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島津久光の再評価

幕末、名君の斉彬の影に埋もれ、「保守的」とみなされ、過小評価が目立つ島津久光。しかし、俺は彼なしには幕末の薩摩藩が大藩にはなれなかったと考える。

まず、薩摩藩の特徴について、長州藩との違いを交えながらおさらいする。
歴史学では薩長と一括りにされるが、薩摩と長州は正反対である。

長州藩は、藩主の権限が弱く、自由闊達な雰囲気であり、良くも悪くも藩論が左右されやすい。実際、過激攘夷派→幕府に従順な俗論党→高杉晋作らの開国攘夷、と藩論は大きく動いている。伝統的な秩序を重んじる傾向は少なく、その為、身分を超えた奇兵隊など、明治時代の四民平等に繋がる画期的なアイディアも生まれやすかった。
ゆえに藩主が誰であるか、はあまり重要ではない。

一方、薩摩藩は伝統的な秩序や主従関係を最重要視する。
そもそも薩摩藩自体が人口の40%が士族という、公務員天国である。
西郷や大久保とて藩主に逆らうことはできなかったし、藩主が誰であるか、これが大きな影響を及ぼす。

さて、久光について。

彼は兄の斉彬を尊敬し、公武合体路線や藩の近代化路線を引き継いだ。

勅命を得て江戸に進軍し、実際に文久の改革は久光の要求内容が大きく反映された。その一方で過激な攘夷派志士である、有馬新七らを寺田屋で処分し、朝廷での大きな信用を獲得した。

久光の部下である西郷や大久保、小松らは、久光の行動が無ければ朝廷工作で大きな影響力を発揮できなかったのではないか。

西郷視点から見ると、久光は悪人に描かれる。しかし、西郷が島に流されたのは自業自得。主従関係が最重要視される薩摩藩で主人に向かって「田舎者」と言っただけでなく、久光の指示を待たずに上洛を独断専行で開始。

現代の企業や政府でこのような部下がいたらどうだろうか。問答無用で解雇するのが当たり前だし、組織のマネジメントを乱す危険人物に他ならない。
むしろ、命を奪われず、島流しで済ませただけ、久光は温情であると言える。

だが、15代将軍、徳川慶喜には久光も苦戦を強いられた。4候会議(久光、伊達宗城、山内容堂、松平春嶽)では慶喜に神戸開港などで敗北した他、幕府への影響力を大きく削がれた。

この実態を見た久光は幕府への信用を無くしていき、討幕路線へとシフトする。

ただ、久光も兄・斉彬も、武力討幕と、その後の共和国の国家体制自体は考えていなかっただろう。薩摩藩では武力討幕が主力路線と描かれがちだが、それは嘘であり、武力討幕を描いていたのは西郷や大久保ら一部だけ。藩論統一は厳密な意味では出来ていない。

久光自身も恐らく武力討幕自体は望んでいなかったと考える。武力討幕を断行した西郷や大久保らに対する怒り、それが廃藩置県の際の花火の爆発という形で現れるのではなかろうか。

以上、島津久光への再評価について述べてみた。幕末は、薩長=善、幕府=悪という単純な二項対立で描くことは出来ない。幕府、薩摩、長州・・それぞれの登場人物に思い描く未来があり、行動した。

だからこそ複雑で奥深い、面白いのである。

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