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Hideko Satoh Profile

 1962年父 佐藤宗司(元フィリップスライティング株式会社取締役会長)と母 佐藤麗子(昭和36年〜54年東京音楽大学ピアノ科講師)を両親に持ち1962年東京都渋谷区代々木の厳格な家庭に生まれる。3才より母・佐藤麗子(1970年ショパン国際ピアノコンクール日本人初の審査員の永井進門下)からピアノの英才教育を受ける。小2~小6桐朋学園大学音楽学部付属子供のための音楽教室、中2~中3東京音楽大学付属音楽教室でピアノの英才教育を受けていたが、幼い頃から抱いていたピアノ教育への疑問が再捻出し、周りから聴こえてくるピアノの音色が汚く聴こえ、どうしても好きになれなく、クラシック音楽が大嫌いになり、1977年頃からポピュラー音楽(洋楽)にあわせ夜な夜な踊り狂った。

 1978年東京音楽大学付属高校ピアノ演奏家コースにて井口愛子が(門下には中村紘子氏など)日本全国より集めた小人数で編成したスペシャルクラスに抜擢され必死に練習はしていたが、どうしてもピアノが好きになれずクラシック音楽への疑問も払拭できず、1979年わずか1年弱で東京音大付属高校ピアノ演奏家コースを中退。佐藤の現在の鋭い感性、抜群のリズム感と豊かな表現力はすさみ踊り狂う日々により、わかりやすいポピュラー音楽にあわせて体全体を動かすことで培われたものである。このような昼夜逆転の生活を送っていたため普通ではいられなくなり複数の高校へ入退学を繰り返す。

 その結果、厳格な両親により1981年約半年間、某施設に入れられることになる。施設退所後、厳格な父により空手道場に入会させられる。そこで1回目の結婚相手と出会い婚約。健康な精神を保つためには運動が必要だと実感し、日本女子体育大学付属二階堂高校に編入し1983年無事に卒業。空手道場に通い体を動かし心身ともに健康になった佐藤は、​2年遅れた高校3年生の夏、またピアノの道に戻ることを決め、東京音大受験は秋頃決め、4か月余りの受験勉強で東京音大ピアノ科に合格、しかし以前のように本気で研鑽を積む気持ちにはなっていなかった。東京音大に入学し5月に1回目の結婚。

 しかしその年の12月、その後のピアノ人生に影響を及ぼす衝撃的な出会いをする。1980年ワルシャワにおけるショパン国際ピアノコンクール優勝者ダン・タイ・ソンである(原文は下記のChronologyにて参照)ダン・タイ・ソンが演奏するショパンピアノ協奏曲1番及び2番を聴き、ピアノの音色の美しさや演奏に魅了された。そこでそれまで日本で習ってきたピアノ奏法では、芸術的な音色を出すのは不可能だと強く思い、当時モスクワ音楽院の大学院生だったダン・タイ・ソンがモスクワで師事していた最初の師 Prof.ナタンソンに師事したいと思った。ロシア楽派の奏法を学ぶためにモスクワ音楽院留学を目指した。人生をピアノに捧げるため離婚。

 1985年旧ソ連白ロシア共和国ミンスク音楽院へ短期留学が叶った。そこでロシア楽派のエミール・ギレリスとヤコブ・ザークの弟子Prof.ナターリア・チョムキーナと出会った。音楽院ではアレクサンドル・ツェリャコフにも支持した。そこでソ連の生徒たちの素晴らしい演奏を聴き、すぐにでもソ連留学を希望したが大学を卒業するまで待つようにと両親や井口愛子先生の指示で1987年東京音大卒業。すぐの留学が叶わなかったため、自ら日本で長年習ってきた奏法からミンスクで習ったロシア奏法に変えるため、姿勢、指や手、腕の重力のかけ方や角度、すなわち弾き方全てを変える必要があった。それが現在の佐藤の美しい演奏に繋がっていく。

 1988年霧島国際音楽祭でダン・タイ・ソンの前でモーツァルト・ピアノソナタK333,第3楽章を演奏をした際「天才的な演奏!」との発言で佐藤の演奏を聴きにレッスン室に入りきれないくらいの音楽祭参加者が集まった。音楽祭後「あなたは非常に稀な才能の持ち主だ。私はあなたの自然な音楽とヨーロッパスタイルの演奏に魅了されている」と手紙を頂いた。

 また当時、ミンスク音楽院から帰国後には、Prof.ナターリア・チョムキーナから音楽院への入学許可されていたが、当時の日ソ間の協定によりかなわなかったため1年間待ったが1988年ポーランド国立ショパン音楽院研究科に留学をする。音楽院1年在学中、ロシア巨匠ゲンリッヒ・ネイガウス門下のProf.イリーナ・スィヤウォーヴァが国立クラコフ音楽院で教えていることを知り2年生で転校を希望。Prof.レギナ・スメンジャンカのアドバイスにより2年生で転校可能になった。ロシア楽派のロシア奏法を研鑽。

 ロシア奏法にはメロディーを歌で歌うように滑らかに奏でるのが特徴のロシア楽派と、剛鉄のように強靭なソビエト楽派に分かれている。1989年ベルリンの壁崩壊をポーランドで経験。

 1990年第12回ショパン国際ピアノコンクールに出願し必要な推薦状をダン・タイ・ソンとG・ネイガウス愛弟子から頂き、コンクールへアプリケーションを提出したが思わぬアクシデントによりショパン協会より寄付を求められた。しかし正義感の強い佐藤は断り第1次予選への出場すらできなくなってしまった。その結果、彼女にとって一生分の涙、苦悩、を味わいさらには自暴自棄に陥り、その後23年間苦しむこととなるピアノジストニアの種を生み出していくこととなる。精神的に落ち込む生活が何年も続いた。しかしその間もロシア奏法習得に寝る時間、食べる時間、身支度などの時間以外は、一日中練習や奏法研究に勤しんでいたが、精神的状態が悪かったためジストニアに向かう決定的な練習法も入れてしまっていた。日本で培った非音楽的な奏法をロシア奏法に変えるには、そう簡単にはいかなかった。

 1993年エミール・ギレリス門下の教授の内弟子としトロントに留学、その間もジストニアが悪化し、不安定な心のまま1995年帰国。その年の4月に予定されていた津田ホール他2箇所での帰国記念リサイタルに向けて練習を始めたところほとんど右手が動かなくなっていたが、そのままリサイタルを開催することとなり手首を非常に高位置に置いたポジションなどで工夫した奏法でこなした。しかし演奏する予定だった「ショパン/アンダンテスピアナートと大ポロネーズ」だけは、細かい動きが演奏不可能だったため演奏直前ギリギリまで悩んだ末、舞台袖で突然キャンセルをし評論家から酷評を受けた。それは、現在で言うところの完治不可能とされているピアノ奏者が陥るピアノジストニアであった。やむなく演奏活動停止。

1995年沖縄ムーンビーチ&ミュージックフェスティヴァルで(現沖縄国際音楽祭)にてチェリストの大山平一郎氏らとメンデルスゾーンピアノ六重奏を演奏予定だったが、極度のピアノジストニア悪化のため、急遽現地でキャンセル。沖縄ではヴィンチェンツォ・バルザーニ教授、岩崎淑氏、福田進一氏などが佐藤の奇妙な指の動きをみて愕然とした。佐藤はバルザーニ教授に「ピアノはあきらめて指揮者になる」ことを相談したが、バルザーニ教授のアドバイスで指揮への転科は考えなくなった。指揮者の様々な現状を知ったからだ。

 その後、東京音大付属音楽教室ピアノ科や国内/国際コンクールなどの審査員で後進の指導にあたるなか、鋭い感性と至極の音色をピアノで表現することが頭の中から離れず、自己リハビリと頭の中での演奏を熟成させていくことに専念。治る見込みもないまま月日は経ち1998年2回目の結婚相手に出会い結婚。結婚2年後に子供を授かる。出産後7か月目で相手が悪性リンパ腫発病。ベビーカーと車椅子を押す苦しい毎日が続くなか発病2年後の2002年夫と死別(享年28才)。その間も佐藤は、頭の中で演奏を熟成させていた。

 約21年間頭の中での演奏や試行錯誤し続けた結果、独自の鍵盤リハビリのみで2016年初頭に完全完治。元々持っていた機能を100%取り戻した。西洋医学の治療は一切行っていない。原因も完治方法も独自で明確に解明している。2023年4月より順天堂大学大学院 医学研究科 医科学専攻 神経学講座 修士課程にてピアノジストニア患者を1人でも多く救うために日々、研究にいそしんでいる。

 一方、演奏活動においては2018年浜離宮朝日ホールでのピアノジストニアからの完全復活リサイタルを皮切りに、現在まで各地でのリサイタルや動画配信を行い202年秋株式会社フォンテックより市販流通CDリリース、錚々たるクラシック音楽評論家から高評価を受けている。2023年11月6日東京文化会館小ホールにおけるリサイタルが、2024年音楽の友誌(2月号)にて40人の音楽評論家・記者の中の(音楽評論家)柴田龍一氏によりコンサート・ベストテンに選出される。

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