メザシとマスタード

おはようございます。物語には結末が必要だ。
 さっきサンドイッチを食べたが、マスタードが非常に効いていた。なぜマスタードを塗るんでしょう?不思議ですね。マスタード、わさび、塩、ソース。ああいうものは本当に必要なんでしょうか?人から聞いた話では、肉の臭みを消すあるいは消毒をするという味以外の役割がからしにはあるって聞いたんですけど、本当かどうかわかりません。わさびやからしのあの不快感。あの不快感があるから月並みな食材が美味くなるというマジックがあるのかもしれない。詳しいことは知りません。ポン酢、醤油、酢、タレ。ま、餃子のタレなんてのは油を分散させるという意味があり、消化と吸収を助けるという役割があるようなんですけどね。詳しい方がいたら教えてください。
 まあ食べ物に関して言いますとですね、美味しいものばかり食べていたらだんだんと美味しさの感覚が薄れてきてそれほど美味しくなくなる。んじゃないかなと私は思うんですね。時々美味しくないものを食べなければ、美味しさがわからなくなる。
 昭和の時代に活躍したある経済人の話。彼の好きな食べ物はメザシだったという。その方は当時のわが国の経済界のトップでありまして、経営者団体のトップも勤め、政治的な発言力も持っていました。ま、文化的な役割はそれほどなかったかもしれませんが。とにかく、昭和の中期以降日本は経済大国になりましたので、その経済大国の企業界のトップは社会的な名声もあったでしょう。接待もあったでしょう。馴染みのレストランもあったし、彼は贅沢をしようと思えばかなりの贅沢をできたんですが、好きな食べ物がメザシであった。
 この話は示唆と教訓に富んでいると思いますね。いい言い方をすれば「質素」。彼は質素さを忘れなかった。すべからく貧なるべし。財力があるからこそ謙虚で基礎的な生活を忘れないという戒めの気持ちを込めて、彼はメザシが好きだったのかもしれないですね。
 あるいは嫌な言い方をすれば、健康管理ですか。栄養価の高いものばかり食べていると血圧が上昇し、成人病にかかりやすくなり、血糖値も上昇する。それを防ぐために、彼は1日1回健康的なものを食べた。それの晩餐が「メザシ」だった。そういう言い方もできるんですが、皆さんはどう思われますか?
 国連は貧しい地域で食料支援を行っている。その事業に参加した人が先日ラジオで言っていたんですが、紛争地域に食料を支給したら現地の人たちが当たり前のような顔をするらしい。現地の人たちが感謝することは少なくて、支援されて当たり前のような顔をするらしい。まあ、食料支援する側が「支援する」ではなく「支援することを許してもらう」という観点が持たなければ相手は感謝しないのではないか?我が国も戦後、食糧支援を受けました。私が思ったのはですね、アメリカから食料支援を受けて、一般人はそれほど社会的に感謝しなかったんじゃないか?私たちは配給物資を食べたのに、それが当然だと考えたのではないか?そういうこともちょっと考えたんですけど、大昔の話ですから今から言っても仕方がない。

そうなんです。人は昔のことは忘れてしまうし、蒸し返しても意味がないんです。法律には時効というものがあります。著作権には有効期間があります。50年です。物事は一定の期間が過ぎると無かったことにしなければならないんですよ。そうしないと前に進めませんから。というわけで今日の投稿を終わりたいと思います。さようなら

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