の演奏会において、もっとも多く採り上げられた作曲家が、ベートーヴェンである。演奏曲目すべてがベートーヴェンという例も、「生誕百五十年紀念音楽会」が初めてではない。1918(大正7)年10月27日の楽堂開堂式後に開催された第1回秋期音楽会の曲目も、以下のとおり、全曲ベートーヴェン作品であった[9]。
第1回秋期音楽会(南葵楽堂、1918年10月27日)プログラム
1. Beethoven. Overture "Consecration of the House." Op. 124.
2. Beethoven. Piano Concerto in E Flat Major. No. 5. Op. 73.
3. Beethoven. Chorus "Calm Sea and Prosperous Voyage." Op. 122.
演奏:グスタフ・クローン(指揮)、パウル・ショルツ(ピアノ)、
東京音楽学校職員・卒業生・海軍軍楽隊による管弦楽団、
東京音楽学校生徒による合唱団
これらの曲目の選定には徳川頼貞の希望が反映されており[10]、2曲目のピアノ協奏曲第5番《皇帝》は彼のもっとも愛好する曲であったという[11]。
大正中期の日本において、ベートーヴェンの名は、《月光》ソナタなどの逸話、あるいはロマン・ロランの小説や評伝を通じて知られていたが[12]、人々がその音楽を耳にする機会は決して多くなかった。東京音楽学校の教材や演奏会、あるいは軍楽隊の演奏会でベートーヴェンの作品が採り上げられる例はすでにあったものの、その数は未だ少なく、レコードも広くは普及していなかった。先述の雑誌『音楽界』の「楽聖ベートーフェン記念号」には、様々なベートーヴェン論とともに、編集部からの原稿依頼に対する次のような謝絶の手紙も掲載されている。「小生未だベートーフェンの大作をきいてい申さず従て何とも御返事申しあげかね候」[13]。つまり文化人でさえも、ベートーヴェンの音楽を論評できるほどには、その作品、特に管弦楽曲やピアノ・ソナタなどの大作を聴くことはできなかったのである。
こうした時代にあって、徳川頼貞は異例とも言えるほど多くのベートーヴェン作品に接している。彼は学生時代の1909(明治42)年に、東京音楽学校第21回定期演奏会で交響曲第3番《英雄》第1楽章の日本初演を聴き[14]、また同じ時期に、アルトゥール・ニキシュ指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による交響曲第5番のレコードも入手している[15]。1918(大正7)年6月1日、徳島の板東俘虜収容所においてドイツ兵捕虜による交響曲第9番の日本初演が行われた際も、頼貞はそのニュースに関心を寄せ、その年の8月に、実際に俘虜収容所を訪れて彼らの演奏を聴いたのであった[16]。「私は長い間、ベートーヴェンの最大の傑作といはれるこの第九交響曲をわが楽壇に於て演奏させてみたいものだと思つてゐた。近く自分が建設する南葵楽堂の開堂音楽会に出来ればこの希望を実現したいと考へて、具体的に研究もしたのであるが、その当時の上野の音楽学校の管弦楽では、とてもこの望みは不可能であると知つて残念に思つてゐたのであつた」と頼貞は述懐している[17]。東京音楽学校が交響曲第9番全曲を初演したのは、1924(大正13)年のことであった[18]。
2. 南葵楽堂と東京音楽学校
以上の言葉からも窺えるように、南葵楽堂における東京音楽学校の公演には、南葵楽堂側が演奏曲目を要望することも多かったようである。一例として1919(大正8)年12月14日開催の南葵楽堂秋期音楽会を挙げよう。このときの曲目は以下のとおりである[19]。
秋期音楽会(南葵楽堂、1919年12月14日)プログラム
1. Weber. Overture "Oberon."
2. Beethoven. Symphony in C Minor. Op. 67.
3. Wagner. "Tannhauser."
(a) Entr'acte to act II and Aria "Hail, Hail of Song."
(b) Fest March and Chorus.
演奏:グスタフ・クローン(指揮)、
東京音楽学校職員・卒業生・海軍軍楽隊による管弦楽団、
東京音楽学校生徒による合唱団
2曲目に演奏されたベートーヴェンの交響曲第5番について、頼貞は「南葵楽堂演奏会では特にこれを所望した」と述べており[20]、また『南葵文庫報告』にも、この作品の紹介の後に「本文庫は此等著名なる作品を出来得る限り演奏し以て同好者と共にその喜びを頒たんことを希望せり」との付記がある[21]。
しかし、このような南葵楽堂側の希望が、すべて東京音楽学校側に聞き入れられたわけではなかった。徳川頼貞とも親交の篤かった遠藤宏によると、「南葵楽堂でやる東京音楽学校管弦楽合唱のためには毎回二、三千円づヽ謝金を徳川家が、支出していたがいつも上野で定期演奏をした曲目をそのまヽ後で演奏しに来るのであつて、頼貞氏の希望する新しい曲目による楽堂のための演奏会にはならなかつたのである」[22]。実際、1919年の南葵楽堂秋期音楽会を例にとれば、ウェーバーの序曲《オベロン》は1919年11月19、20日に、またベートーヴェンの交響曲第5番はその前年の5月25、26日に、どちらも東京音楽学校の定期演奏会において、すでに上演された作品であった[23]。西洋音楽の普及を目指した頼貞が東京音楽学校に望んでいたのは、遠藤宏も述べているように「新しい曲目」の上演であったが、彼のこの希望は、十分には叶えられなかったのである。
大正時代、1913(大正2)年に来日したグスタフ・クローン(1874-?)の指導により、東京音楽学校の演奏水準は飛躍的に向上していたが、それでもベートーヴェンの交響曲ともなれば、近衛秀麿によると「六ヶ月ないし十ヶ月の練習の末、二、三年に一曲ぐらいの割合でわずかに片鱗をのぞかせてもらえる程度であった」[24]。
南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」における2冊の小冊子は、徳川頼貞が日本に「新しい曲目」を紹介したいと願いながらも、それが容易には実現しない状況のなかで作成された。南葵楽堂では、演奏曲目の解説を通じてベートーヴェンの生涯とその作品を紹介し、また作品と研究文献の目録を通じて彼の創作と研究の全体像を提示することによって、未だベートーヴェンの代表作さえも聴くことのできない日本の聴衆に対し、作品の日本初演とは別の方法で、ベートーヴェンの音楽へのより深い理解を促そうとしたのである。
3. 『演奏楽曲に就て』と『演奏曲目梗概』
南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」と東京音楽学校の第39回定期演奏会とでは、曲目は同一であったものの、その解説はそれぞれ別に用意された。ここで、南葵楽堂作成の解説『演奏楽曲に就て』と東京音楽学校作成の解説『音楽演奏曲目梗概』第28とを比較してみたい。両者の内容は大きく異なっている。
『音楽演奏曲目梗概』第28は、最初に演奏会の趣旨と演奏曲目それぞれの作曲年代を記した上で、個々の作品について記述するという、曲目解説としてはオーソドックスな形式をとっている。以下に1曲目の《エグモント》序曲の解説を一部引用する。
譜例も交えた詳細かつ分析的な記述と言えよう。このような譜例付きの解説は、東京音楽学校の『音楽演奏曲目梗概』において1908(明治41)年11月29日の第19回定期演奏会26以来しばしば見られる。
これに対し、『演奏楽曲に就て』における兼常清佐の解説に譜例はなく、また個々の作品に関する記述もない。兼常は、「音楽は私共に取つては実に不思議な神秘な世界です」という一文で解説を書き始め[27]、次のように読者に問いかける。
兼常の言う「謎語」とは、その音に込められた意味が聴き手には容易に把握し得ないという音楽の抽象性にほかならない。兼常は作品の記述以前に、音楽の意味が把握できないという聴き手の「不満と不安」を指摘し、この「謎語」はいかにして解けるのか、言い換えれば「音楽の理解」とは何かを問題にするのである。彼は、この「謎語」を解く手がかりとして、「習慣の力」と「自分の思想と観念を以つて勝手に此の曲の内容を作る事」すなわち聴き手による解釈とを挙げる。しかし、音楽を聴く習慣とは、聴き手をこの「不安」に馴れさせることであり、音楽の本質的な理解には繋がらない。また解釈についても、彼は作曲家の伝記に基づく解釈と聴き手の感情や実生活に引き寄せた解釈とに分けて論じているが、どちらも主観的であり普遍性を持たないとする[29]。そこで再び兼常は、音楽の客観的な理解について問いかける。
兼常の眼から、当時の日本人は、演奏水準のみならず理解の水準でも、ベートーヴェンに遠く及ばないと映ったに違いない。
『演奏楽曲に就て』において、兼常は個々の作品の記述や譜例の掲載を一切していない。ただベートーヴェンの創作史を概観し、理解の手助けとするのみである。しかし彼の解説は、西洋音楽の導入に未だ汲々としていた当時の日本人に対して、日本人の目線から、西洋音楽の理解とは何かを考えさせる文章であった。「六百の聴衆は世界の驚異たる此の楽聖によりて与へられたる大いなる謎語を解かんが為に、雄麗荘重なる音楽の中に其小さき心を浸した〔。〕兼常氏が『演奏楽曲に就て』の終りに記された様に、此偉人の芸術に親しみ、其秘密を悉知しようとする止み難い憧憬の情が此人々の胸に燃えて居たのである」。雑誌『音楽界』は、南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」をこのように報じている[32]。
4. おわりに
南葵楽堂の「生誕百五十年紀念音楽会」は、日本でベートーヴェンの生誕150年を祝う数少ない催しの一つであった。演奏曲目の点では、徳川頼貞が願った「新しい曲目」の紹介は叶わなかったものの、このとき南葵楽堂が独自に作成した2冊の小冊子は、作品の日本初演とは別の方法で、西洋音楽を日本に根付かせようとした試みであったと言ってよい。
それからの7年間で、日本における西洋音楽は大きな発展を遂げた。ベートーヴェン没後100年にあたる1927(昭和2)年には、記念演奏会が各地で開催され、6回、12回にもわたる連続公演も行われたほか、ラジオの記念放送、雑誌の特集号や研究書の刊行も相次いだ。麻布飯倉の徳川邸においても、3月26、27日の2日にわたり、「ベートーヴェン百年忌記念会」と題する図書展示が行われ、併せて閲覧室内で演奏会も開催された[33]。しかし、震災の打撃を受けた南葵楽堂がベートーヴェンを響かせることは、もはやなかった。
東京音楽学校 第39回定期演奏会
(東京音楽学校奏楽堂、1920年12月4、5日)
ベートーヴェン生誕百五十年紀念音楽会
(南葵楽堂、1920年12月11日)[34]
1. Overture to Goethe's Tragedy "Egmont." Op. 84.
2. Two Songs from Goethe's Tragedy "Egmont." Op. 84.
(a) "Die Trommel geruhret." No. 1.
(b) "Freudvoll und leidvoll, gedankenvoll." No. 4.
3. Symphony Eroica in E Flat Major. No. 3. Op. 55.
4. Concerto for Pianoforte in C Minor. No. 3. Op. 37.
5. Elegiac Song for Mixed Chorus with String Orchestra (and Organ).
Op. 118.
演奏:グスタフ・クローン(指揮)、長坂好子(ソプラノ)、
小倉末子(ピアノ)、中田章(オルガン 南葵楽堂公演のみ)、
東京音楽学校職員・卒業生・海軍軍楽隊による管弦楽団、
東京音楽学校生徒による合唱団
ベートーヴェン百年忌紀念会
(旧南葵文庫大閲覧室、1927年3月26日)[35]
一、開会の辞 徳川頼貞
一、オルガン独奏 木岡英三郎
前奏曲作品三十九番(一七八九年)ベートーヴェン作
一、合唱(ベートーヴェン葬式の際に歌はれたる曲)
a) Miserere .............................................. Beethoven-Seyfried
b) Amplius ............................................... Beethoven-Seyfried
c) Libera me ............................................. I. Seyfried
一、講演
感想 兼常清佐
人としてのベートーヴェンを憶ふ 遠藤宏
一、合唱(ベートーヴェン歿後一周忌の際に歌はれたる曲)
Trauerklange bey Beethoven's Grabe
(Worte von Fr. Grillparzer) .......................... Beethoven-Seyfried
合唱 バッハコワイア
指揮 木岡英三郎
註
[1] 『南葵文庫報告』第13(1921年)、15-16頁、および『南葵音楽事業部摘要』第1(1929年)、49-50頁参照。本文中の書名、演奏会名および引用文における旧字体は、すべて新字体に統一する。
[2] 以下を参照。西原稔「わが国のベートーヴェン受容の歴史」『ベートーヴェン全集』第10巻(講談社、2000年)所収、107-108頁。西原稔『「楽聖」ベートーヴェンの誕生――近代国家がもとめた音楽』(平凡社、2000年)、201-205頁。福本康之「日本におけるベートーヴェン受容 I――昭和2年のベートーヴェン没後100年祭」『国立音楽大学音楽研究所年報』第13号(2000年)、75頁。
[3] 『音楽界』第230号(1920年12月)。
[4] 以下を参照。『音楽演奏曲目梗概』第28(東京音楽学校、1920年)。『音楽』(東京音楽学校学友会)第12巻第1号(1921年)、44-56頁。『東京芸術大学百年史』演奏会篇、第1巻(音楽之友社、1990年)、517-522頁。
[5] 兼常清佐『演奏楽曲に就て』(南葵文庫、1920年)。
[6] Nanki Music Section, Works of Beethoven (Beethoveniana) (Nanki Bunko, 1920).
[7] 「東京に於けるベートーフェン百五十年記念祭」『音楽界』第231号(1921年1月)、34頁。
[8] 『南葵文庫報告』第13(1921年)、15頁。
[9] 『南葵文庫報告』第11(1919年)、21頁。『南葵音楽事業部摘要』第1(1929年)、49-50頁。
[10] 徳川頼貞『頼貞随想』徳川頼貞遺稿刊行会編(河出書房、1956年)、226頁参照。
[11] 同前。
[12] 以下を参照。畑道也「日本におけるベートーヴェン受容」大宮眞琴、谷村晃、前田昭雄監修『鳴り響く思想――現代のベートーヴェン像』(東京書籍、1994年)、462-463頁。西原「わが国のベートーヴェン受容の歴史」、106-107頁。西原『「楽聖」ベートーヴェンの誕生――近代国家がもとめた音楽』、39-81頁。
[13] 『音楽界』第230号(1920年12月)、8頁。西原『「楽聖」ベートーヴェンの誕生――近代国家がもとめた音楽』、202頁参照。
[14] 徳川頼貞『薈庭楽話』(春陽堂書店、1943年)、14頁。東京音楽学校第21回定期演奏会(1909年11月27、28日)に関しては、『音楽演奏曲目梗概』第10(1909年)、および『東京芸術大学百年史』演奏会篇、第1巻、280-289頁参照。
[15] 徳川『頼貞随想』、101頁。徳川『薈庭楽話』、174頁。
[16] 徳川『薈庭楽話』、96-99頁。横田庄一郎『第九「初めて」物語』(朔北社、2002年)、75-85頁参照。
[17] 徳川『薈庭楽話』、97頁。
[18] 『演奏曲目解説及歌詞』(東京音楽学校、1924年)、および『東京芸術大学百年史』演奏会篇、第1巻、581-589頁参照。
[19] 『南葵文庫報告』第12(1920年)、9-10頁。『南葵音楽事業部摘要』第1(1929年)、44頁。
[20] 徳川『薈庭楽話』、120-121頁。
[21] 『南葵文庫報告』第12(1920年)、10頁。
[22] 遠藤宏「「南葵文庫」音楽史話」『音楽』(アポロ出版)第3巻第5号(1948年6月)、32頁。
[23] 『音楽演奏曲目梗概』第23、第26(1918年、1919年)、および『東京芸術大学百年史』演奏会篇、第1巻、472-477, 498-502頁参照。
[24] 近衛秀麿『ベートーヴェンの人間像』(音楽之友社、1970年)、5頁。
[25] 『音楽演奏曲目梗概』第28(1920年)、2-3頁。『音楽』(東京音楽学校学友会)第12巻第1号(1921年)、45-46頁。譜例は順に、《エグモント》序曲の第1-5小節(第1ヴァイオリン)、第5-7小節(オーボエ、クラリネット、ファゴット)、第42-44小節(チェロ、コントラバス)、第28-32小節(第1ヴァイオリン、チェロ)、第74-75小節(第1ヴァイオリン)。
[26] 『音楽演奏曲目梗概』第8(1908年)、および『東京芸術大学百年史』演奏会篇、第1巻、249-260頁参照。
[27] 兼常『演奏楽曲に就て』、1頁。
[28] 同前、2-3頁。
[29] 同前、4-10頁参照。
[30] 同前、11-12頁。
[31] 同前、21-22頁。[ ]内は原文ではルビ。引用文中の『案内記』とは、ヘルマン・クレッチュマー(1848-1924)の『演奏会場案内 Führer durch den Konzert-Saal』のこと。『オイレンブルク』、『ペテール』、『リトルフ』はいずれも楽譜出版社の名前。
[32] 「東京に於けるベートーフェン百五十年記念祭」『音楽界』第231号(1921年1月)、34頁。
[33] 以下を参照。『ベートーヴェン百年忌記念会図書陳列目録』〔展覧会カタログ〕(南葵音楽図書館、1927年)。『ベートーヴェン百年忌紀念会』〔演奏会プログラム〕(南葵音楽図書館、1927年)。
[34] 曲名の表記は『南葵文庫報告』第13(1921年)、15-16頁をもとに適宜修正を加えた。
[35] 曲名の表記は『ベートーヴェン百年忌紀念会』〔演奏会プログラム〕(南葵音楽図書館、1927年)に基づく。
慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構『Oxalis――音楽資料デジタル・アーカイヴィング研究』第3号(2010年)、21-26頁。
転載にあたり、正誤表の内容を反映させるとともに、「ベートーヴェン百年忌紀念会」のプログラムおよび註35を追記しました。
正誤表: http://hshinodainfo.starfree.jp/archive/100319oxalis_errata.html