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エターナル インディア

WHEN I Sixty Nine 2nd Issue
エターナル インディア
1980年代 30歳の頃


ファーストランディング インディア 
インドの旅のはじまり
1980年の12月、30歳の頃初めての海外旅行で行く先はインドへ、正月休みを利用して独りで旅立った。楽しみと不安な気持ちで あった。空港に向かう新幹線車中で飛行機出発に間に合うか焦っていた。空港に着くと往復の航空券を払い込み、搭乗予定のエアーインディア機は空しく離陸したばかりで乗り遅れる失態を自ら犯したのである。翌日、何とかエアーインデア機に乗れたが友人の待つカルカタではなく、深夜のニューデリー空港に着いた。団体観光客の長蛇の列を尻目に、個人客だから真っ先にターミナルを出た。タクシー客引きの男から騙され、近くの民家風バンガローに暗闇の中、連れ去らせ一睡もせず、次の日早朝、再び国内線ロビーに戻った。カルカタ行きの航空券を買うため両替するのにも言葉は通じず右往左往して、やっと飛行機に乗ることができた。同乗の隣の紳士と話しをしながら彼の社有車がカルカタ空港に来ていたので市内中心部のレストランまで乗せて貰った。同じウオーター・ルー・ストリートにある調理長のジュネジャーさんの家に落ち着き、日本語のできるサルカルさがきて近くの旧くて大きなグレート・イースタンホテルに移りチェックインすることができた。こうしてインドの旅が始まった。

プロセス トウ アライバル インディア

何故、インドに行く事になったのか、時間を遡って、記憶を呼び起こし振り返ってみた。
1970年、大学を中退し、空港反対運動の続く三里塚に支援現闘として天浪団結小屋を拠点にして測量阻止、代執行阻止の戦いを担った。援農などを通して反対同盟員と交流し、懇意になり、同名のT村委員長やK原事務局長とも親交を深めた。三里塚の大地と農民に接し、精神的成長を果たした。今も人々の顔をありありと憶えている。
「日本農民の名において収用を拒む」との大衆的叛乱は房総半島に拡がりをみせ、全国的闘いになっていった。それゆえに国家権力の弾圧も熾烈を極め、連日、機動隊が団結小屋を包囲した。そうした日常が続く中、3年ほど経って、もう一つの敵、Y派との闘いが三里塚現地に及び、大衆闘争より組織防衛闘争が優先されていった。それに従う我もガチカチの組織員として指導する立場に立たされた。そこで勉強を教えていた周辺住民の家の長女で当時高校生のU子と将来、一緒になるとの決意を胸に秘め、誰にも言わず忽然と
三里塚から消え、九州行きの電車に乗った。
1973年の暮れであった。
博多の姉のアパートに転がり込んだ。弁当屋のバイトをしながら運転免許を取り、天神の喫茶店でウエイターもした。1975年成田の彼女が九州には行けないとの理由で別れた。そして朝日広告社の中途採用試験を受け、博多駅前の福岡支社に就職した。朝日新聞の広告枠を毎日埋める営業が主だった仕事で電話取材と称して押し売り営業が実状であった。連夜残業ばかりで先輩社員らの退社も相次ぎ、新入社員も強制配転をあり、社員の不満は怒りに転じていた。いつのまにか私も年長で係長の役職で、皆から過去の闘争などから信頼される立場になっていた。
入社二年後、1977年4月ついに私たちは福岡支社10名程で労働組合を結成し、私を委員長にして北九州市小倉にある本社に全員で乗り込み結成宣言を専務の前で読み上げ、各職場で組合参加を呼びかけた。山口から鹿児島まで15の支社にも連絡をとり、あっという間に100名を超える組合加入を実現した。その後福岡から乗り込んだ我々も泊り込み、直ちに団交を開催させた。
結果、女性の補助職扱い廃止、時間外労働など待遇改善の成果を勝ち取った。九州広告労協、地区労にも加盟し共闘体制も築いた。
しかしながら、会社側も突然、経営危機と称して希望退職募集を一方的に表明。組合も団交と職場スト決議で反対闘争を展開したが会社は指名解雇を強行した。「会社の指示定めに従わない者」との理由で初代委員長の私も解雇対象となった。総務部長が職場で札束を見せて、退職を迫る行為に思わず激怒し、札束を投げ返し、職場に散乱した風景は今でも忘れることができない。
その後、解雇撤回の闘いは裁判闘争を軸に進められ、私も組合専従となり、小倉に拠を移した。生活闘争資金を得るため、東京のマスコミ関連労組に明太子の販売や正月には注連縄販売を行い、福岡の那乃川にある理美容室で働く同級生のT井M雄君らにお世話になった。九州朝広労組支援共闘会議も結成され、福岡県議会にも取り上げられるなど争議支援の輪は確実に拡がりを見せた。
そして2年8ヶ月を経過して、会社側より裁判官を通して和解の提案があり、組合、支援は協議して和解を受諾することになった。
内容は解雇者全員の未払給与は全額払う、希望するものには職場に復帰できる。しかし委員長だった古田は会社が新会社を作る職場に復帰させるとの条件だった。組合は悪しき前例を残すと反対したが私本人はこの条件を呑み、和解を成立させた。但し、大分県中津市での新会社勤務を2年間の出向協定とし新たな勤務地中津市に赴いた。1980年の暮れであった。このように自分が選んだ意思とはいえ、身の回りの目まぐるしい変化だった。

しかし、ここから、本題の何故インドに向かったのかその答えを述べたい。
私が小倉での組合専従をしていた時、住んでいたアパートの前にインドレストラン「タージマハール」に雇われ、住んでいたパンジャブ人の調理長ジュネジャーさんと天理大学卒の通訳ベンガル人のサルカルさんと親しくさせてもらった。ジュネジャーさんが日本の寒さに耐え切らず、帰国の希望したがレストランオーナーは同意せず、対立した。見かねた私がジュネジャーさんが離日する際、空港まで見送りした。必ず、インドに来てと何度も念を押された。そんな事が合った中で、中津の職場も上司1名他事務1名の少ない人数で構成され、自由度も増し、賞与、バックペイも入り、経済的にも余裕があり、組合活動の疲れも取り、気分も一新させてこれからの人生を考え直してみたいと考えた。今こそ、インドに渡る機会だと判断し、年末から正月休みにインドに飛立ったのである。

ステイ エキサイテイング インディア
非日常が日常 インドの旅断章 

インドでの最初の夜を過ごした後、翌日よりカルカタ市内を探索、徘徊した。当時のカルカタは人口一千万人でその内百万人は完全失業者、他路上生活者百万人も抱える世界有数の過密都市。中心街は人がいつも湧き出る如く道路に溢れ、物乞い、物売りの声、音楽の喧騒と騒音に満ちている。まさに非日常が日常のカオスと化した人間くさい魅力を感じた。先ずはカルカタに慣れるため、市内をジュネジャーさんご子息と歩き回った。数日間、こうして過ごした後、ハウラー駅から列車で聖地ベナレス、ブッタガヤ等の観光旅行に出かけた。ホームにまで牛がいるベナレス駅に着いて、人の群れをかき分けるようにリキシャでホテルへ、旅装を解き、シャワーを浴び、食事後就寝。翌朝早く、ガートで日の出を見る川舟に乗った。聖なるガンガーは水面も乳白色で神々しく感じた。船上から対岸に死体を火葬する煙が昇り、隣では洗濯するドビー達が仕事している光景をみた。多くの男女がシバ神の聖なるご神体と信じるガンガーに何度も体を水に漬け、合掌するする姿が印象的だった。そこには何千年も変らぬ祈りがあった。次にバスで仏教誕生の遺跡めぐりに向かった。ツーリストバンガローに泊まり仏舎利城を見ながら、仏陀が実際に瞑想したという霊鷲山に徒歩で上り、山頂の聖地で瞑想した。見渡すとそこの一画だけ緑に富み、他の宗教ジャイナ教などのの聖地でもあった。痩せ衰弱した仏陀が下山し、出会った少女スジャータから乳粥を貰った尼蓮禅河も見た。仏陀がその後、ブッダガヤの菩提樹の元にゆき、悟りを開いたとされている。現地では仏陀の一生が田舎芝居等で演じられている。世界各国から仏教僧のアシュラムが集まっている。祇園精舎跡、初転法輪の地サルナート、世界最古の大学といわれるナーランダ大学跡の遺跡を訪ね終え、列車に乗りカルカタ・ハウラー駅に帰ってきた。すでに正月休み期間は過ぎて、中津の事務所宛に帰りの飛行機が取れないので帰りが延びるとの嘘の速達を送った。  相変わらずのカルカタで幾日か映画館やミュージアムを見て過ごし、この旅最後に東海岸の観光地オリッサ州のプーリ・コナラクにガイドと共に列車で向かった。途中、鉄道ストライキで州都ブハネシュワールに一泊し、砂浜の渚が美しいプーリに着いた。
向かう車中で向かい合わせに座ったのが今の妻であった。彼女との初めての出会いだった。
彼女はいとこと二人で大学の卒業旅行に同じ観光地に来たとのこと。次の日も太陽神殿のあるコナラクで再び会い、写真を撮ったり、会話し連絡先を交換しカルカタに帰ってきたら、是非自宅に来たらとの言葉も貰った。
帰って、彼女の自宅を訪ねたことはいうまでも無い。彼女の両親、長兄家族が歓待してくれ、彼女の父と一緒にクラシックカーパレードを見に行ったりした。そんな楽しいひとときを過ごした後、カルカッタより日本に帰ってきた。
 ロード ツウ マリッジ 結婚に至る旅
中津に帰ってから、手紙と国際電話を交わし映画と演劇に忙しそうな彼女に結婚は考えられないかとの求婚の意志を記した。彼女の答えは「あなたがインドに来れば、話し合える」との返事だった。
一方、自分の中津出向期間も2年が過ぎ、83年4月から北九州の小倉本社に職場が変り、中津から通勤していた。本社では二年前とは違い、敵の中に落下傘で降りる心地がして、二ヶ月ほどして退職願を提出した。会社対応は即、明日より退社との対応であった。  中津に帰り、今後のプランを考えながら、山岳修験道に興味を持ち、豊前市の求菩提山キャンプ場のアルバイトをした。シーズンの夏が終わり、下山し秋口より広告企画ネキストオフィスを社名として開業を決意し、この年1983年に独立した。年末まで仕事をし、時間がとれ、彼女と将来を話し合うため二回目のインドに旅立った。
インド東部のカルカタより西部に位置する彼女の両親の出身地グジュラート州に48時間かけての列車に乗り、二人で話し合った。未だ日本に行って結婚する決断がつかないとの返事だった。列車は長い旅の果て、アメダバッドに到着。彼女の親戚、ブハット・ファミリーと会い、親戚の人が車を出し、運転もして、グジュラート州全域を我ら二人を乗せ。一週間程、巡った。聖地Mtアブーからアラビア湾の聖地サルナート、ライオンの保護区、山中にある寺院、市内のガンジーアシュラム
親戚の住むバローダラ、ラージコット、バウナガルなどの街、ハラッパ文明の遺跡跡など
思い出に残る旅となった。
そして二年後1985年5月、彼女の家庭に不幸が起きた。お父さんがハートアタックで急逝したのである。報せを受けた私は遺影を作り、カルカタの自宅の葬儀に急遽参列した。遠くからも親戚が集まり、悲しみを共有し、癒すため数日を過ごした。お母さんはそれから白い色以外の服は着ず、寡婦の決まりを守った。遠い国からわざわざ来た私は感心され、印象が深まった様だった。
半年後、悲しみを癒す目的で日本に彼女を招待し初来日した。京都を観光したのち、中津にきた。友人達からも歓待され、福岡空港から帰っていった。展望デッキで見送った際
正直、心中に穴が空いた状態の落胆した感情を覚えた。そして翌年、中津に中古住宅を購入し、改装をして住んだ。
1年が経過して1987年、友人にも励まされ、インドへ最終的な結婚の承諾を得るため向かった。そして決意が通じたのか長兄より婚約の勧めがあり、彼女も同意の上、婚約のセレモニーを行った。
知り合ってから8年目の来年1月初めにカルカタで結婚式を行うことを決め、彼女も結婚後の新居となる庭、付きの自宅を確認するため日本に来た。日本の両親、姉妹にも参加呼びかけたが良い返事はもらえず、中津、大学の友人達が結婚式参加を兼ねてインド旅行をする事となった。

  八年の困難を越え、国際結婚へ

 1988年1月5日カルカタ市内の公証人役場で婚姻届を提出し、ラクシュミナラヤン寺院で結婚式、レセプションがインド伝統のやりかたで行われた。私もインドの結婚衣装の格好で多くの参加者の前で妻と並んで祝福を受けた。そこには8年の歳月が流れた末のゴールを迎えた37歳の満ち足りた笑顔があった。日本から来た写真家I松氏による撮影された写真は後に、大分の情報誌巻頭カラーグラビアに掲載された。セレモニー・パーティが終わり、日本からの来た友人達をニューデリーで見送った後、ハネムーンでラジャスタンに、ウダイプルの宮殿、砂漠のサンセットツアーの後、バスでグジュラートの親戚達と会って、二人は日本への帰途に着いた。
そして5月の連休に日本での会費制での披露宴パーティを中津市内のホテルサンルートで開いた。両親、姉家族、大学、労働組合、中津の友人達、インドからサルカルさん等150名程で会場一杯だった。当時国際結婚が珍しかったせいもあった。特に今や鬼籍に入られた地元の作家松下竜一氏と修験道歴史家の重松先生より温かいスピーチを頂いたことは記憶に残っている。遠い国から嫁をもらう事に反対した母親もマイクを持ち、結婚を許し、嫁を大切にするとの和解を皆の前で表明した。
引き出物は国際結婚を祝し、地球儀(エアボール)とした。そして結婚生活が始まった。
9月には、妻の親友ゴートミーさんも来日し
出産を見守った。24日、長女映紗を無事出産。二年後の11月には長男恒河が誕生しし、
あっという間に四人家族となった。
 その後、子供の成長をインドの母に見せるため、子供をつれて何度もインドに渡った。

 1980年からの十年間、30歳代はヒンズー教の四住期からすると、仕事を得て懸命に働き、結婚し、子を育てるための「家住期」に当たるだろう。我が人生から出会いを通してインドと切っても切れないものとなった。エターナル・インディア!
永久の誓いを込めて。 
アクロス ザ ユニバース
Nothing gonna change my world  Nothing gonna change my world

何ものも変えることなし  (完)

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